7.侍女ミシェルの好奇心
マクラウド国の王城で使用人として働くミシェルは、ある日突然魔族の王女であるアリシアの侍女となることが決まってしまった。
本人の意志とは関係のない決定事項を告げられたとき、ミシェルの心を一瞬で支配したのは恐怖の感情だった。
人とは異なる魔力を持ち、残忍非道な行いをして存在を疎まれていた魔族。それを良しとしない国同士が一丸となり、ようやく魔族の国を滅ぼすことに成功したのはつい先日の出来事だった。
けれど、たった一人生き残った魔族の王女がいるという情報はすぐに城中に行き渡った。そしてその王女はこの国の第三王子シリウスを見て恋に落ち、婚姻を結ぶ形で城に住むことになったという信じられない話を同じ日に伝えられたのだ。
そんな魔族の王女アリシアの侍女を一名募集するという内容の通達が出されたとき、我先にと志願する者は誰もいなかった。それどころか誰もが冗談じゃないと言うように耳を塞ぎ目を逸らし、自分以外の人なら誰でもいいとコソコソと集まって話していた。
その翌日、志願者がいなければ無作為に一人が選ばれると通達があり、誰もが顔を青くしていた。魔族と一緒の空間にいることが耐えられないと辞職した人が後を絶たず、使用人の数そのものが減少しており選ばれる確率が上がっていたからだ。
―――そこで、ミシェルに白羽の矢が立ってしまった。
内気な性格のミシェルは、親から疎まれ家を追い出されて若くして働きに出ることになった。そこで城の使用人の試験に運良く合格したはいいものの、人間関係には恵まれなかった。
年上の女性の使用人たちはミシェルの性格を「面倒くさい」と言って嫌がらせを始め、仕事を押し付けるようになっていった。
それでも言い返すことなどできず、生活のためだと諦め言いなりになっていたミシェルは、“魔族の王女の侍女”という役職に投げ捨てられたのだ。
「―――ミシェル、使用人の皆があなたなら勤め上げられると推薦してきたの。それに、あなたもやってみたいと言っていたそうね?」
女性の使用人たちをまとめる家政婦長にそう笑顔で言われたとき、ミシェルは全てを悟った。周囲の使用人たちが笑いを堪えている姿を横目で捉えながらも、反論することなどできなかった。
小さく震える声で「はい」と返事をした瞬間から、ミシェルはアリシアの侍女となり、その運命から逃れられなくなったのだ。
「……ほ、本日より……身の回りのお世話を、させていただくことになりましたっ……」
侍女として働くことになった初日、ミシェルは恐怖で震えながらもそう挨拶を口にした。
きっと恐ろしい形相で睨みつけられるのだろうと思わず俯いてしまっていると、アリシアに顔を上げるよう促される。弾けるように慌てて顔を上げたその先で―――ミシェルは天使を見たと思った。
艶のある純白の髪は光を浴びて煌めいており、長い睫毛に縁取れた大きな琥珀色の瞳がじっとミシェルを見据えている。
天使のような見目麗しい魔族の王女は、ミシェルが知っている魔族とは全く違っていた。
身の回りの世話は不要で、部屋の掃除だけで良いと言い、翌日からはミシェルが部屋に入ると入れ替わるようにして廊下へと出て行った。なのでミシェルがアリシアと同じ空間で過ごす時間はほとんど無く、“勤務時間中ずっと魔族と一緒にいる”という恐れていた時間は最初から存在しなくなっていた。
「……よし、と……これでいいかな」
ミシェルがアリシアの侍女となり早くも十日が過ぎた頃、いつものように掃除や片付けを終えると大きく息を吐いた。
部屋の外へ出たアリシアがすぐに戻って来るかもと怯えることは無くなり、反対に少し話してみたいと思ってしまう程度には新しい仕事に慣れてきていた。
ここには顔を合わせる度に嫌味を言ってくる人や、仕事を押し付けてくる人はいない。ミシェルは以前よりずっと深く呼吸が出来ていることに気付いていた。
「……そろそろアリシアさまが戻って来る時間かな……」
壁掛け時計を見てポツリと呟きながら、ミシェルは扉を開いて廊下へと出る。
部屋の掃除を終えたあとは好きに過ごしていいとアリシアには言われているが、生真面目なミシェルはそのあとも城内で仕事を見つけては手伝っていた。窓に汚れはないか、床の掃き残しはないかと確認しながら廊下を歩いていると、遠目から使用人たちの姿を見つけてしまう。
なんとか彼女たちに見つからずに横を通り過ぎることができないかと考え、柱の影を移動しつつ近付いていく。自然と耳に届くのは、かつて嫌と言うほど聞いていた甲高い声だった。
「……あーあ、つまらないわ。暇つぶしがいなくなったからかしら」
「あははっ、言えてるわね。今頃魔族の王女にこき使われて苦しんでるんじゃない?」
「悔しいのは、その姿を見られないことよね」
まるで凶器のように尖った言葉たちに、ミシェルの足は止まっていた。先程まで深く吸えていた呼吸がとたんに浅くなり、無意識のうちに体が小刻みに震えていく。
このまま見つからないよう通り過ぎるのは不可能で、だからといって堂々と目の前を通ることはミシェルにはできない。その場から動けずに固まっていると、使用人たちのすぐ近くに突然現れた人影に気付いた。
無表情で使用人たちに琥珀色の瞳を向けていたのはアリシアで、コツコツと靴音を鳴らしすぐ近くまで優雅に歩く。
魔族の王女の登場にようやく気付いた使用人たちは、「ひっ」と短く恐怖の声を上げて立ち竦んでいた。
「……あなたたち」
張り詰めた空気の中で透き通るように響いた声には、僅かな怒気が含まれていた。
「ここで呑気におしゃべりしているということは、仕事は既に完璧に終えたということでいいのかしら?それとも、まさか仕事を放り出して陰口を楽しんでいるのかしら?」
「……っ、あ……」
「呆れたわ。この城にはあなたたち程度の子どものような使用人しかいないのかしら……私の侍女の方が何倍も優秀だわ」
アリシアの言葉にミシェルは目を丸くした。“私の侍女”がミシェルを示すのだとすれば、間違いなく今この瞬間に魔族の王女に褒められているのだ。
アリシアから漂う言いしれぬ気迫に、使用人たちは何も言い返すことができないようだった。震えながら俯いていたかと思えば、何も言葉を発さずにバタバタと逃げるように去って行く。
その後ろ姿を柱の影から見つめながら、ミシェルはやはりアリシアは魔族の王女なのだと認識させられていた。ごくりと喉を鳴らし、アリシアの次の行動をこっそりと待っていると―――。
「……ふぅ、出せていたかしら……魔族の威厳」
纏う空気がガラリと変わり、アリシアは緊張から解き放たれたかのように安堵のため息を吐いた。
「姉さんたちなら、あそこで使用人の頭を床に押し付けてヒールの踵で踏み潰すけど……私はそんなことしたくはないし……。言葉や雰囲気だけで相手を圧倒するのって難しいわね」
魔族の威厳、魔族の威厳……とブツブツと呟きながら、アリシアは自分の部屋がある方へと戻って行く。
ミシェルは口元を両手で押さえながら、信じられない気持ちで遠ざかる純白の髪を見つめていた。
突然第三王子シリウスと婚姻を結び、この城に住むことになった、たった一人生き残った魔族の王女。恐怖と憎悪の対象である魔族のはずが、ミシェルの中でアリシアはそこに当てはまらなかった。
むしろミシェルの周囲の人間よりよほど優しさを兼ね備えていると、不思議とそう思ってしまう。
「……アリシア、さま」
ミシェルはポツリと主の名前を呟くと、追いかけるようにアリシアの部屋を目指す。
小さく芽生えた好奇心は、暗く沈んでいたミシェルの心を明るく照らしていた。