52.加速する歯車②
―――シリウスが、今日からこの部屋で過ごす。
それが単に部屋を入れ替えるという意味で放たれた言葉ではないことが分かり、アリシアの心臓は一気に暴れ出していた。
本来、夫婦であれば寝室を共にするのが一般的なのだろうが、アリシアとシリウスはその“一般”に当てはまらず、さらに周囲もアリシアが“魔族だから”という理由で部屋を別にしているのだろうと勝手に納得してくれていた。今さら一つの部屋で生活するとなると、下手な憶測を呼んでしまう気がする。
「……嫌なのか?」
思わず言葉を失っていたアリシアに、シリウスがそう問い掛けてくる。どこか縋るような視線は、アリシアの鼓動を速めさせるだけだった。
「い、嫌なんかじゃ……」
もごもごと口を動かしながら視線を空中にさまよわせると、アリシアはハッと気付く。
棚の整理をしていた侍女のミシェルが本を両腕で抱え、目をきらきらと輝かせてアリシアとシリウスを見ていることに。
(もしかして……ミシェルがいるから距離が近いのかしら?それなら私も、シリウスの妻として振る舞わないと……)
背筋を正し、シリウスに視線を戻してから冷静な声音になるよう努めて口を開く。
「……私も、一緒に居たいわ」
本音の混ざった気持ちを言葉にすれば、途端に顔に熱が集まってしまう。シリウスが嬉しそうに微笑むので、余計に気恥ずかしくなってしまった。
「……ミ、ミシェル。疲れが取れるよう甘い物と、それに合う飲み物を用意してちょうだい」
ミシェルから向けられる好奇の眼差しに耐えられなくなり、アリシアは一度心を落ち着けようと指示を飛ばす。
ミシェルは満面の笑みで「はい!」と元気よく返事をすると部屋を出て行った。静かに扉が閉まったあと、シリウスが不思議そうな顔でポツリと呟く。
「あの侍女、いたのか」
「……えっ?ミシェルがいたから、今の言動があったんじゃなかったの?」
「いや、全然気付かなかった。あんたしか見えてなかった」
サラリと告げられた言葉は、アリシアの心臓をぎゅうっと掴む。このまま無意識に気を持たせるような言動をされ続けていたら、うっかりと気持ちが口から滑り落ちてしまいそうだ。
今のこの歪な契約関係を、アリシアは心地良いと思ってしまっている。笑顔を取り戻せるその日まで、この関係を自らの手で壊すようなことをしたくはなかった。
「……か、会議はどうだったの?」
あからさまな話題の逸らし方にシリウスは不満そうに眉を寄せつつ、肩を竦めてから会議であったことを教えてくれた。
シリウスの家族は相変わらずのようで、この国の危険性が嫌でも分かってしまう。王族が宰相たちの傀儡になり続けることを防ぐために、シリウスは自らが王になろうと水面下で動き続けているのだ。
「……俺があんたと部屋を一緒にすることには、もう一つの意味がある」
「もう一つの……意味?」
向かい合う形でソファに腰掛けていたアリシアが首を傾げると、シリウスは頷いた。
「今回、第二王子のデリックと宰相から少し目を付けられたと感じた。まぁ兄の方はいいとしても、宰相からの監視が俺につけられるかもしれない。……となると、あんたとは同じ部屋にいた方が今後の計画を立てやすい」
「それもそうね。……それで、部屋を一緒にする本来の意味の方は何かしら?」
「……は?」
「……え?」
信じられないとばかりに眉を寄せられ、アリシアは間の抜けた声を漏らしてしまった。
どこか苛ついた様子のシリウスが足を組んで口を開く。
「まさか、忘れたのか?あんたの涙を拭ってやるから、城に戻ったら部屋を一つにしようって言ってあっただろ」
「……!わ、忘れていないけど……それが本来の理由だとは思わないじゃない……!」
アリシアは思わず言い返してしまった。シリウスが王になるために必要な過程として部屋を一緒にするのが一番の理由ならば納得するが、それがアリシアの涙を拭うためとなればにわかには信じられない。
―――まるで、大切にしてもらっているかのような錯覚に陥ってしまうからだ。
膝の上でぎゅっと手を握り、アリシアは喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。代わりに探るような視線をシリウスに向けてしまう。
すると、シリウスは大きなため息を吐いた。
「……もしかして、俺がまだあんたを魔族の王女としてしか見てないって思ってるのか?」
「そ、れは……」
「それは?」
「……思っていないけれど……そう、なの?」
自信なさげに問い掛けながら、アリシアはそわそわとした気持ちを隠して大人しく答えを待った。
シリウスの口がゆっくりと開いたところで、タイミングを狙ったかのように扉を叩く音が響く。ミシェルが戻ってきたのだろうと、アリシアは少し残念な気持ちで立ち上がった。
「―――アリシア」
扉に手を掛けようとした直前、シリウスに名前を呼ばれ振り返る。真っ直ぐにアリシアを見つめる強い眼差しに、思わず呼吸が止まった。
「俺は、あんたを一人の女性として見てるから。……魔族かどうかは、もう関係ない」
ぶわりと花が咲きこぼれるように、アリシアの胸に喜びの感情が広がった。その喜びを噛み締めながらこくりと頷き、僅かに震える手で扉を開く。
(……感情が顔に出ていたらどうしよう。ミシェルに変に思われるかしら―――……あら?)
扉の先には、予想通りミシェルが立っていた。サービングカートにティーカップとポットが置かれ、すぐ横には見た目が華やかなケーキが二人分用意されている。
アリシアが驚いたのは、ミシェルの後ろにいた男性だった。黒髪に碧眼という珍しい容姿の男性は間違いなくジェルヴェなのだが、どういうわけか厨房にいる料理人のような格好をしている。
疑問符を浮かべながらジェルヴェを凝視していると、カラカラとカートを押して部屋に入ろうとしていたミシェルが慌てて立ち止まった。
「アリシアさま、ご説明が遅れてすみません!こちら、料理人の方なのですが……どうしてもアリシアさまの嗜好を訊ねたいそうです。今後の食事の参考にと仰っていて、この棟にも普通に入ることができたので……もしかしてもうお会いしたことがあるのですか?」
ジェルヴェが許可された人物しか入れないというこの棟に入ることができるのは、単純にシリウスの従者だからだろう。返答に困ったアリシアに、背後からシリウスの助け舟が出る。
「俺が個人的に気に入っている料理人なんだ。今後世話になるから権限を持たせている」
「そうなのですね!作ってくださったケーキ、とても美味しそうですよ」
特に疑問を持つ様子もなく、ミシェルはにこにこと笑顔でテーブルの上にティーセットの準備を始めた。紅茶を注ぎ終えると、指示をせずとも席を外すと言って廊下に出たのは、おそらくシリウスがいるので気遣ってのことだろう。
ミシェルが部屋を出るなり、ジェルヴェはすぐさまその場に片膝をつきシリウスを見上げる。
「シリウスさま、取り急ぎご報告致します」
「ああ。お前が扉から来たということは……外に見張りがいるのか?」
「はい、この棟の入口付近の見張りも数が増えていました。咄嗟に料理人に扮して来ましたが……まず、そちらのケーキには手を出さないようお願い致します」
ジェルヴェが鋭く睨むような視線をケーキに向け、アリシアはその言葉の意味に気付くと眉を寄せた。
「そんな……まさか毒が?」
魔族に毒は効きにくいという利点があるが、それでも苦しむことに変わりはない。アリシアを狙ったものか、それともシリウスを狙ったものかは分からないが、排除しようと動く人物がいることに違いはないのだ。
ところが、緊張感を滲ませたアリシアの耳に届いたのは想像もしていない言葉だった。
「―――毒じゃない。媚薬の類だ」
吐き捨てるようにジェルヴェがそう言い、アリシアは瞬きを繰り返す。
毒よりも聞き慣れない単語に呆然としていると、シリウスが可笑しそうに笑い声を上げた。
「……なるほど。既成事実を作って俺を落とし込む作戦に出たか」
足を組み替え、ソファの肘置きに頬杖をついたシリウスの妖艶な笑みは、アリシアにとって媚薬よりも甘く深い罠のように思えた。




