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18.幽霊の噂②


 どうして深夜に近いこんな時間に、オズモンドがアリシアの部屋の目の前にいるのか。

 その疑問を問い掛けるより先に、オズモンドがびしっと指先を突き付けてきた。



「おおおお前、いきなり扉を開けるな!驚くだろうが!」


「……」



 どちらかと言えば驚かしに来たのはオズモンドの方だと思いながら、アリシアは慎重に言葉を選ぶ。



「外で物音がしたので確認しようとしただけです。オズモンド殿下はどうしてここへ?私に何か用ですか?」


「は?どうして俺が魔族なんかに用があると思うんだよ」



 魔族に対しても高慢な態度を変えないオズモンドは、命知らずと言うべきなのか自分が一番優位だと信じて疑っていないのか。

 兄姉が相手なら……と考え始めてしまったアリシアは、もういなくなってしまった人たちのことを思い出しても意味がないと一度目を伏せ、再度視線を上げてから口を開いた。



「……では、どうしてですか?」


「そ、それは……」



 アリシアの部屋から漏れる僅かな明かりが、オズモンドの動揺した瞳を照らす。態度は大きいが、嘘を吐くことは苦手なようだ。

 じっと見続けていると、オズモンドは大きな舌打ちを一つアリシアに投げつける。



「散歩してたんだよ!悪いか!」


「……散歩」


「そうだ、酔い覚ましにな!」


「……酔い覚まし」


「おい、繰り返すな鬱陶しい!」



 そう声を荒げるオズモンドから、酒の匂いは全くしない。アリシアに会いに来たわけでもないとなれば、一体目の前の第一王子の目的は何なのだろうか。


 ―――『今この場で契約内容を追加する。俺の家族とは極力関わるな、以上』


 アリシアの脳裏に響いたのは、初めてオズモンドと接触したときにシリウスから伝えられた言葉だった。

 “極力”ということは、関わること自体を禁止されたわけではない。それでもこのまま会話を続けても得られる情報はないだろうと、ようやく立ち上がり服の表面を手で払っているオズモンドを前に、アリシアは半分扉を閉めた。



「……では、どうぞお散歩を続けてください。ただ……オズモンド殿下のお散歩が使用人や衛兵に幽霊扱いされてしまっているので、気を付けてくださいね」



 忠告だけして扉を完全に閉めようとしたアリシアだったが、オズモンドの伸びてきた手によって止められてしまう。

 思わず体を強張らせたアリシアの耳に、「ちょっと待て」と戸惑ったような声が届いた。



「俺がこんな時間にこの棟に入ったのは、今日が初めてだぞ?何だよ幽霊って」


「……え?」



 アリシアの口から零れた小さな声と同時に、上の階からドンッと物音が響く。

 アリシアとオズモンドが同時に天井を見上げると、それ以上物音が聞こえてくることはなかった。


(……この上は三階で、幽霊騒動があったのも三階。オズモンド殿下が見間違えられていたわけじゃないということは……今の音は?)


 呆然と天井を見上げて固まっていたアリシアは、ぐいっと腕を引っ張られよろけながら廊下に出る。何が起こったのか分からずにいると、信じられないことにオズモンドがアリシアの部屋に足を踏み入れながら指先を再度びしっと突き付けてきた。



「お前、見てこい」


「……え」


「聞こえなかったのか?俺はここで待ってるから、上の階を確認してこいよ。魔族なら例え幽霊の仕業だとしても余裕で倒せるだろ?」



 ふんと鼻を鳴らしたオズモンドにそう言われるが、とても受け入れられる命令ではなかった。アリシアは恐怖で今すぐにでもベッドに潜り込みたい気分なのだ。

 けれど、魔族であることを引き合いに出されれば断れなくなってしまう。



「……っ」



 唇を結び、寝間着姿のままアリシアが覚悟を決めたとき、背後から靴音が聞こえてきた。振り返ると、暗闇に包まれ月明かりのみが仄かに照らす廊下から、徐々にこちらに向かって来る人影が目に入る。

 咄嗟に両手を体の前に伸ばし、いつでも魔力を使える準備をする。けれど月明かりが人影の姿を浮かび上がらせたとき、アリシアはゆっくりと手を下ろした。



「……シリウス?」



 幽霊が姿形を真似して現れたわけでなければ、無表情でこちらに向かって来るのはシリウスだ。

 その瞳がアリシアではなくもっと後ろを見ていることに気付いたとき、誤解されてしまう状況であるとサアッと血の気が引いた。


 深夜のアリシアの部屋に、第一王子のオズモンドがいる。事の経緯を知らなければ、アリシアが連れ込んだと思われるだろう。



「……シリウス、あの……」


「兄さん、こんなところにいたんですか。側近が探してましたよ」



 シリウスの第一声は、アリシアの背後にいるオズモンドに向けたものだった。

 ちらりと視線を後ろに向ければ、オズモンドは不機嫌そうな顔で扉の枠に手を掛けている。



「何だそれ、俺の側近に泣きつかれて探しに来たってのか?気色悪い」


「そんなまさか。妻に会いに来ただけです」


「はっ、余計に気色悪いな。お前の妻には今俺が一つ命令を下した。上の階から聞こえた物音の正体を探って来いってな」



 さっさと行けと言わんばかりに手で追い払う仕草をされ、アリシアは困ったようにシリウスを見る。そこで薄紫の瞳がようやくアリシアへと向けられかと思えば、とても余所行きの笑顔が広がった。



「ああ、それならネズミのせいでしょう。ちょうど使用人から大きめのネズミがいたと報告が上がっているので」


「ネズミ?……何だよ驚かせ……ん゙ん゙っ、くだらねぇな。んじゃ酔いも覚めたし戻るか」



 酔い覚ましの散歩という設定を貫いたオズモンドは、アリシアとシリウスの横を通り過ぎると振り返ることもなくスタスタと立ち去って行ってしまう。その背中に鋭い視線を向けながら、シリウスが「それで?」と問い掛けてきた。



「第一王子を連れ込んだ感想は?」


「……連れ込んでいないわ」



 やはり勘違いされていたと思いながら、アリシアは眉を寄せてオズモンドの姿が見えなくなったことを確認する。

 幽霊の噂やオズモンドが突然現れた話を全て話せば、シリウスは大きく肩を竦めた。



「ま、あいつがこの棟にいる理由は簡単に想像できるな……俺の粗探しだ。あんたの存在を理由に人払いをして、何か企んでるんじゃないかって思ってるんだろ」


「……」



 そこまで兄弟仲が拗れている理由が気にはなるが、訊いたところで「関係ない」と一蹴されてしまうだろう。アリシアはオズモンドの話をひとまず横に置き、幽霊の噂に関することへと戻した。



「使用人たちの間で噂になっている幽霊っていうのは、さっきあなたが言っていた大きいネズミなのね?……でも、確か人影って噂だったけど」


「そりゃそうだろ、実際に人なんだから。ネズミってのは例えだよ。祭典のときと一緒だ」



 シリウスは可笑しそうに喉を鳴らし、腕を組みながら壁に寄り掛かった。

 祭典のときに示した“ネズミ”は、盗みを働いていた貴族男性のことだった。つまり―――幽霊の正体は、こっそり忍び込んでいた侵入者だということだろう。

 そして正体を知っているということは、既に何か手を打っているのだと推測できた。



「もしかして、上から聞こえた物音は誰かを捕らえたときの音なの?」



 導き出した一つの可能性を口にすれば、シリウスは薄暗い廊下に視線を向けながら頷いた。



「そうだ。このあと確認に向かうが、間違いなくあんたの偵察にでも送り込まれた輩だな。一人だけとは限らないし、今後も……どうした?」



 ずるずるとその場にしゃがみ込んでしまったアリシアは、シリウスから怪訝そうに声を掛けられながらも安堵のため息を隠せなかった。



「……幽霊じゃなくて、よかった……」



 零れ落ちてしまった本音が小さく響いた数秒後、シリウスの笑い声が廊下に響き渡る。



「嘘だろ?魔族の弱点は幽霊なのか?幽霊ならあんたを倒せそうか?」


「……」



 馬鹿にされているのが分かったが、アリシアは怒る気にはなれなかった。それは、シリウスが今まで見たことのない本当の笑顔で笑っていたからかもしれない。

 この時、アリシアの口角がほんの僅かに持ち上がっていたことに気付いたのは、夜空を平等に明るく照らす丸い月だけだった。



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