43.絡み合う感情③
湖まで向かう乗馬レースは、騎士の一人の合図によって開始した。
途端に先頭を駆け出したのはシリウスだ。栗色の髪が颯爽と風に揺れている。
「それじゃあ、先に行くからな」
余裕そうな笑みを浮かべたシリウスの背中がどんどん遠ざかる。その後ろを追い掛けるようにオズモンドとマルヴィナの乗る馬が走って行った。
「ははは!シリウスの選んだ馬に負けるもんか!しっかり掴まってろよマルヴィナ!」
「わ、分かっているわ!」
何故か勝負に参加することになっている様子のオズモンドが高らかに笑いながら、顔を赤くして背中にしがみつくマルヴィナを乗せて風を切って行く。
結果的に二人の距離が縮まったようならそれでいいと思いながら、アリシアは背後で手綱を握るラウルに声を掛けた。
「……ラウル、私たちも行きましょう」
「すみませんアリシアさま、俺に乗馬のテクニックがあれば優勝をお贈りできたのですがっ……」
「え?……いいのよラウル、勝敗は気にしないわ。乗馬の練習はこの国の騎士になってからしかできていないでしょう?」
魔族の国にいたとき、ほとんど城の外へ出なかったアリシアの護衛騎士であるラウルもまた、外へ出る機会には恵まれなかった。なので、慣れない乗馬を今こうしてこなしているだけでもすごいことだと分かっている。
他の騎士たちは乗馬に慣れているだろうが、アリシアを追い越すことを恐れているのか後ろをぞろぞろとついてきていた。このままではラウルにあまり話しかけることが出来なくなってしまう。
くるりと振り返ったアリシアは、ここでも魔族の威厳を意識して口を開く。
「……あなたたち、護衛騎士なのに護衛対象についてすらいけない凡人なのかしら?」
声音を低めに下げれば、アリシアの言葉は効果が抜群だった。騎士たちは焦ったように手綱を握り直し、既に姿の見えない護衛対象たちを追いかけて行く。
恐怖心を利用したようで少し心が痛むが、これでラウルとの会話を誰かに聞かれる心配はなくなった。ホッと息を吐けば、ラウルの小さな笑い声が耳に届いた。
「すごいですね、アリシアさま。たった一声で誰かを動かす……王女として相応しいお姿です」
「……それは違うわ、ラウル。彼らが私の言葉を聞くのは、魔族が植え付けた恐怖の種によるものよ。私に本当に誰かを動かすだけの力があれば……もっと多くの命を救えたはずだから」
恐怖で他人を支配したところで、いざ命の危機が訪れたときに身を挺して護ってくれる人がどれだけいるのだろう。少なくとも、魔族の国が滅ばされたあの日、アリシアの家族を護ろうと動く者は誰もいないように思えた。
誰かを動かすことができるのは、揺るがない自分の意志を持ち、それを実行できる人だけだ。他人を惹きつけて止まない力を持つ―――そう、シリウスのような人なのだ。
(シリウスの生き方は、私にはとても真似できなかった。だからこそ眩しくて、羨ましくて……強く惹かれるのね)
横に流れていく景色がきちんと色付いて目に映るのは、今アリシアが自らの足で歩みを進めようと決めることができた恩恵だ。魔族の国にいた頃のアリシアならば、相変わらず見える景色は濁ったりくすんだりしていただろう。
「……俺が“そんなことはありません”と口先だけで言ったところで、アリシアさまのお心には響かないのでしょうね」
ポツリと小さく呟かれたラウルの言葉は、とても悲しみに満ちていた。
「アリシアさまのお側に仕えていても、俺には何も変えることができませんでした。喜びや悲しみの感情を表に出すことが徐々になくなってしまっていることに気付きながら、俺は……」
「ラウル、それ以上言ったら怒るわよ。私はあなたとフレデリカがいてくれたから、自分を保てていたの。……間違いなく、あなたたちは誰よりも私に幸せの感情をくれていたわ」
「……アリシアさま……」
手綱を握るラウルの骨ばった手の上に、アリシアは自らの手を添える。何の傷も負っていない自分の白い腕が、とても情けなく目に映った。
もっと治癒能力が追いつかないくらい傷だらけになれていたら、何かが変わっていたのだろうかと考えたところで、何もかも手遅れなのだ。
「改めてお礼を言わせて、ラウル。こんな私の元に、また戻って来てくれてありがとう」
「……っ、当たり前です。もう二度と、俺とフレデリカを遠ざけようとしないでください」
「そうね……命の危険を感じない限りは」
「そこは“勿論よ”って答えてくださいよ!」
ラウルの笑い声が優しく耳元をくすぐる。
こんなときに一緒に笑えないことをもどかしく思いながら、アリシアは話を本題へと戻すことにした。
「それで……私が訊きたかったのは、マルヴィナの邸宅であなたが何かを探すように視線を動かしていた理由なの。誰か知り合いでもいるのかしら?」
アリシアの手のひらの下で、ラウルの手が僅かに動く。隠したいことがあるなら無理に聞こうとは思っていなかったが、少しの沈黙のあとで困ったような声が返ってきた。
「えー……と、そのですね。フレデリカが数日前から用事とか言って宿からいなくなったのですが……」
「フレデリカが?……まさか、私たちを追いかけて隣国に来たんじゃないかと思っているの?」
確かにフレデリカは、大人しく窓際に座って景色を眺めるようなタイプではない。アリシアに関してお預けを食らっている現状から、何かをしなくてはと動き出すことは予想できてしまう。
けれど、ここはロンサール商会を営むマルヴィナの家の敷地内だ。部外者がそうやすやすと侵入できる場所ではない。
「さすがにフレデリカでも無謀な行動だと思うわ。心配しすぎじゃないかしら」
「俺もまさかとは思いますが、フレデリカならやりかねない気がしまして……」
「そうね……そうならないよう祈るしかないわね。せっかく会えたと思ったら牢屋行き、なんて展開は嫌よ」
ラウルの行動の理由がフレデリカに関することだと分かり、それからアリシアはフレデリカについて楽しく話しながら湖までの道を進んで行った。
木々の間を抜けると一面に光を受け輝く湖が現れ、そのあまりの絶景に言葉を失ってしまう。アリシアとラウル以外の全員が既に湖の前に集まっており、近付いていくと真っ先にオズモンドが笑い声を上げた。
「ははっ、言い出したやつが一番遅えじゃねーかよ!敗者はそうだな……このあと一日中俺の使い走りになるのはどうだ?」
「……兄さん、敗者が勝者の使い走りになるのなら、俺たちにも当てはまりますよね?兄さんは甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれるのですか?」
「ぐっ……」
どうやら一番先に湖に辿り着いたのはシリウスのようだ。オズモンドは悔しそうに顔を赤くすると、それ以上何も言えなくなったのかフンと鼻を鳴らして顔を背ける。
そんな兄弟の様子を呆れ顔で見ていたマルヴィナは、馬から降りたアリシアの元へと駆け寄って来た。その瞳に初対面の頃に感じた敵対心は表れておらず、そのことがやけに嬉しく、そしてむず痒くなってしまう。
「アリシア、向こうにボートが二艘あるからさっそく乗りましょう。点検は今朝済ませてもらっているからすぐに乗れるわ!」
「ええ、ありがとう。マルヴィナはオズモンド殿下と乗るでしょう?私は……」
アリシアは言い淀みながらちらりとシリウスに視線を向けた。流れで言えば、夫婦としてシリウスと共にボートに乗ることにはごく普通のことなのだが、アリシアたちの関係にその“普通”は当てはまらない。
シリウスが嫌がるような素振りを見せたらどうしようかと思ったが、返ってきたのは可笑しそうな微笑みと、親指と人差し指で作られた丸印だった。
けれど、ホッと安堵のため息を吐き出したアリシアの耳に、次の瞬間とんでもない言葉が飛んでくる。
「何言っているのよ、アリシアは私と乗るの。それで―――オズモンドとシリウスが一緒のボートよ」
笑顔のマルヴィナを見つめながら思わず固まっていると、「はあぁ!?」という静寂を切り裂く声が近くで響いたのだった。




