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32.暗闇を照らす光③


「……アリシア?」



 シリウスがアリシアの姿が見えないことに気付いたのは、人混みに流され始めて少し経った頃だった。

 いつもと変わらず賑わいを見せる町並みを眺めながら、アリシアにどこを案内しようかと考えていたせいで、はぐれたことに気付くのが若干遅れてしまった。振り返った先に契約を交わした妻の姿は無く、シリウスはすぐに口を開く。



「……、」



 けれど、何も声を出さずにすぐ口を閉じた。魔族の王女(アリシア)の名前は既に世界各国に広がっており、この人混みの中で名前を叫べばすぐに混乱状態になってしまうだろう。

 魔族の存在は人々にとって恐怖を感じさせるものであり、親しい人の命が奪われた者にとっては恨むべきものでもある。たった一人生き残ったアリシアに復讐を考える人間が一人や二人いても、何も不思議なことではない。


(俺のそばにいれば正体が露呈してもどうにでもなると思ったが……着いて早々にはぐれるとは予想してなかった)


 日中の人の流れを甘く見ていた自分に舌打ちしながらも、シリウスは冷静に人混みを抜け大通りから脇道へと入った。

 談笑している恋人たちの後ろを通り抜け、死角がある建物の角で立ち止まると影の従者の名前を呼ぶ。



「ジェルヴェ」


「―――はい」



 どこからともなく姿を現したジェルヴェは、目を引く碧眼をじっとシリウスに向けてきた。その瞳を目を細めて見返してから口を開く。



「どこでアリシアがはぐれたか、見てたな?」


「……はい。改装中の花屋の付近です」


「裏道が多数入り組んでるところか……ジェルヴェ、先に向かって周囲を警戒しててくれ」



 いつもはシリウスの指示に忠実に動くジェルヴェが、珍しくすぐに動こうとはしなかった。その理由は明白で、苦しげな表情の中にシリウスへの心配が含まれていることがよく分かる。

 だからこそ、ジェルヴェにはハッキリと伝えなければならなかった。



「……ジェルヴェ。お前がアリシアを良く思っていないことは分かるし、理解できる。ただ、俺は彼女を“仇である憎い魔族”と一括りに決めつけることはもうやめた」


「……っ、シリウスさま……!」



 それ以上は聞きたくないとばかりにジェルヴェが声を上げる。それを片手で制し、シリウスは迷うことのない目を向けた。



「これは懇願じゃない、命令だジェルヴェ。誰よりも魔族を憎む俺が出した結論の意味を、よく考えてみろ……お前になら分かるはずだ」



 ジェルヴェの瞳がゆらゆらと揺れ、それでも唇を強く結びシリウスに向かって頭を下げた。次の瞬間には地面を蹴って姿を消しており、命令通りにアリシアの元へ向かってくれたのだとホッと息を吐く。


(……ここで拒絶されたら、俺はあいつを手放すことを考えなきゃならなかった。それだけは避けたかったから……そうならなくて安心した)


 ジェルヴェもシリウスと同様に、大切な人の命を魔族に奪われた過去を持つ。そのせいで憎しみの感情に支配され、自分の命も顧みず汚れ仕事を請け負って生計を立てていたところに出会い、シリウスは手を差し伸べた。

 その手を掴んでくれたジェルヴェは、徐々に感情を制御することを学び、シリウスの忠実な従者となってくれていた。けれど過去の憎しみが無くなることはなく、先ほども御者に扮したジェルヴェのアリシアを見る目には殺意が込められていたことを思い返す。


 仲良くなってほしいとは言わないが、どうか少しでもアリシアに対する警戒心が薄れてくれればいいと思いながら、シリウスは足を踏み出した。



 人混みの間を縫うように戻りながら、ジェルヴェが言っていた改装中の花屋の近くへと辿り着く。

 けれどその付近にアリシアの姿は見当たらず、さらにジェルヴェがいる気配も無い。はぐれた時アリシアならば下手に動かず待っていてくれると思っていたシリウスは、自らの予想が外れたことでぐっと眉を寄せていた。

 周囲に何か痕跡がないかと視線を走らせたところで、普段とは違う緊張感が人々の顔に現れていることに気付く。



「……ねぇ、聞いた?この裏道に魔族が現れたらしいわよ」

「……聞いたわ。錯乱状態の男の人が叫んでたもの。もしかして……襲われたのかしら」

「……でも、魔族の王女って誰にも手を出さないはずじゃなかった?」

「……そう聞いていたけど、叫んでたのは暴漢まがいのことをするって有名なやつだったらしいわよ。無理やり乱暴されたなら、怒って攻撃しちゃうんじゃない?」



 すぐ近くでヒソヒソと会話をしていた女性たちの言葉が耳に入り、シリウスの体は一気に冷水を浴びせられたように冷たくなった。

 アリシアの存在がバレて広まっていることよりも、暴漢に襲われたということの方が気になってしまう。

 詳しく話を聞きたいところだが、シリウスの顔は城下町では広く知られてしまっている。今は外套のフードを被り服装も変えているが、あまり目立つとアリシアに関して問い詰められてしまうだろう。



「……」



 ぐっと手を握りしめ、シリウスは裏道へと入って行った。

 魔族の王女(アリシア)の出現情報により人気がないものかと思っていたが、血走った目をした人たちが何人もうろついている。その手には武器になり得そうなものが握られており、魔族に恨みを持つ人たちなのだとすぐに分かった。


(……アリシアの存在が町中でバレればこうなることを、俺は予想出来ていたはずなんだ。それなのに……くそっ、この国を知ってもらいたいだなんて、どうしてそう考えた?)


 最近のシリウスは、自分でも不思議なくらいアリシアに気を許していた。恨んでも恨みきれない魔族のはずが、アリシアのどこにも憎い魔族の影は見当たらない。

 それどころかもっと深く知りたいと思ってしまい、あろうことか琥珀色の瞳に吸い込まれるようにキスをしてしまった。結局あの日のことをアリシアは覚えていなかったが、シリウスは今でも毎晩思い出しては恥ずかしさに頭を抱えていた。


 マクラウド国(この国)でアリシアが頼れる人間は限られている。

 その内の一人が間違いなくシリウスであり、たまに見せる助けを求めるようなアリシアの視線を嬉しく思う自分がいることを、もう否定はできない。利用されるくらいなら利用してやろうと、そう決意して持ちかけた婚姻の契約を後悔したところで、既に手遅れなのだ。


(……アリシアの願いを叶えてやりたいと、俺が笑顔にしてやりたいと……そう思った時点で、俺の負けだ)


 アリシアのどこまでも純粋な想いを、ひたむきな願いを、シリウスは知ってしまった。

 たった一人の生き残りとなってしまった魔族の王女にできることは、自分が国王となる道の先に居場所を作ってあげることだ。そのためにはまず、段階を踏んでいかなければならない。



 背の高い建物に囲まれ日陰の多くなっている裏道を進みながら、シリウスは周囲に神経を張り巡らせていた。暫く歩いたところで、道端にうずくまって震えている少年が目に入る。

 素早く駆け寄ったシリウスは、その小さな背に優しく手を当てて口を開いた。



「大丈夫か?どうした?」


「……っ、ぼ、僕……友達の仇をとろうと思ってっ……」



 大きな目を見開き、涙をボロボロと零しながらか細い声でそう言った少年の手には、血塗られたナイフが握られていた。

 動揺を表に出してはいけないと、努めて冷静にシリウスは少年に問い掛ける。



「……魔族の王女を、刺したのか?」


「……あいつ、僕がナイフを振り上げても避けようとしなかったんだ……それどころか、ナイフが刺さったあとも“ごめんね”って……!どうしてだよ……!」



 アリシアが少年のナイフを受け入れたときの様子が、シリウスの瞼の裏に簡単に浮かんだ。

 全てを終わらせるつもりだったあの日、シリウスの振り下ろした刃を受け入れようとしたように、アリシアは魔族の犯した罪から目を逸らさなかったのだろう。

 それでも――。



「……ねぇ、お兄ちゃん……魔族ってみんな悪いやつらなんだよね?酷いやつらなんだよね……?」



 涙に濡れた瞳は、肯定してくれと訴えているようだった。シリウスは少年の手からナイフを抜き取ると、そっと腕を引いて立ち上がらせる。



「―――君の目で、それを確かめるといい」



 憎しみの渦の中心に飲み込まれ、孤独ながらも純真な瞳の輝きを失わないアリシアを想いながら、シリウスは迷わずに歩みを進めていた。



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