2 入寮
翌日。史朗は1軒の住宅の前に立っていた。見渡せば、少し離れた場所に似たような家が数軒建っているのが見える。
精密検査を経て、史朗は無事退院となった。そして、迎えに来た雪博と共に征治の運転する車で、郊外にあるこの場所までやって来た。聞くに、ここら一帯は特殊能力警察庁の所有地で、史朗が見上げる家も、近辺に見える家も、すべて同庁の直属部隊それぞれに用意される寮らしい。
今日から史朗もこの寮で暮らすことになっている。
時折吹く北風に体を震わせながらも黙って寮を見つめる史朗に、横で様子を眺めていた雪博がそっと声をかけた。
「どう? 思ってた感じ?」
「あー、いや。思ってたより、普通の家っていうか」
雪博にちらりと視線を投げて、史朗は再び寮を見た。学校や病院のように瓦屋根を持たない四角い家。壁は白く、2階建てで、どこかおしゃれな雰囲気がする。
「寮って聞いてたから、もっとコンクリっていうか、アパートみたいなイメージだったっていうか……」
「うんうん、そうだよね。パッと見、おしゃれだもんね」
雪博は笑顔で頷くと、格子状になった洋風の小さな門を開けた。史朗を手招きして、中へと誘う。
「でも、中はちゃんと寮って感じになってるよ。特に2階とか……」
門から玄関に続く通路を抜け、説明しながら雪博がドアノブに手を伸ばしたとき、門を閉じかけていた征治が何かに気づいた。家を振り返り、わずかに目を細めて、よく通る声で呼びかける。
「雪」
「ん?」
雪博が立ち止まって振り返る。つられて史朗も振り返った。征治が頭を小さく横に振りながら手招きする。その動作に史朗は首を傾げたが、雪博は意図に気づいたらしい。
「史朗くん、ちょっとちょっと」
言いながら史朗を押す動作をする雪博。それが下がれという意味だと理解して、困惑しながらも史朗は指示に従う。史朗と雪博が少し距離を取った瞬間、雪博の背後スレスレでドアが勢いよく開いた。
「いや、ほんっと、ごめん!」
ドアを開けたのは女性だった。肩で切り揃えられた髪、深緑色のマフラー、紺色のコートとズボンという装い。背中には黒いリュック。歳は20代くらいだろうか。背後に顔を向け、謝罪の言葉と共に現れた彼女は、玄関から飛び出そうと正面を向いて、やっと史朗たちの存在に気づいたらしい。
「わっ! とっとっとっと!」
驚きの声と一緒に両手を上げ、殺しきれない勢いのまま雪博の背中に衝突しそうになるのを、体をひねってギリギリで回避する。
「ごめん、ゆき君! おかえり!」
「大丈夫です。ただいま帰りました、澪さん」
苦笑交じり返事する雪博に「澪」と呼ばれた女性はもう一度、「おかえり」と返した。それから、雪博の背後で驚いて固まっている史朗に気づくと、はっと目を見開く。
「あっ、君が新人君!? 名前えっと植物の。あ、柊の、なんだ、誰だ?」
矢継ぎ早に言ってウンウン悩む澪に、玄関から別の声が答えた。
「史朗くん」
声にその場にいた全員の視線が動く。目線の先、ハーフアップにした長髪を揺らして、その人物は軽い足取りで近づいてきた。澪と同じ20代くらいの女性だ。クリーム色のマフラー、澪が着ているものとよく似たデザインのコートに、スカートのように見えるガウチョパンツ風のズボン。マフラー以外、こちらも色味は紺色でまとめられている。
「柊史朗くんだよ、みおちゃん」
「それだ、史朗君!」
女性の言葉に澪はポンと手を打った。それから史朗に向き直り、にっこり笑って言う。
「はじめまして。私、深沢澪。よろしく」
「ッス、どうも……」
澪のテンポ感に軽く圧倒されつつも、史朗は差し出された手をそろりと取って曖昧に挨拶した。澪は握った手を2、3度振ると、隣に立っていた長髪の女性に視線を投げる。女性は柔らかく笑って史朗を見た。
「久木綾祢です。よろしくね」
挨拶して綾祢は胸元でパタパタと小さく手を振った。史朗も「ども」と小さく会釈する。
「たしか、史朗君が最後の1人だったよね」
誰にともなく澪が尋ねる。答えたのは雪博だった。
「そう、ですね。そうなります」
「だよね」
納得顔で頷く澪を眺めて、史朗は内心で小首を傾げた。
『最後の1人……?』
一体どういう意味だろうと思った。だが、それを聞くより先に澪が口を開く。
「じゃあ、これで全員揃ったわけか。え、ちなみになんだけど史朗君は……」
「みおちゃん」
「澪」
澪の言葉を遮って綾祢と征治が同時に口を開いた。2人はちらりと顔を見合わせて、それから征治が半開きの門を開き直しながら続ける。
「呼び出し。至急だと伝えたはずだが」
その言葉に澪が唇をきゅっと結んだ。目を閉じて、軽く結んだ拳の側面で己の額をトンと軽く叩く。
「……そうでした」
呻くように呟いて、澪は重く息を吐いた。瞼を開け、おもむろにリュックを背負い直すと、恨めしそうに征治を見る。
「私ダッテ、新人君ト、オハナシ、シタカッタナー」
わざとらしい口調で不満げに言葉を吐く澪に征治は仕方なさそうに頷いて見せる。
「詳しい話は聞いていないが、そう時間はかからないと、先方は言っていた」
「さっき電話で聞いた。それ、ほんと? っていうかさぁ」
納得いかないと言いたげに澪は征治に詰め寄った。彼の胸元を指さして、不機嫌に告げる。
「最近、急な呼び出し多すぎ。気をつけてって言っといて」
「わかった。伝えておこう」
「頼みますよー?」
半ば疑わしげに言った澪は、「というわけで」と史朗を見た。
「じゃあ、史朗君。またあとでお話しようね」
史朗ににっこり微笑みかけ、返答を待たないままに彼女は綾祢を手招きする。
「さ、あやちゃん行こう! さっさと行って、さっさと帰ろう!」
「はーい」
明るく返事した綾祢も「じゃあまたね」と史朗に囁きかけて、門の方へと駆けていく。
「いってきます!」
「いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
征治は見送りの挨拶をすると、彼女たちの乗った車が敷地を出て行くのを確認してから門を閉じた。そんな彼に雪博が声をかける。
「にいさん、さっきはありがとう。よく出てくるってわかったね?」
言葉に征治が振り返る。笑うようにゆるく目を細め、彼はこちらに歩み寄りながら答えた。
「まあな。連絡した時間的に、そろそろ出かける支度が整った頃じゃないかと思っていたんだ」
「そっか。なるほどね」
納得するように雪博が頷く。
仲良さげにする2人を見て、史朗はなんだか胸がもやっとするのを感じた。そして、そう感じる自分に驚く。
ここに来る車の中で、2人が兄弟関係なのだと聞いた。顔が似ていないから気づかなかったが、なるほど、言われてみてば同じ苗字だ。病院で雪博が征治ことを「今は上司」と言っていたのはこのためで、あの時は勤務中だったから『兄』というよりは『上司』と言うべきだと考えたのだという。
『なんで、こんなもやもやすんだろ』
胸をさすって、小首を傾げる。兄弟が仲良くするのは当たり前なのに、なんとなく、受け入れがたい感覚がする。
『なんでだ?』
自分の感覚の原因を探して、史朗が考え込んでいると、ふいに征治が声をかけてきた。
「柊君」
急な呼びかけに史朗ははっとする。視線が合ったのを認めて、征治は少し困ったように言った。
「すまないな。来て早々、騒がしくして」
「ああ、いえ」
その言葉に史朗がやんわりと、大丈夫であると伝えると、征治は申し訳なさそうに苦笑する。
「第四部隊はちょっと特殊でね。いつもってわけじゃないが、たびたびこんなことがある。詳しいことはおいおいだが、とりあえず、それだけ知っておいてくれ」
「……ウス」
いまいちよくわからないまま、頷く史朗に頷き返して、征治は続ける。
「それより、中に入ろう。ここは寒い」
「そうだね。史朗君、どうぞ」
征治の言葉に同意して、雪博は玄関ドアを開けた。中に入るよう促され、史朗は小さく頭を下げながら寮に足を踏み入れる。
灰色のタイル張りの玄関。金属製の靴箱の上には花や、動物の置物、黄色いゴム製のアヒルなどが飾ってある。
「ほんと寮っぽくないな……」
呟いてぱっと顔を上げた先、右奥にあるドアの陰から小さな人影がふたつ、こちらを覗いているのに気がついた。びっくりして固まる史朗。相手も驚いているのか固まっている。
覗いているのは小学校低学年くらいの女の子と男の子だった。どちらも美しい黒髪を三つ編みにしていて、お揃いの白いパーカーを着ている。背丈も顔立ちもよく似ているあたり、双子なのかもしれない。
「……こ、こんにちは」
先に口を開いたのは史朗だった。彼の挨拶に2人がハッとする。次の瞬間、女の子が史朗を指さして、元気よく叫んだ。
「しらないひと!」
思いもよらない言動に驚いて、史朗は再び固まった。だが、その行動は、男の子にとっても予想外だったらしい。ぎょっとすると、大慌てで史朗を指さす女の子の腕を押さえこんで下げさせる。
「ダ、ダメだよ、楽楽。人のこと指さしちゃ」
おどおどしながら男の子がたしなめるも、楽楽と呼ばれた女の子は男の子が押さえていない方の手で史朗を再び指さして言う。
「でも明明、しらない人だよ」
「しらない人なら、もっとダメ」
明明と呼ばれた男の子は再び楽楽の腕を下げさせて、怒ったような困ったような様子で告げる。
「それに、しらない人じゃないよ。ゆいにぃちゃんが言ってた人だよ、きっと」
「そうなの?」
「……たぶん」
きょとんとする楽楽と自信なさげに答える明明。楽楽は一瞬、唇を尖らせると「やっぱり、しらない人いたー!」と騒ぎながら部屋に戻っていく。明明はあわあわと困り顔をすると、ぺこりと史朗に頭を下げて、楽楽のあとを追いかけていった。
「……なに?」
「ごめん、史朗くん……」
玄関に取り残され、呆然と呟く史朗の背後から、雪博が困り顔で詫びる。
「今日、君が来ることは、あの2人にも伝えといた、はずなんだけど……」
言いながら雪博は隣に立つ征治を見上げた。征治は短く溜息を吐く。
「無邪気と言えば聞こえはいいが」
呟いて小さく首を横に振り、征治は史朗に向かって言う。
「柊君、俺からも詫びを。あの子たちも悪気があってあんなことを言ったわけじゃないんだ。あとでちゃんと言い聞かせておくから、許してやってくれると嬉しい」
「ああ、いや、オレは別にいいんですけど……」
頭を下げる征治に史朗が慌ててそう告げたとき、再び、楽楽の元気な声が響いた。
「あ! ゆきくんとせーじくんだ! おかえり!」
玄関にいた3人の視線がそちらに移る。見知らぬ青年が右腕を楽楽、左腕を明明に抱きしめられながらこちらにやって来るのが見えた。
「雪、征治さん、おかえりなさい」
「ゆきにいちゃん、せいじにいちゃん、おかえりなさい」
青年に続いて明明がおずおずと言う。
「うん、ただいま」
「ただいま」
出迎えの言葉に雪博と征治が答えた。それに頷いて、青年が史朗を見る。彼は柔らかく笑いながら口を開いた。
「柊史朗くん、だね。ボクは月城結。雪……ああっと、雪博の友達だよ。よろしく」
言って手を差し出そうとしたのだろう。結は一瞬考える素振りを見せたあと、腕にしがみつく2人を一瞥して、困ったように笑った。
「あ、どうも」
1度、頭を下げて、史朗は結を見た。ポニーテールにした長い髪。柔らかな笑顔。雪博の友人だというのだから、歳も同じくらいなのだろう。ジーンズにロングTシャツ、カーディガンという装い。結が頭を揺らすたび、ポニーテールをまとめる赤い紐がゆらゆらと揺れた。
結は両腕にしがみつく子供たちに視線と質問を投げかける。
「楽楽、明明、はじめましてのご挨拶、まだだよね」
「まだー」
「してない」
素直に答える2人に結は微苦笑した。
「じゃあちゃんとご挨拶」
「はーい」
元気に返事した楽楽は結から離れると、ピンクのスカートを揺らしながら1歩前に出た。真っ直ぐに史朗を見つめて自己紹介する。
「王楽楽です。それから」
そこで言葉を切って、楽楽は結の左側に移動すると、明明の片手を取った。ぐっと引っ張って先を続ける。
「こっちが明明」
明明は「自分であいさつしたかった」とぼやきながらそっと1歩、進み出た。群青色のズボンをぎゅっと握りしめて、おずおずと口を開く。
「えっと、はじめまして。王明明です。よろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げる明明。史朗は2人と視線を合わせるために、少しだけ腰を屈めた。
「えっと、柊史朗です。よろしく」
言って、楽楽と明明それぞれに手を差し出す。2人は顔を見合わせて、それから同時に手を掴んできた。小さな手が史朗の手を振る。楽楽は元気に、明明は控えめに。
「え、双子……ですか?」
「そうだよ!」
「そうなの」
史朗は結に向けて問いかけたつもりだったが、楽楽と明明が同時に答えてきた。
「生まれたのはね、ルゥがちょっとだけね、おそいんだけど、いっしょに生まれたんだよ」
聞いてもいないのに楽楽が説明を始める。始まってしまった説明を大人しく聞く史朗を横目に、征治は靴を脱いで廊下に上がった。結に歩み寄ってそっと話しかける。
「結。あとで楽楽に話があるんだが」
その言葉に結は、仔細に及ばずといった様子で苦笑する。
「『しらない人』って騒いでたことですよね。一応、オレからも言い聞かせといたんで、キツく言わないでやってもらえませんか?」
「そうか。わかった」
そういうことならと征治は頷く。それから「先に行ってるぞ」と一声かけて、結たちが出てきたドアの向こうへ去っていった。
征治を見送った結は双子の方を見た。まだ楽楽は、史朗に何やら説明している。結はくすりと笑って、楽楽の肩に手を置くと、振り返った彼女に優しく言う。
「楽楽。自分の話もいいけど、史朗お兄ちゃんに、言わなきゃいけないこと、あるよね」
その言葉に楽楽はハッとして、きまり悪そうな顔をした。
そんな彼女の手を明明がそっと取り、目をじっと見つめて頷く。楽楽は1度、唇を尖らせると、すぐにきゅっと口を結んで史朗を見上げた。そうして、小首を傾げる彼に言う。
「さっきは、しらない人って言って、指さして、ごめんね」
ついさっきのことを謝っているらしい。まさか謝罪されるとは思っていなかった史朗は、少しばかりうろたえながら答える。
「ああ、いや、別に、うん。大丈夫。他の人には、しない方がいいと思うけど」
「うん」
小さな声で返事した楽楽は、ぱっと結に駆け寄って抱きついた。そんな彼女を優しい眼差しで見下ろして、結はそっと頭をなでる。
「ちゃんと、ごめんなさい、できてえらいね」
楽楽は答えずに結に頭を押し付けている。明明が寄って行って、結にならうように楽楽の頭をなでた。
そんな彼らの様子を眺めながら、史朗は小声で雪博に問う。
「あんな、ちっこいのも能力者?」
「そうだよ」
頷いた雪博は、史朗に玄関から上がるよう促してから先を続ける。
「この隊の最年少があの2人。それから」
そこまで言って、何かに気づいたらしい。奥のドアを振り返って、雪博は笑う。
「ちょうど来た。――朝陽、ひのちゃん」
雪博が呼びかけた方向を史朗も視線で追いかける。ちょうど、楽楽と明明のようにこちらを覗く男女2人組の姿がそこにあった。パッと見、双子より年上で、史朗よりは少し年下ぐらいに見える。
雪博に呼びかけられた2人は、ドアから顔を覗かせたまま、慌てたように小声で何やら言い合っている。それを見かねてか、あるいは興味が移ったのか、楽楽が顔を上げ、結から離れて2人に駆け寄った。そのまま彼らの手を取ってグイグイこちらに引っ張ってくる。その様子に雪博は苦笑しながら口を開いた。
「楽楽に引っ張られてるのが、次に若い2人。小6だから……史朗くんの3つ下だね」
「へぇ」
雪博が用意してくれたスリッパを履きながら、史朗は楽楽に引っ張られる2人を眺めた。
男の子は、短めの髪で、やんちゃそうな眼差しをしている。オーバーサイズのスウェットにジーンズという服装。楽楽に対し、引っ張るなだのなんだの、ぶつくさ文句を言ってはいるが、本気で嫌がっているわけではなさそうだ。
女の子は、ぱっちりとした目が特徴的だ。くせ毛なのか、肩あたりまでの長さの髪はゆるくウェーブがかかっている。冬らしいもこもこの服にワイドパンツという服装で、困ったように笑いながらも、楽楽に大人しく手を引かれていた。
楽楽は2人を史朗の前に立たせると意気揚々と紹介を始める。
「しょうかいするね。あさくんと、ひのちゃんだよ!」
簡単な紹介に顔を見合わせたあと、2人は苦笑して史朗を見た。そうして、男の子、女の子の順に自己紹介を始める。
「向居朝陽。よろしく」
「天守陽和です。はじめまして」
「柊史朗。よろしく」
挨拶を返して、史朗はふと内心で首をひねった。朝陽も陽和も笑ってはいるが、なにか引っかかる。
『なんか、緊張してる……?』
史朗には、彼らがなんとなく緊張しているように見えた。それが自分との初めての挨拶だから、というだけではない気がして声をかけようとしたとき、史朗の思考を遮って、楽楽が言った。
「あとね、あとね、もうひとりいるんだよ」
「もう1人?」
楽楽の言葉に史朗が小首を傾げたのと同時に、朝陽と陽和がぎょっと表情を歪めた。楽楽の正面に素早く回り込んだ朝陽が、彼女の両肩をガシリと掴んで、慌てたように喋り出す。
「あー、ああ、あーっと。うん、ルゥルゥ? ちょっと、ちょっと、向こうでさ、お話しよう」
「えー? なんでー?」
不満そうな楽楽に、こちらも慌てた様子の陽和が言う。
「なんでっていうか、大事なお話があるっていうか……とにかく、ルゥちゃんは、こっち行こうね」
朝陽と陽和が楽楽を無理矢理、誘導する。楽楽は、なんでどうして、と言いながら踏ん張っている。騒ぐ彼らを明明がおろおろしながら眺めている。そして史朗は完全に置いてけぼりをくらっている。そんな混沌とした状況に苦笑して、結が雪博に声をかけた。
「雪。ここはオレが何とかするから、上がりな。史朗くんに部屋、案内してあげて」
「うん、ありがとう。そうするよ」
苦笑ぎみに返事した雪博に頷き返し、結は明明を引き連れて、騒ぐ3人組に歩み寄った。
「はいはい、みんな。ちょっと和室行こう、和室。ここ寒いから。はい、行くよ」
グイグイと結がみんなの背中を押す。明明がサッと廊下の左側にあった引き戸タイプのドアを開けた。どうやらそこが和室らしい。
「だってまだなのにー!」
楽楽の叫び声だけを廊下に残して、5人は和室に消えていった。何もわからないまま取り残された史朗に雪博がそっと呼びかける。
「史朗くん。じゃあ、こっち、どうぞ」
「う、うん……」
困惑したまま頷いて、史朗は雪博のあとに続いた。雪博が奥のドアを開ける。暖房がついているらしく、温かい空気が部屋の中から史朗たちを出迎える。なにやらおいしそうな香りが史朗の鼻をくすぐった。
「ここがリビング。で、あっちがダイニングとキッチンね」
部屋のこちらとあちらを指し示しながら、雪博が説明する。史朗はきょろきょろと辺りを見回した。
仕切り壁のない広々とした部屋だ。リビングスペースにはテレビとソファ、おしゃれなローテーブルが、ダイニングスペースにはシンプルなデザインのダイニングテーブルが置かれていた。ダイニングテーブルに備え付けられたイスには、誰かが使っていたと思しきエプロンが数枚、雑にかけられている。奥のキッチンには誰かいるようで、調理をする音が聞こえている。
地下があるのか、リビングスペース左手の壁には下り階段が設置されていた。そして、階段の隣には引き戸タイプのドアがある。位置的にさっき5人が入っていった和室に繋がっているのだろう。一方、右手側の壁にはふたつのドアある。少し離れて設置されたそれらはよく似ていて、しかし、片方にはドアベルが、片方にはなぜか紐でくくられたゴリラの人形がぶら下げられていた。
『なぜゴリラ……?』
強い存在感を放つゴリラの人形に釘付けになる史朗をよそに、雪博はキッチンの方に足を向けた。そして、こちらに背を向けて調理する人物に声をかける。
「うつぎさん。帰りました」
呼びかけに調理の手を止めて、うつぎが振り返る。雪博と史朗を認めて、彼の表情がぱっと輝いた。
「おかえり、雪くん」
雪博に迎えの言葉をかけながら、白い割烹着姿のうつぎがキッチンから出てきた。そして、史朗の前までやってくると、ただでさえ細い目をもっと細め、嬉しそうに言う。
「それから、史朗くん。退院おめでとう! そして、ようこそ! 第4部隊へ! いやぁ、君が無事、ここに来てくれてよかったよ。これでも、けっこう心配してたんだよね。オレだけじゃなくて他のみんなも……あ、今夜は君の歓迎会するからね。みんなで準備してるんだ。楽しみにしてて」
矢継ぎ早に言葉を並べたてられて、史朗は面食らう。初めて病院で会った時も、人懐っこい態度で接してきたし、明るい雰囲気はあった。だが、あのときはもっと穏やかに話していたはずだ。
『こ、こんなに元気な人だったっけ?』
勢いに押され、たじろぐ史朗が、内心でそんなことを思う間も、うつぎのマシンガントークは止まらない。
「料理も各種用意してるよ。史朗くんの口に合うといいんだけど。あ、でも、メインは絶対おいしいよ。なんたって征治が作ってるからね。ああ見えて、征治は料理が得意でさー、ほーんとすーごいの。めっちゃくちゃおいしくて……って、そういえば君って好き嫌いとかある? 一応ないって聞いてるんだけど」
「うつぎ」
低い声がうつぎを止めた。止められたうつぎ、それから、史朗と雪博も声のした方を向く。視線の先、ゴリラの人形が吊るされたドアから出てきた征治が扉を閉めるところだった。先ほどまでは雪博と共に、あの軍服のような制服姿だったが、着替えをしてきたらしい。カッターシャツに、ベストと厚手のカーディガン、焦げ茶のパンツという装いに変わっている。
「そこまでにしておけ。柊君を困らせるな」
こちらに歩み寄りながら、わずかに眉根を寄せて征治がたしなめた。うつぎはへらりと笑う。
「いやぁ、ごめんごめん、ついテンション上がっちゃって」
詫びてはいるが、心からのものではなさそうだ。征治は「まったく」とこぼしながら首を横に振ると、今度は雪博を見た。
「雪もだ。見ていないで止めろ」
たしなめられて、雪博は困ったように苦笑する。
「いやぁ、止めようと思ったんだけど、僕じゃ止められないなと思って」
その言葉に征治は、眉根を寄せるのをやめて、仕方なさそうに頷く。
「まぁ、その通りだろうな。いい判断だ」
「ちょっと扱い違いすぎない?」
即座に唇を尖らせて、文句を言い始めるうつぎに「さっさと調理に戻れ」と言い放ち、征治は史朗に向き直る。
「うつぎが困らせてすまなかったな。それより、2階に君の部屋を用意してあるから、見てくるといい。雪、案内してあげてくれ」
「うん。史朗くん、こっち」
雪博が手招きして歩き出す。史朗は征治に軽く会釈してあとに続いた。
雪博が向かったのはあのゴリラの人形が吊るされたドアだった。ドアには電子ロックが付いていて、彼は鍵を解除しながら説明する。
「ここが男子寮の入り口。鍵の番号はまたあとで教えるね」
「わかった」
史朗の返事に雪博は頷き返して、ドアを開けた。史朗に先に入らせて、自分もあとに続く。
「ここがトイレで、あっちが洗面所とお風呂ね」
雪博の説明を聞きながら史朗はきょろきょろと辺りを眺めた。掃除が行き届いているようで、どこも綺麗に片づけられている。
風呂をはじめとした共有スペースはすべて使用時間が決まっていること、料理当番や掃除当番があることなどをざっと説明して、雪博は史朗を2階へ案内する。2階には洗濯室とトイレ、そして、それぞれの個室が用意されていた。史朗は階段の上り口からは少し離れた、奥まった場所にある部屋に案内される。
「で。ここが、君の部屋」
雪博が鍵を開け、中に案内した。部屋の様子を窺いながら史朗はそっと足を踏み入れる。
6畳ぐらいの部屋だ。奥にベランダが見え、入ってすぐのところに洗面台が据え付けてある。ベッドと机は備え付けのようで、上に荷物がいくつか乗せられていた。見覚えのある品々に、史朗はハッとする。
「これ、オレの……?」
布団にカバン、教科書や制服など、実家で使っていたはずの物がそこにあった。
「なんで」
驚いて雪博を振り返れば、彼は部屋の中をゆっくりと見回しながら答える。
「必要そうなものを家から持ってきたんだ。いきなりこんなところに連れてこられて心細いだろうし、使い慣れた物の方が安心するんじゃないかって」
そこで一呼吸おいて、雪博は史朗を見て言う。
「……って、お母さんが」
「そっか、母さんが」
頷いて、史朗はもう1度、部屋を見回した。知らない家の匂いと、親しんだ家の匂いが混じっている。たしかに史朗としても、使い慣れた物がある方が安心できる。
『母さん、心配してるよな』
家にいるであろう母のことを思い浮かべて、史朗は少し寂しい気持ちになった。それが表情に出ていたのだろう。雪博が気づいて、どこか寂しそうに眉をハの字にする。考える素振りを見せた彼は、ハッとして制服のポケットを軽く叩くと、何か取り出しながら口を開いた。
「そうだ、これ。預かってたんだけど、返すね」
差し出されたのは史朗のスマホだった。受け取る史朗に雪博は真面目な顔をして言う。
「悪いけど、監視用のシステムをインストールしてる。しばらくは使用歴を監視させてもらうよ。何かあってからじゃ遅いから」
「何かあってからじゃ遅い」の言葉に、史朗は「個人情報……」と言いかけたのを止めた。自分が悪い人から狙われる可能性があると言われたのを思い出したからだった。
「友達も心配してるだろうから無事ってことは伝えてもいいけど、それ以外は言わないこと。君だって、友達を危険に巻き込みたくないでしょ?」
釘を刺すように雪博が言う。今の史朗が、その行動が、まわりに悪影響を与えるかもしれないのだと強く言われた気がして、史朗は無意識に背筋を伸ばした。それからしっかりと頷く。
「わかった」
返答に雪博はふわりと笑った。
「ありがとう」
安心したように礼を言って、雪博は明るく続ける。
「じゃあ、僕は着替えて、うつぎさんの手伝いしてくるよ。また呼びに来るから、好きに過ごしてて」
それだけ言うと雪博は手を振って、部屋を出て行った。近くの部屋のドアが開いて、閉じる音を聞いてから、史朗は少しぼんやりしたままベッドの空いたスペースに腰を下ろした。そのまま倒れ込むようにして、カバーに包まれたままの布団に体を預けると、天井を見上げて、物思いに耽る。
たった数日で、しかも史朗の知らぬところでいろんなことが一気に動いていた。そのくせ、自分でわかっていることはほとんどない。
「わけわかんねぇことばっかり。やってけんのかな、オレ」
小さく弱音を吐き出した。それから史朗は、ほとんど無自覚で、軽く握った左手の甲を右手で軽くポンポンしながら、掠れた声で呟く。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、オレは、ぜったい、だいじょうぶ」
それは彼の母が教えてくれたおまじないだった。昔から史朗が不安になると、母はいつも彼の手を取って、優しくポンポンしながら「大丈夫」と言ってくれた。それをされるといつだって「大丈夫」になるのだ。
「悩んでても始まんない、か」
なんだかそんな気持ちになって、史朗は起き上がった。手にしたままだったスマホに電源を入れ、中の状態を確認する。
「うわ、通知エグ」
学校の友人たちと繋がっている連絡用のアプリの通知件数がいままで見たことのない数字を示している。アプリを開いてメッセージを確認すれば、史朗が突如、休校になったことを心配する内容が書かれていた。
史朗はちょっと考えてから、メッセージを打ち込む。
「なんか、憶測、飛びまくってるけど、オレは、無事です……と」
それをそのまま送信すれば、史朗の無事を安堵する言葉や、心配をかけさせるなという優しいお叱りが、すぐに返ってきた。
「いや、悪かったって」
苦笑交じりに謝りながら返信する。情報は出さないように気をつけながら。
と、あるメッセージが史朗の目に留まった。
『じゃあさ、もしかして、すばちんもしろと一緒にいたりする?』
「すばちん」はクラスメイトのあだ名だ。本名は千伝昴。大人しくて気弱だが、心優しいいい奴で、正直なところ、彼の横が1番、居心地がいいとさえ、史朗は思っている。
『昴、どしたん?』
『いや、すばちん、お前と一緒で一昨日から休んでんだけど、なんか行方不明らしいんだよね』
「……は、どゆこと?」
呟いて詳しく話を聞く。どうやら昴は当初、体調不良で2、3日休むという話だったが、昨日、急に行方不明になったと連絡が来たらしい。それ以上のことは誰もわからなくて、皆、昴の安否を心配しているのだという。
何かわかったらまた連絡するということにして、史朗は一旦、アプリを閉じた。
もう1度、布団にすがって天井を眺める。自分の今後も心配だが、それ以上に友人のことが心配だ。
「どこいったんだよ、昴」
呻き声にも似た呟きは、静かな部屋の中に消えていった。