1話 黒影
「…今日は全然釣れないなぁ…」
清流に糸を垂らしながらそんな独り言を漏らしているのが俺、”アレン”だ。
村はずれの森の小屋に、妹と二人で暮らしている。
普段はこんな風に釣りや、ちょっとした畑なんかで食いつなぎ。たまに村までおりて調味料や必需品なんかを物々交換で貰ったりしている。
妹は”アレナ”俺とは違って優しい女の子でいつも家で裁縫や料理なんかのことをしてくれる。
俺たち兄妹は、数年前に父を亡くし。それからはずーっとこんな暮らしをつづけていて、俺的には割とこの暮らしを気に入っている。
確かに親父が居なくなって悲しい。だけど元々あの親父は冒険家でしょっちゅう家を長い間留守にすることが多かったため、俺も妹も慣れてはいた。
ただもう帰ってくることがないと思うと流石に寂しくも思う。
本当に冒険バカな親父で、いつも帰ってくる度に色んな土産話を聞かせてくれていた。雲を貫く巨山。霧の立ち篭める大地の裂け目やそこに住んでいる魔物や人々の暮らしの話。
砂漠のオアシスにある大きなバザールと、街の活気の様子や言い伝えの残る魔物の話に俺たち兄妹は胸を躍らせたものだった。
一度は行ってみたいものだが…今は今の暮らしがあるのだから、どうしようもない事だ。と内心考えるものだが、本当は諦めきれずにいる。
親父の遺したお金がそれなりに多いとはいえ、とてもそんな遠く離れた所に行けるほどに余裕があるという訳ではない。
すべて関係のないこと、第一、ほとんどは眉唾ばなしだろう。子供心を喜ばせるための、ただの作り話だったのだ、と思って考えないようにしている。
ぼーっとそんな考え事をしていると、不意に釣り竿がぐくっと川に向かって強く引っ張られた、判断が少し遅れた、慌てて張った釣り糸を引いてみるが慌てたせいか、プツンと糸が切れて力を込めていた後ろにそのまま転げ落ちる。
周りに魔物が来てもすぐ気づけるようにと、川辺に突き出した少し高い石の上に座っていたのが不運だった、身体をぶつけながら川辺の砂利のうえに落ちていく。
「…ってて…」
背中もぶつけたし、肩も打ったし、思い切り尻から着地してしまった…ひりひりして身体痛い…
釣り竿の糸も切れてしまったし…一度家まで戻って出直さないといけない…傷薬の軟膏の在庫がまだ残ってるといいんだが…
少し川辺の砂利の上で考えた後に、のっそりと痛む身体を起こして、立ち上がる。
地面に転がった釣り竿を拾い上げ、重たいため息が漏れ出た。
俺はとぼとぼ釣り竿を肩にかけながら森のほとんど獣道みたいな場所を通り抜けて家へと向かっている。
家の周り以外は村に通じている道以外はほとんど人の手がつけられていないような有様で、俺が時々通り抜けていく所が獣道のように少し踏み鳴らされている程度である。
木々の間をすり抜け、俺の腰まである草の中を通って、10数分も歩けば家が遠目に見える。
木の組の質素な小屋、近くにはそこまで大きくもないが畑があって、なんだか妙な顔立ちをしたかかしがその畑を見守ってくれている。
そんな素朴だが安心出来る我が家……
が見えているはずだったのに。
「いやァッ…たす、助けてッッ!!」
森の隙間に鋭い悲鳴が木霊する、助けを求める声が響き渡る、高い女性の声。
間違いない、妹だ。
一瞬固まってしまった俺は、手からすり抜けた釣り竿が地面に落ちた音で再び意識を取り戻す。
一体なにが起こってる?!
辺りの木々がざわめき立ち、この先に進むこともまともに許されないような、異質な空気で足が震える。
未だ聞こえる悲鳴、激しい何かが暴れるような音と大きな物が動くような風が辺りの木の葉を揺らしている、恐ろしくて堪らないが、俺は唯一の肉親である妹を助けられないほうがより怖かった。
気がつけばただ震える足で、乱れる呼吸も整えずに一息に駆け出し始めていた。
低木の枝が身体にぶつかり、ぶつけた身体が軋むように痛むのも気にもとめずに家の方へと走る
そうして、木立を抜けた先では、恐ろしいことが起こっていた。
妹が、妹が恐ろしい魔物、あれは、あれはきっとドラゴンだ、妹が”ドラゴン”に襲われている。
その”ドラゴン”は、全身が黒い黒曜のような質感で。
太陽の直下にいるにも関わらず、その陽の光を吸収するようで。あの身体の周りは仄暗く。
まるで影を纏っているようだ。
力強い四肢。背には大きく恐ろしい翼が一対。
その翼膜はまるでコウモリのように薄いが辺りに黒い霧を吐き出し、その姿をより大きく錯覚しそうになる。
顔には額の中央に歪な湾曲をした角があり、血管のような柄と鼓動するようにその柄を流れる紫のエネルギーが満ちているのが見てわかる。
そしてその口元、そこに妹がくわえられている。
「…ッ……妹を!離せえええぇッ!!」
瞬間的に血が沸騰するみたいに全身が熱くなり、俺の口からは発したことも無いような凄絶な叫びが上がっている。
近くの切り株にあった手斧を掴み、風と一緒に地面を蹴って駆けた。
ドラゴンはそんな俺の事は気にもとめないようで、俺の妹をくわえたまま背を向けてどこかへと歩きはじめていた、その一切警戒していないドラゴンの足に俺は渾身の力を込めて、手斧をぶち込んでやった。
せめて、傷のひとつでも付けられたなら、苦しんでその口から妹を離してくれればよかったものも、艶やかな黒曜には一点の傷もつかず、折れた手斧の頭が地面に転がっていっただけだ。
武器を失い、何も出来ることが無くなってしまった俺は、ドラゴンの足から視線を上に移す。
「……っふ……」
荒い俺の呼吸がしゃくりあげるように喉の奥に引き込んでいく、ドラゴンが長い首をこちらに向けて、その七色のような虹彩と、蛇のように鋭い瞳孔でこちらをじっと見つめてきてくる。
魂を貫かれるような鋭い視線で、俺はまるで心が凍りついたようになってしまって、ただ呆然と。その瞳に食いついて離せなくなってしまった。
すこしでも視線を逸らせば、俺は殺されるのだと。そう確信した。
だがドラゴンはそんな俺のことにはすぐに興味を失い、頭を空に掲げて、
俺の妹を、一息にのみこんだ。
途端に目の前が暗くなる、動悸が止まらない。
「…ッあ……あれ、アレナ……」
走馬灯のように、アレナと過ごした日々が脳裏に過ぎっては消えていく。
涙でぼやけた視界に、うっすら記憶が映る。
_____ある日の記憶を、思い出した。
「お兄ちゃん!もーっ、ホント無茶ばっかりするんだから……」
「ってぇ…染みるなぁ」
アレナが俺の膝に出来た切り傷に、ポーションを染み込ませた布を当てながら包帯を巻いていく。
手馴れた手つきで、白い包帯を一切の緩みもなく綺麗に付けてくれた。
「はいっ、これで終わりだよ…それで…なんでこんな傷作ってきたわけ?」
妹がら椅子に座る俺の目をじっと見つめながら、そう詰め寄ってくる。
「…これを、取りに行ってた。」
俺は懐から、一輪の白い花を取り出して、アレナに見せる。アレナはその花を見ると少し間をおいてから、驚いた顔をした。
その顔は次第に、ぱっと開いた花のような笑顔になる。
「お兄ちゃん、これって!」
「…そう、お前の小さい頃好きだった花だよ。」
昔、父親が家に帰ってきた時にしょっちゅう持って帰ってきていた花だ。別に特別でもなんでもない花、でもこの近くじゃ見かけない外の花。
俺たちにとっては特別な白い花。
この前、狩りの途中に高い崖で見かけたのを覚えていたから、この日の為に取ってきたんだ。
父親が死んでから初めての、アレナの誕生日。
口にはしなかったが、アレナの為なら、兄ちゃんは…
_____何だって出来るんだよ、って。
「…ぅ”おおおおおお”お”ッッ!!!」
喉が張り裂けそうな程の激しい雄叫び、はたして本当に俺の喉から発せられているのか分からないほどの。
渾身の力を込めて立ち上がる、思い出した記憶を糧にして行動を起こす。
恐怖に押しつぶされそうな己を鼓舞しながら。
「兄ちゃんはなんでもできるッ!アレナの為ならなんだってやってやるんだッ!!!」
動け!こんな身体の痛みなんて、アレナの痛みに比べればなんてことではないッ!
動け、動け!
ただ、相手はドラゴン、ただ立ち向かえばどうにかできるはずがない、動くだけじゃ、だめだ!
頭を使え…1度した失敗を繰り返す余裕はない。
…ドラゴンは…喉に弱点があると本で読んだ事がある……
だが喉もあの黒曜の外殻で覆われている、とてもダメージは与えられない…!
周りの景色が、まるで時が遅く流れるように感じる。思考が急速に加速していく。
全身を覆う外殻……唯一その外殻に包まれていない場所は…ッ……
あの、”虹色の眼球”ッ!
眼球なら、守りようが無い…今ダメージを与えられるなら、ここしかないッ!
ドラゴンは俺を警戒していない、動くなら今ッ!
背後に落ちた手斧の刃に飛びつく。素手は駄目だ、確かに痛みをを与えられる手段を選ばなければならない。
ドラゴンは駆ける俺のことなど、気にしてはいないようで、喉が動いて、アレナを嚥下していっている。
「待ってろ、兄ちゃんがすぐに…助ける!」
俺は決意と共に大きく息を吸い込んでそのまま家の屋根に向かって走り出した。
近くの樽を踏み台にして、力強く跳躍する。
不思議と体は痛まず、驚く程に軽かった。
身体からまるで浮遊するような感覚で軽々と屋根の上に着地する。
ドラゴンの顔は飛びかかれば届くほどの距離、油断している今なら間違いなくいけるだろう。
「おおおッ!!」
昂揚する気持ちを刃に込め、一身を屋根から踏み切ってドラゴンの眼球目掛けて刃を振るう。
どうやら俺の目測に誤りはなかった!
ドラゴンの眼球に俺の振るった刃は深々とくい込み、俺はそのまま力強く握りしめた手斧の柄に捕まってぶら下がっていた。
飛散するドス黒い赤の血潮、苦痛にもがくドラゴンの悲鳴が辺りに木霊する。
激しく頭を振るったドラゴン、俺はその勢いで思わず柄から手を離してしまう。
建物1階分程からの落下、しかも凄まじい速度で叩きつけられる形での落下だ。
柔らかい土がまるで石のように感じるほどの衝撃、受け身もマトモに取れず、全身を熱が襲った。
「…かはッ……!」
圧迫された肺から呼吸がすべて吐き出され。一瞬で身体の中の呼気が無くなって、視界が白と黒に明滅する。
意識が急速に遠い所へと沈んでいく、霞んだ視界が
暗くなっていく。
その視界の中に映るのは、荒れ狂う黒い龍の姿だ。
俺が事の顛末を知ることはなく、意識は暗い闇の中に沈んでいった。
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