3話 緊張と弛緩
風のそよぐ森の中。育った木々の葉が暖かい日差しを程よく通し、涼やかな風が隙間を通り抜けていく。
そんな心地よい森の中を、腰ほどの高さの薮を割りながら真っ直ぐに進んでいる。
最後この道を使ったのは数日前ほどだが、この時期は植物の生育が早く、少し方向を誤れば目印を見失いそうになる。
俺の家は村からは離れた所にあり、歩いて山を降りないとならない、いつも半日程かかる道のりだ。
道もまともに整備されてはいないため、木に印を付けて大体の方向を把握するようにしている。
身体は山に慣れているが、視界と記憶は日々変わる景色に慣れてはくれない。
ドラゴンはあの翼で飛び立ったのか、村へ向かう道のりで痕跡を見つけることはなかった。
小鳥の鳴き声が聞こえるほがらかな森を進むことしばらく、太陽が俺の頭上に来たときのことだ。
少し開けた道の半ばに青く、瑞々しい生物が伸びているのを見かけた。
それはまるで立体的な楕円に広がる水のような生き物で。ふよふよとその不定形な身体を変形させながらゆく宛もなく蠢いている。
「スライム…か、こんな所にいるのは珍しいな」
スライム、比較的よく見かける”魔物”の一種だ。
水と魔力が豊かな地で突然現れて、近づく生き物を取り込んで窒息させ、その身体の中で消化する…
魔物の中では弱い部類とされているが、放置するには危険なことに違いはない。
ここは村に近い場所、出来れば倒しておく方がよいだろう。
…それにスライム程度倒せなければ、ドラゴンなんてマトモに戦えるはずはない。
普段は見かけても避けるが、今回は挑んでみることにする。
俺には、父の剣がある、きっと大丈夫だ。
鞘から剣を抜き、片手に握りしめる。
緊張か、武者震いか、剣を持つ手が震える。
相手をよく観察する。スライムは止まったと思えば急に震えだしてぴょんと跳ねてまた動きを止める。
そんな動きを繰り返しているようだ、次跳ねて、動きを止めた瞬間。斬りかかってみよう。
スライムが、震え、跳ねた。
そして。
勢いよく俺は地面を蹴ってスライムに向かって剣を振るう。横なぎに振るった剣はまるで水の膜を振り切ったような軽さで、払う腕の反動が大きく残る
張った膜のようなものが裂けて、中身が飛沫になって辺りに飛び散る。
跳ね返った生暖かいスライムの体液が体や顔にかかってなんとも気味がわるい。
切った時の感触は、まるで水を斬ったような感覚でなんとも手応えにかけるものだった。
1つ息をついて、剣を下ろして周りを見回す。
辺りに散らばったスライムはひくひくと動いてはいるが、次第に水色の体色を透明に変化させて、さらりと土に染みて無くなる。
まるで土に還るようだった。
初めて、魔物と戦ったが、あまりにもその戦いは一瞬で終わってしまい、実感を得られることはなかった。
父は魔物と相対するなら、油断はするなと言っていたものだが…実際は笑ってしまうほどに呆気なかった。
父は、怯えすぎていたんだろう。
「……ぐぼッ?!」
父を笑っている時突然、頭から水を被ったような感覚でパニックに陥った。
息が出来ない、慌てて呼吸しようとして喉の中に何かが流れ込む。
頭の、周りに何かがまとわりついている?!
視界の中に俺が吐き出した気泡がぼこぼこと浮かびあがっていく。
頭にまとわりつく何かを引き剥がそうと、手をそれに突っ込む。
生暖かい質感、間違いなくこれはスライムだ。
スライムが頭に覆いかぶさってきたんだ、どうすれば?!
息ができなくて、思考力が奪われていく。
歪む視界に、端から暗闇がじわりと滲み出てきて
力が抜け、地面に膝をつく。
肺の焼けるような苦しさで、諦めそうになる…。
だが、まだ諦められない、まだ何も果たせてないのにこんな事で諦める訳にはならない。
眩んだ視界がグンと開けて、歯を食いしばって力を振り絞る。
俺は気合いで意識を保ち、近くに落としたはずの剣を手繰る。
意識を手放しそうになったとき、手の先に硬いものが当たったのを感じた。
最後の息を吐ききって、それを掴み取り。
思い切り自分にまとわりつくスライムに突き刺した。
俺の目の寸前まで刃を入れると、スライムはその身体を急速に崩して、落ちていく。
「…ぅおぇ……げぇっッ……!」
飲み込んでしまったスライムを嘔吐し、地面に四つん這いになった。
ひとしきりスライムを吐き出すと、やっとマトモに呼吸が出来るようになる。ぜぇぜぇと必死に空気を肺へ取り込む。
父の言う通りだった、魔物は決して侮ってよい相手じゃない。それが弱いと知られたスライムであったとしても…。
彼らは容易く命を奪うことの出来る生き物なのだ。
ごめん、父さん…。
父を笑った自分を恥じ、力なく心の中で父への詫びの言葉を考える。そして力がまた抜けて地面へ転がる
息が出来る、ただそれだけの事に今は酷く安心していた。
初めての戦いはとてもじゃないが、褒められたものではなかったが…俺は生き残った。俺は勝った。
死の恐怖が過ぎていくなか、次は勝利に思わず俺は笑いが込み上げてきた。
「…はは、勝った…勝った。生きてる、俺は生きてるぞ…!」
自分から挑んだのに、こんな喜びよう、辛勝であることも気にならず、ただ戦いに興奮して笑っていた。
ひとしきり笑い終わると、俺は立ち上がる。
剣にスライムの体液が付いていたため、剣を勢いよく振るい、飛沫を払ってから鞘へ戻した。
また落ち着ける場所についたら、手入れもしてやらないとならない。
俺は土埃を叩き払って、また村へと向かって歩きはじめる。
気持ちを新たに、少しの経験を積んだ歩みは。
先程よりも確かに地を踏んで、意志を確かに世界へ刻んでいた。
____日が陰り始め、辺りが夜になっていく頃合に村についた。
普段より多い荷物に少し足がくたびれてきていたが、とりあえず宿をとるためにもう少し歩く。
村はあぜ道が村の中央に向かって通っており、その周りに疎らに木製の家が並んでいる様子で、その窓からはもう明かりが灯されていることが見て取れた。
変わらず平和な村を歩きながら眺め、宿屋へと歩みを進めていく。
通りはもう日が落ちかかっているため、家へ帰る急ぎ足の村人が少し居る程度で、静かになりつつあった。
通りを歩いている最中で、一人の村人に声をかけてみる。
「すみません、この辺りでドラゴンを見ませんでしたか?」
村人の男は少し俺の顔を見て、咳払いをした後に
「悪いけど、急いでんだ、ごっこ遊びには付き合ってらんないよ」
そういって足早に俺の前から立ち去っていってしまった、やはり、ただの冗談にしか思われない。
そもそも、普通の人からしたらドラゴンなんて、小さい頃に昔話や、物語で語られる程度の存在で。
実在しているなんてはなから思ってはいないだろう。
現に、俺も目にする前までは、ただの空想上の怪物だと思っていた。
あの彼が至極真っ当な感覚なんだ。
ただ、それだけに1度見たら忘れることはないはずだ。
聞き込みを続けていれば、きっとドラゴンを見たという人は居るはず。あの巨体を見逃すようなことはあるわけがない。
しかし聞き込みをするのもいいが、元の目的に1度戻る。
人々も気になるが、まずは今夜の宿を取って夜を明かすべきだろう。
朝になって、村の広場に行けばそれなりにまとまった聞き込みが出来るはずだ。
村の中央に近づくと、そこには円形の広場があり、そこの中央には大木が生えている。
そして身丈4つほどの高さの枝の所々には、青くて淡い光を放つカンテラが吊り下げられ。
そのカンテラが青い粒子をほろほろと辺りに漂わせ、まるで青いホタルのように輝いていた。
昔から父に村まで連れられてきたときに、夜のこの景色を見るのが、なんとも幻想的で好きだった。
少し見とれた後、俺は宿屋を訪れた。
古びた木の扉に、可愛い手彫りのうさぎの看板が釣られている。
〈うさぎのほら穴亭〉
昔からある村唯一の宿屋だ。中に入ると暖かい室内が迎えてくれる。
宿屋の中は酒場も兼ねていて、受付のおばさんが厨房とカウンターを忙しげに行ったり来たりを繰り返している。
まだ日も落ちて早いため、若い村人や近くを通りかかったのであろう商隊たちも、円卓に集まってエールを飲み交わしている。
騒がしい室内を進んで、カウンターへ立ってベルを鳴らす。
リンと耳につく音が店内に響いて、一瞬時間が止まったみたいに皆がこっちを振り向き。
何も無かったみたいにまた喧騒が帰ってくる。
「お待たせ!今日は泊まり?それとも食事?」
元気のいい女給がこっちに駆け寄ってきて、そう声をかけてくる。
「あ、えっと、泊まりで。」
一人で宿に泊まったことのない俺は、すこし不自然にどもりながらも、そう受け答えした。
なんだか、恥ずかしい気持ちだ。
「それじゃ、一泊一銀貨だよ!」
女給は気にせず、にっこりといい笑顔で、そう受け答えしてくれる。俺も気にしないようにしてバックから財布を取り出し、銀貨を手渡す。
女給はカウンター下から鍵を取り出して渡してくれた。鍵には木製の札が付けられていて、そこには10と刻まれていた。
どうやら一番端の部屋になったみたいだ、昔泊まった時も確かこの部屋だったような覚えがある。
酒場の隅をくぐり抜けて、階段を登っていく。
酒場で聞き込みをしてみても良かったが、今日は少し疲れていたので、そのまま部屋に向かうことにする。
酒場から離れていくと、段々と廊下は静けさを取り戻していき、自分の踏む木の軋む音だけが響くようになっていく。
廊下の突き当たり、10号室の部屋の鍵を開いて中に入る。
少しすすぼけた古い部屋、ベッドが2つ並び、その間にはクローゼットが添え付けられている。
質素な作りだが、最低限休むにはちょうどいい様な部屋だ。
昔来た時より、小さく感じたのは、気のせいではないのだろう。もう最後に来たのは5年前になる。
バックを適当に下ろし、ベッドに腰掛ける。
大きく伸びをして、生あくびを1つかくと、強い眠気が襲いかかってくる。緊張と弛緩が身体に負担を与えていたのかもしれない。
そのままぼーっとベッドに寝転んでいると、瞼が段々と重たくなってくる。
明日にすることを考えながら、いつの間にか俺は眠りについてしまった。
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