17.幽霊の噂①
祭典が終わったあと、しばらくは穏やかすぎる日々が続いていた。
それはアリシア基準での“穏やかな日々”なので、他の人とは少し感覚が違っていたようだ。そのことに気付いたのは、侍女のミシェルが浮かない顔で本棚の整理をしていたときだった。
「……何かあったの?」
アリシアがそう問い掛けると、ミシェルがハッと夢から覚めたような顔をした。手に持っていた数冊の本を素早く丁寧に本棚へ戻し、周囲の僅かな埃を拭き取ってから振り返る。
「ぼうっとしていてすみませんでした。……アリシアさまは、今城内で行き交っている噂をご存知ですか?」
「噂?」
最近は部屋の外に出るのを控えていたアリシアは、もちろん城内で流れる噂など聞いたことはない。出るのを控えていた理由は、また誰かに後をつけられたら嫌だなと思ったからだ。
そして、祭典以降シリウスとは顔を合わせていなかった。
まだ食べ切れていない甘い贈り物の山を眺めながらシリウスの顔を思い浮かべては、ふるふると首を横に振る。
「噂の内容を教えてちょうだい」
「はい。実は……城内に幽霊が出るらしいんです」
神妙な面持ちで声を落としてミシェルが囁いた言葉に、アリシアは聞き間違いかと目を瞬く。
「……幽霊?」
「はい、なんでも目撃者が数人いるとか。それも……アリシアさまがいるまさにこの棟でですっ!」
ぐっと両手を握りしめたミシェルは、アリシアの反応が想像より薄かったのか、数拍おいて顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「……すみません、アリシアさまに怖いものなんてありませんよね……」
全くもってその通りだとすぐに答えられれば良かったのだが、アリシアは怪異の類が大の苦手だった。反応が薄いのは思考が停止していたからで、恐怖を何も感じなかったからではない。
けれど、魔族の威厳を保つためには正直に「とても怖い」と打ち明けるわけにはいかない。アリシアは平静を装った顔でなんとか小さく頷くことができた。
「ええ、怖くないわ。怖くないけど、詳細を聞いておいてもいいかしら」
どうか声が震えていませんようにと願いながら、アリシアはぎゅっとドレスの裾を握った。
幸いミシェルはアリシアが怖がっていることに気付かなかったようで、尊敬の眼差しをじっと向けてくる。
「さすがアリシアさまですね……!私も使用人たちの話を遠くから細切れに聞いただけなので、正確なものだとは言えませんが……」
そう言って話し出したミシェルの話をまとめるとこうだ。
数日前から深夜を過ぎると、アリシアがいる棟の三階付近で怪しく揺れる小さな炎が目撃されたらしい。その炎が消える直前に人影のようなものが浮かび上がり、目撃者と目が合うというのだ。
目撃者は清掃担当の使用人や見回りの衛兵で、皆が口を揃えて「あれは幽霊だ」と言い張るらしい。
話を聞き終えたアリシアは、身震いしたくなる自分を必死に抑えた。こんな気分になるのなら聞かなければ良かったと思ってしまう。
「……ほ、本当に幽霊なのかしら?別の使用人や衛兵が明かりを手に歩いていただけかもしれないわ」
「それが……この棟に出入りできる人間は限られているんです。シリウス殿下の決定で、アリシアさまの侍女である私と、清掃担当の使用人数名、それから見回りの衛兵二人だけです」
「でも、こっそり入ったり……」
アリシアの推測は、ミシェルが首を振ることによって否定された。
「この棟の出入り口には、特殊な魔術が施されているそうです。シリウスさまが出入りを許可した人物しか通れないんです」
「……そうなの?」
その言葉にアリシアは眉をひそめる。
以前この棟に入って来て鉢合わせした、シリウスの兄オズモンドが許可を貰っているとはどうしても思えなかった。特殊な魔術という点では、魔術師のエリクに会ったことがあるため信憑性は高い。
とにかく、そんな棟に他に入れるとしたら幽霊ぐらいだ、というのが目撃者やミシェルの見解なのだろう。
(揺れる、炎……シリウスの影の護衛って可能性はないのかしら。私の見張りとしてこの棟にいるのかもしれないわ)
そんな考えが頭に浮かんだアリシアだったが、勝手にその存在を公にするわけにもいかない。
深夜に三階に行くことだけは絶対にやめようと固く誓い、ミシェルにも怖ければ早めに帰っていいと伝えた。
早く帰るならいつも以上にしっかり掃除をすると言う真面目なミシェルの仕事ぶりを横目で見ながら、アリシアは定位置の窓辺でパラパラと本を捲って読む。マクラウド国の歴史が載っているのだが、とても頭に入って来なかった。
「……ではアリシアさま、失礼致します!」
「ええ、お疲れさま」
夕方にミシェルが部屋を出ると、途端に部屋の中が静まり返る。
何故か怖がられなくなってから、ミシェルはちょこちょことアリシアに話し掛けてくれていたため、ミシェルが帰るといつも物寂しい空気が漂ってしまうのだ。
(……良い子なのは分かるけど、ミシェルのためにもまだ素は出さない方がいいわよね。他の使用人に冷たくされているみたいだし……)
以前使用人たちがミシェルを悪く言っている場面に出くわしたことを思い出しアリシアは、知らずのうちに眉を寄せる。他人を攻撃することを悪だと思っていないのなら、それは魔族という種族と同じだと言いたいくらいだった。
「……本当に静かね」
徐々に暗くなっていく空を眺めながらポツリと呟けば、途端に幽霊の噂話を思い出してしまう。
アリシアはぶるりと体を震わせてからカーテンを閉めると、自分自身に言い聞かせるように声を出した。
「大丈夫よアリシア、幽霊がいたとしても……そうね、私には見えないかも。それか魔族が嫌で姿を現さないかもしれないわ」
こんなとき、アリシアのそばにはいつも側近のフレデリカがいてくれた。けれど、この城では寝るまですぐそばで手を握ってくれるフレデリカも、扉の前で護ってくれるラウルもいない。
一人で眠りに落ちるその瞬間にいつも、アリシアは“独り”であることを突き付けられるのだ。
「大丈夫よ、大丈夫……」
いつもより早くベッドにもぐりこむと、ブランケットを頭から被り強く目を瞑る。
どのくらいの時間が経ったのか、全く寝付けないアリシアの耳に時計の針の音以外の音が聞こえてきた。
それは、本当に微かな物音だった。
普通の人間では気付かないような音で、けれど耳の良い魔族のアリシアには聞こえてしまう。
より一層恐怖に支配され、ブランケットを固く握りしめたとき、物音とは別の声が聞こえてきた。それは明らかに誰か人の声であり、もっと言うと悪態をつく声だった。
(……このやろう、って聞こえたけど……幽霊は話せるのかしら?)
そこで初めてアリシアは、物音の正体は幽霊などではなく人間によるものだと思いブランケットを脱いでベッドから降りる。
扉に近付きそっと耳を当ててみれば、何かブツブツと呟く声が聞こえてきた。
最悪の場合、アリシアには魔力がある。使用人でも衛兵でもなく侵入者だったならば、力を使って遠くへ吹き飛ばしてしまえばいいのだ。
そう思い切った瞬間、アリシアは勢い良く扉を開けた。―――すると。
「ぅわあああぁぁっ!?」
大きな叫び声と共に、ドサッと音を立て尻もちをつく人影が目に入る。暗闇に目が慣れると、アリシアの部屋の前にいるのが誰なのかようやく分かった。
「……オズモンド、殿下?」
そこにいたのは幽霊でも何もなく、驚きで目を丸くして尻もちをついたままのシリウスの兄―――第一王子オズモンドだった。




