6.衝突
部屋を出る許可を貰った翌日から、アリシアはミシェルが部屋の掃除に訪れると入れ替わるようにして外へと出た。
マクラウド国の城の中は、かつて過ごしていた魔族の城の中とは全てが違っていた。
無理やり連れてこられた人間の悲鳴や喚き声が廊下に響き渡ることはなく、使用人たちが魔力を使って突然決闘を始めることもない。似ている部分を探すならば、見るからに高価な装飾や絵画が至るところに目立つよう飾られていることぐらいだろうか。
アリシアは静かな廊下をゆっくりと歩く。
時折すれ違う使用人や衛兵は、アリシアを見ると目を見開いて固まるか短く悲鳴を上げて逃げていくかのどちらかだった。それでも、魔族の城に比べればとても快適なのは間違いなかった。
ここには、アリシアに罵詈雑言を浴びせながら暴力を振るったり、魔力の練習と言って延々と炎の魔獣に追いかけさせるような人はいない。前者に至ってはこれから現れないという確証はないが、少なくとも今は怯えながら歩く必要はないのだ。
(私が圧倒的な力を持っていて、それを見せつけることができたら、このまま平和に過ごせるのかしら。……違うわね、それだと姉さんや兄さんがしてきたことと何も変わらないし、この胸に居座る罪悪感が消えることはないわ)
誰にも気付かれないような小さなため息を吐き出し、アリシアは足を止めて窓の外に視線を向けた。
澄み渡る青空を見れば、魔族が滅ぼされてしまったという現実がまるで夢の中の出来事のように感じてしまう。
「……」
瞼を落とすと、あの日の光景が鮮明に思い出された。
轟く雷鳴、地面を打ち付ける雨音、そして瞬く間に崩れ去っていく一つの国。魔族の誰も、自分たちの国が人間によって滅ぼされるなど予想していなかっただろう―――と、そこまで考えてアリシアはパッと目を開いた。
(魔族は……どうして滅んだのかしら)
魔族の蛮行が常軌を逸し、人間たちの怒りが募っていることはアリシアは知っていた。やがて戦になるかもしれないとも思っていた。
けれど、魔力に太刀打ちできる人間がいるとは思っていなかったことも確かだ。
(魔族に対抗できる種族は一つしか思い当たらないけど……それとも特別な道具を使ったの?)
あの場では疑問に思わなかったことが次々と頭に浮かび、アリシアは立ち止まったまま床をじっと見つめていた。
遠巻きにアリシアの動向を気にしていた使用人たちが、床に磨き残しがあり、それを理由に罰せられるのではないかと身を寄せ合って震え始める。
魔族の王女が城に住むことになったと知らされたとき、城で働く人間のうち三割はそれが嫌で退職してしまったため、一人ひとりの仕事の負担が増え手が回らない場所もあるのが現状だった。
やがて、使用人たちの恐怖の視線がアリシアに届いた。
自らの存在が仕事の邪魔をしてしまっていることに気付き、急いで別の場所へ移動しようと足を進めると、曲がり角で何かにぶつかってしまう。
「―――ってぇな!」
舌打ちと共に鋭い声が飛び、アリシアは鼻を押さえながら視線を上げる。
ぶつかった相手は男性で、ひと目見ただけでシリウスの血縁者だと分かった。頭の後ろで束ねた髪と、苛立ちの込められた瞳の色がそっくりだ。
じゃらじゃらとピアスやブレスレット等のアクセサリーを身につけているところは、シリウスとは似ていない。
謝罪の言葉を口にしようとしたアリシアは、すんでのところで考え直す。いくらシリウスの血縁者だからといって、下手に出ては魔族の威厳を失い舐められてしまうかもしれない。
ぶつかった腹部のあたりを両手でパンパンと叩いていた男性は、黙りを決め込んだアリシアを睨むように見る。
「おいお前、謝罪の一つも言えねぇのか?誰にぶつかったと思っ……て……」
男性の言葉尻がだんだんと小さくなり、その目が大きく見開かれる。
頭のてっぺんからつま先まで分かりやすく視線が移動し、どうやらようやくアリシアが誰かということに気付いたようだ。
「……その白髪……お前が魔族の王女か?」
「……」
「どうして普通に廊下を歩いてる?部屋に監禁されてるんじゃねぇのかよ」
じろじろと不躾な視線を送ってくる男性は、アリシアを怖がっている様子はない。それどころか、何か面白いものを見つけたかのようにニヤリと唇の端を持ち上げる。
「へぇ……もっと派手な見た目を想像してたが、案外俺好みだな。シリウスには勿体なかったか?」
「……」
「おい、無視か?この俺が褒めてやってんだから何か言えよ」
「〜オズモンド殿下!お待ち下さい!」
殿下と呼ばれるということは、この男性はシリウスの兄弟で間違いないのだろう。
無視をしていたわけではなく、どう対応するのが良いのか考えていたアリシアは、血相を変え駆け寄って来る衛兵の姿を捉える。
衛兵はアリシアと目が合うと恐怖の滲む顔で素早く視線を逸らし、オズモンドに近付くと震える唇を動かした。
「……きょ、極力こちらの塔付近には立ち寄らないよう、通達が出ております」
「通達ぅ?何で俺がそんなモノ守らなきゃなんねぇんだよ。王子だぞ?好きな場所に行かせろ」
「……で、ですがっ……」
威圧感のあるオズモンドの態度に、衛兵が困ったように眉を下げてアリシアをちらちらと見る。
立ち寄らないようにという理由が自分にあるのだと察したアリシアは、そのまま回れ右をして来た道を戻ろうとした。が、痛いくらいの力で腕を掴まれ引き止められる。
「おい、何勝手にいなくなろうとしてる?」
「……」
アリシアとしてはどうしてこんなに構われるのか理由が分からず、敬語で答えた方がいいのか、それともシリウスと話すときのように必要ないのかとオズモンドの顔を見ながら考える。
ただ一つ分かるのは、オズモンドがアリシアの兄と同じような性格だということだった。他者を見下し、自分が優位に立っていると信じて疑わない性格だ。
「……何だよ、もしかして声が出ねぇのか?それとも……」
「―――兄さんが人の妻に手を出すような男だとは、思いませんでした」
オズモンドの言葉を遮るようにして背後から聞こえた声に、アリシアは不思議と安心していた。
コツコツと靴音を鳴らし近付いてきたシリウスは、微笑みを浮かべながらアリシアの肩を抱き、オズモンドの手から引き離してくれた。けれど肩を抱くその手には優しさの欠片もなく、少し痛いくらいの力が込められている。
シリウスの姿を見るなり、オズモンドは不愉快そうに目を細め舌打ちをした。
「お前の目はおかしいんじゃねぇの。誰が魔族なんかに手を出すって?」
「ああ、俺の見間違いでしたか。嫌がる彼女の腕を無理やり引き止め、自分の周辺に侍らせようと考えているのかと思ってしまいました」
シリウスの口調はあくまで穏やかなものだったが、心のこもっていない笑顔は不気味に思えた。
アリシアにはこの二人が仲の良い兄弟にはとても見えなかったが、シリウスとの取引に兄弟仲は関係していない。契約内容を思い返しながら、アリシアはようやく口を開く。
「……シリウス。私がこの人にぶつかって、この場にいることに不都合がありそうだったから戻ろうとしたら腕を掴まれただけよ」
「不都合ね。まぁ、魔族の王女に自分から関わりを持とうなんて思うのはバカくらいだから、そう気にするな。……ですよね、兄さん?」
何だか隠れた暴言がアリシアには聞こえたような気がしたが、それはオズモンドも同じだったらしい。再度大きい舌打ちをすると、忌々しそうに恨みのこもった目をシリウスに向ける。
「魔族の王女なんて爆弾を抱えてるくせに、相変わらず態度がデカいな。その女に足を引っ張られてさっさとこの城から消えてくれると嬉しいんだが?」
「ご忠告ありがとうございます」
口元だけ笑い、目元は全く笑わずにシリウスがそう言えば、オズモンドはそれ以上何も言わずに背を向けてズカズカと歩き出した。
そのあとを衛兵が慌てて追いかけて行き、広い廊下でアリシアとシリウスだけがポツンと取り残されている。遠巻きに様子を見ていた使用人たちはいつの間にか姿を消していた。
シリウスはため息と共にアリシアの肩を抱いていた手を離し、そのまま前髪を掻き上げる。
「今この場で契約内容を追加する。俺の家族とは極力関わるな、以上」
面倒くさそうに吐き出された言葉の理由をアリシアが訊ねる前に、シリウスはオズモンドとは反対方向へと足早に歩いて行ってしまう。迷った末、アリシアは口を開くとその背中に向かって声を掛けた。
「……間に入ってくれてありがとう、シリウス」
シリウスとしては、アリシアを助けたつもりは毛頭ないだろう。それを分かっていても、素通りせずに間に割って入ってくれたことがアリシアにとっての救いになったことは事実だった。
何も反応を見せず迷いなく足を進めるシリウスの背中が見えなくなるまで、アリシアはその場に佇んでいた。




