1 少年と狼
『特殊能力保持者(以下、能力者)』とは現代科学では解明できない超常的で特殊な力を使用できる人間のことである。現在、日本国内において100人に1~2人は能力者であると言われており、また能力が開花していない者も大勢いるとされている。
(中略)
一方、能力開花時における能力暴走や能力を使用した悪質な犯罪が発生するようになった。そのような事態に対応すべく組織されたのが、現在の『特殊能力警察(以下、特能警)』である。特能警は一般の警察同様,、全国に配備され、人員のほとんどを能力者で占めている。
『特殊能力警察庁ホームページ はじめに』より抜粋
夢の中で柊史朗は1匹の狼と向かい合っていた。
史朗が乗れそうなほど立派な体躯。暗闇の中にあっても美しく輝く灰色の毛並み。伏せたまま、こちらをじっと見つめる瞳は深く澄んだ濃い青色をしている。
史朗は惹かれるように足を踏み出した。狼のすぐ目の前でしゃがみ込む。そこでふと、狼の四肢が鎖に繋がれていることに気がついた。
「おまえ、なんで鎖なんか」
問いかけても狼は答えない。史朗は首を傾げ、何の気なしに狼の前足に触れた。
「っ……!」
次の瞬間、史朗は大慌てで立ち上がった。そのままバランスを崩して、尻から倒れ込む。
「なに……?」
声が、体が、震えている。狼に触れた瞬間、言葉にできない恐怖が襲い掛かってきたからだった。
震えながら史朗は再度、狼を見た。狼の表情は変わらない。黙ってじっとこちらを見つめている。
「おまえは、なに……?」
やはり狼は答えない。そうして、そのまま静かに目を閉じてしまった。
***
紙をめくる音が史朗の鼓膜を揺らした。暗闇の底にあった意識がすくい上げられる。瞼が開いて、最初に認識したのは、見知らぬ白い天井だった。
「……ここ、は」
掠れた声が零れた。すると右横からカタンと小さな音がして、なにか動く気配がした。顔を動かす。イスから立ち上がって驚きの表情を浮かべる、1人の青年と目が合った。
「しろう……?」
呟きと共に青年の手から本が滑り落ちた。だが、彼はそれを気に留めることもなく、ふらりとこちらに寄ってくる。ベッドフレームに手を置いて史朗をしばらく見つめると、泣きそうに微笑んだ。
「目が覚めたんだね、よかった」
心底安心したと言いたげな優しい声音だった。彼はゆるく癖のある髪を耳にかけながら問いかけてくる。
「体調、どうかな。痛いところとか、辛いところとか、ない?」
史朗は弱く首を横に振った。ぼんやりした頭が少しずつ覚醒してくるのを感じながら、辺りを見回す。薄桃色のカーテン、微かに感じる薬品の匂い、青年の背後には大きなガラス窓があって、高層階なのか、青く広がる空を近くに感じた。
「ここ、病院……?」
青年に問えば、彼は優しく頷く。
「そう。ここは特殊能力警察庁の付属病院。君は、能力暴走を起こして、ここに運ばれた。でも、大丈夫。大きな外傷もないみたいだし、じき退院できるはずだよ」
返答に史朗は答えなかった。まだ完全に頭が回っておらず、青年の言葉をいまいち理解できなかったこともあったが、なんだか微妙に頭が重だるくて、考えるのが億劫になったからだった。
考えるのを止めた史朗はじっと青年を眺めた。細身の体に白を基調とした軍服のような服をまとっている。自分と同じ10代くらいだが、自分より少し歳上に見えた。史朗の目覚めを知らせるためにナースコールを押した青年は、視線に気づいて振り返ると、微笑んだままきょとんとする。その様子に、なんとなく懐かしいような感覚がした。
「あんた、前、どっかで会った?」
自然と零れた史朗の質問に、青年が笑顔のまま固まったように見えた。けれどそれは、ほんの一瞬のことで、彼は1度視線を床に落とした後、さっきのきょとんとした表情で史朗を見た。
「いや、どうかな。はじめましてだと思うけど。だって僕の名前、知らないでしょ?」
「そっ、か……」
質問返しに史朗は弱々しく答えながら、視線を天井に戻した。それから、ふと、青年の名を聞いておきたくなって、再び彼を見る。
「えと、あんたの名前……?」
「ああ、自己紹介してなかったね。僕の名前は椿雪博。実は君に、いろいろ説明するように言われてるんだけど」
そこで言葉を止めて雪博はカーテンの向こうに目線を投げた。ドアのノック音に続いて、医師と思しき「失礼します」の声と共に人が入ってくる気配がする。
雪博が史朗に視線を戻して穏やかに笑った。
「まずはお医者さんに診てもらおうか」
***
史朗が医師の診察を受けているころ。椿征治は同病院の面談室にいた。狭い面談室には征治を含めて4人の男の姿がある。部屋には机と、イスがちょうど4脚、置いてあったが誰1人として座る者はいない。立ったままの彼らの表情はどこか硬く、厳しい。
「とても、言いづらいのですが」
沈黙を裂いて口を切ったのは楸天晴だった。彼は制服の上にはおった白衣のポケットに左手を突っ込んだまま、気まずそうに目の前の机に視線を投げていたが、そのうち1度、浅く息を吸って顔を上げた。
「結論から言うと、現状、柊史朗くんは能力を使えない状況にあります」
言葉に征治は目を見開いて、すぐに眉を寄せた。その横では同僚の神野うつぎが、狐のように細い目を更に細めて、静かに腕を組む。
「詳しく、話を伺っても?」
征治に低い声で問いかけられて、天晴は真面目な表情を浮かべた。少し考えたあと、征治をまっすぐに見つめて答える。
「そのままの意味ですよ。現状、彼は能力が使えない。ロックがかかった感じ、と言えば伝わるでしょうか?」
そして彼は、ポケットに突っ込んでいた左手を引き抜くと、グラスコードで胸元に下げていた丸眼鏡をかけた。
「2、3、確認しても?」
征治が頷く。天晴は礼を言って、持っていたバインダーに挟まれた資料をめくりながら尋ねた。
「史朗くんは、能力爆発を起こした。間違いないですね?」
「パートナーの『兎』が言っているので、間違いありません。それに、その件に関しては、そちらでも確認済みと伺っていますが」
征治からの返答に天晴も数度、小さく首を縦に振る。
「そうですね。確認しています。僕も、それから、流深も」
天晴が右隣に視線を送れば、楸流深は静かに頷いた。それを認めて、天晴は再び征治と、うつぎの方に顔を向ける。
「能力爆発は、後天性能力者特有の症状です。生命活動に使われる生命エネルギーとは別にある、能力使用のためのエネルギー……いわゆる『能力エネルギー』が体内に蓄積され、何かしらの衝撃をきっかけとして爆発的に体外に放出される現象のことをさします」
「わざわざ説明して頂かなくても、知っていますよ。それは、特能警所属者が警察学校、あるいは所属初期に教えられることだ」
それ以上続けられそうだった説明を遮り、征治が口を挿む。言葉の裏に隠された「先ほどの結論に関わる話をしろ」の圧力に、けれど天晴は一切表情を変えないまま答えた。
「そうですね。では、どうして後天性能力者のみの現象なのでしょうか?」
「……わかりきったことをあえて聞くのは、なぜです」
征治が威嚇するように低く問い返す。うつぎも訝しげな眼差しを向けてきている。けれど天晴は感情の読めない表情で見つめ返してくるばかりだ。こちらが答えるまで続きを話さないつもりだと察して、征治は溜息交じりに答える。
「能力爆発が起こることで、非能力者が能力者になるからです。非能力者はたとえ能力エネルギーを持っていたとしても、それを放出するための出入り口に当たるものがない。ですが、能力爆発が起これば……」
そこまで言って征治はハッとした。隣で、うつぎも小さく「なるほどね」と呟いている。
「わかりましたね」
子どもが自ら答えを導き出せるよう誘導した教師のように、天晴は微かに笑う。
「そう、能力爆発があれば能力エネルギーの出入り口は必ず作られます。強制的にできてしまうからです。けれど彼は、それが見当たらなかった」
「だから能力が使えない、と」
征治の声に首を縦に振った天晴は、すぐ深刻そうに眉をひそめる。
「正直、最初は見間違いかと思いました。能力爆発の痕跡は見られるのに、エネルギーの出入り口がないなんてケース、初めてだったものですから。――ですよね、流深」
「急に振らないでよ」
赤毛に染めた長髪を揺らして、流深は苦笑交じりに軽く文句を言う。そうして彼は征治たちに向き直ると真剣な眼差しで続けた。
「そうだね、天晴の言うとおりだよ。ただまあ、なんていうかな。出入り口がないって言い方は正直、オレ的には、適切じゃないんだよね」
「と、いうと?」
先を促す征治。流深は下に着ている制服ごと白衣の両袖をまくり上げると、腕を組んで右手の人差し指の側面を顎に当てた。目を閉じて、唇をウニウニと動かす。それは彼が、自分が感じた感覚を言葉にしようとするときの癖だった。そうやってしばらく思案していたが、そのうち、ゆっくりと言葉を並べる。
「塞がってる、かな。うん、出入り口はあるけど、塞がってるって感じ……、伝わるかな?」
「一応、言わんとすることは。なんとなくわかりますよ」
征治の返答に流深は目を開いて、ほっと表情を緩める。彼は顎に当てていた手で自分の髪を梳きながら続けた。
「能力が使用できなくなるって症例自体は珍しくはない。オレも何件か診たことがある。そういうのは、能力爆発、あるいは能力そのものによる肉体への過剰な負荷や、精神的なショックが引き金になる。でも、史朗くんの場合はそうじゃないっていうか……」
もごもごと言いよどんで、流深は不安げな眼差しを天晴に投げた。視線を受けた天晴は真面目な表情でしっかりと頷く。それを見て流深は口をきゅっと結ぶと髪を梳くのをやめ、ひとつ頷き返すと征治たちに視線を戻した。
「第3者からの干渉があったんじゃないかって、オレは考えてる」
予想外の言葉に征治は息を呑んだ。うつぎも少し目を見開くと、床に視線を投げて考え込む。
目の前の2人の表情がより険しくなったのを見て、流深が慌てて付け加える。
「とはいっても、明言はできない。自信がないんだ。柊くんの能力エネルギーを『視た』ときに何か別のモノが混じってるみたいな違和感を覚えた、気がするだけだし……」
少し黙って彼は申し訳なさそうにうなだれる。
「ごめん。曖昧な情報しか提示できなくて」
「流深が謝ることではありませんよ」
慰めるように流深の背を撫でながら天晴は言うと、複雑そうな表情で征治たちを見た。
「曖昧な情報なのは確かです。そもそも『狼』や『兎』以外で他者への能力干渉を行える存在など聞いたことがありません。ですから流深は、この件をお2人にお伝えすべきかどうか迷っている、と私に相談してくれました。ですが……」
そこで1度、言葉を止め、天晴は流深に視線を送る。
「彼の『他者の能力エネルギーを回復させる能力』。その副産物的力である『能力エネルギーの流れなどを視る』という力はそれ自体が珍しいものです。もちろん、似た力を持つ者はいるにはいます。事実、私も近しい力を持っている。けれど、私の知る限り、流深ほどの精度で『能力エネルギーを視る』ことができる人物はいません。彼の能力は群を抜いて優れています」
天晴が再び征治たちに顔を向けた。まっすぐ向けられた眼差しを、征治はもちろん、考え込んでいたうつぎも顔を上げて受け止める。
「そんな彼が覚えた違和感、第4部隊の隊長である征治君、そして、副隊長であるうつぎ君にはお伝えすべきだと」
口を閉じて天晴は瞼を下ろす。深呼吸して瞼を開けると、覚悟を決めたように力強く告げた。
「第3部隊、隊長として判断しました」
その言葉に征治は息を呑んで腕を組んだ。うつぎが呆れたように僅かに首を振ったのが視界の隅に映る。
隊長判断と明言したということは、伝えたのが完全な誤情報だった際は自分が責任を取ると宣言したようなものだ。
『あるいは、流深さんを責めさせないための布石といったところか』
内心で呟いて征治は目の前の2人をそっと眺める。申し訳なさそうな流深と困ったように微笑む天晴。様子から互いに信頼し合っているのだろうと安易に想像がつく。
流深の『能力エネルギーを視る能力』の精度の高さについては征治もよく耳にしていた。であれば、その違和感とやらもあながち間違いではないのかもしれない
『信じてみる価値はある。ただ、そうなると』
征治は覆うように口に右手を当てて考え込む。
『柊史朗の能力に干渉した者がいる……』
情報が曖昧である以上、この件はあくまで可能性の話だ。だが、もし本当に誰かが史朗の能力に干渉し、しかもそれが悪意を持った干渉だったとすれば、彼が所属することになる第4部隊だけの問題では済まなくなるだろう。
『彼の能力分類『狼』は極めて特殊。情報を知る者の数も他の能力分類より少ないだろうが、一般に知られていないわけではない。まして、特能警の者であれば、詳細は知らずとも、ざっと情報を集めることは容易いはず。もしそうなら……』
「征治」
ふと、静かな呼び声が征治の思考を遮る。ハッと顔を上げれば、うつぎが真面目な表情でこちらを見ていた。
「考え込んでるとこ悪いけどさ。情報も足りてないし、どっちみち今は様子見でしょ。それより、史朗くんの目が覚めた、って雪くんから連絡」
「本当か……!」
「うん。ほら」
うつぎが手にしていたスマホの画面を征治に向ける。開かれているのはメッセージアプリだ。征治が画面を確認したのを認めて、うつぎはスマホを下げると、何かメッセージを打ち込みながら続ける。
「ここで悩んでるより、本人からも話聞くべきじゃない?」
「……それもそうか」
頷いて、征治は正面の2人に視線を向けた。
「そういうわけですので、すみませんが、俺たちは失礼します。また何かあったら連絡ください」
その言葉に天晴が穏やかに笑う。
「わかりました。そちらも何かあれば、すぐに連絡くださいね。いつでも力になりますよ」
「ありがとうございます。うつぎ、行こう」
天晴に小さくお辞儀して、征治はうつぎと共に面談室を出て行く。その後ろ姿を流深がじっと見送っていた。
***
「つまり君は、家で能力暴走を起こした。僕らが駆けつけたときには気絶していて、暴走も落ち着いている風だったけれど、再暴走の可能性もないとは言えなかった。それに体に異常があったらいけないからね。精密検査するためにも、ってことで、能力者専門の科があるこの病院に緊急入院することになったんだよ」
「そう、だったんだ。それで病院に……」
医者の診察を受け、とりあえず大丈夫そうだと診断された史朗は、雪博から自分が入院した経緯の説明を受けていた。
「そういうこと。でも、本当に、問題なさそうでよかった」
微笑む雪博に史朗は曖昧に頷いて、今、受けた説明を脳内で反芻する。
能力者とは、ほぼ無関係に生きてきた史朗でも、能力暴走という言葉自体は知っていたし、それ関連のニュースなども耳にした事がある。ただ、それが自分の身に起こるとは考えてもみなかった。
視線を自分の掌に向ける。2、3度、握って開いてを繰り返した。自分も能力者とやらに目覚めたらしいが、どうもその実感はない。
「あー、それとね」
どこか、躊躇うような声音に史朗は顔を上げた。先程とは打って変わって、困ったような表情を浮かべた雪博がこちらを見ている。
「君に伝えたいことが、もうひとつ、あって……」
彼の言葉は今までと違って、妙に歯切れが悪い。どうしたんだろうと史朗が小首を傾げたとき、コンコン、とノックの音が響いた。雪博が慌てたように立ち上がり、カーテンの陰から病室の入り口を窺いながら呟く。
「もう来たの?」
ちらりと史朗を見て、それから、彼は諦めたように声を上げた。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
「しっつれーしまーす」
低い声と、それより少し高めの声がした。複数の足音がこちらにやって来る。同時に雪博がカーテンの向こう側へ出て行ってしまった。こそこそと会話する声に史朗は耳をそばだてる。
「早いね。もう少しかかると思ってた」
雪博の声に低い声が答える。
「わかることが少なくてな。彼は?」
「ああ、うん。起きてるよ。現状、大丈夫そうだ、ってお医者様から」
「そうか。ならいい」
安心したように低い声が言うのを聞きながら、史朗は眉を寄せた。
『誰だ……?』
カーテンの向こうを探るように眺める。するとカーテンがそっと開かれて、雪博と、その側に立つ見知らぬ2人組の男が目に入った。2人とも歳は20代くらいで、彼らも軍服に似た服をまとっている。色は雪博と違って紺がベース色のようだ。1人は睨むような鋭い眼差しが特徴的で、なんだか不機嫌そうに見える。もう1人は狐のような細い目が特徴的で、にこにこと笑ってはいるが、そこはかとなく胡散臭い。
対照的ではあるが、どちらも怪しい雰囲気だ。史朗は無意識にそっと体を引く。
「ああ、ええと、そうだよね。大きいし、威圧感あるよね。大丈夫、この人たちは、大丈夫な人たち」
史朗が警戒しているのに気がついたのだろう。雪博がサッとフォローを入れる。そして、すぐ隣に立っている不機嫌そうな男を手でさして続けた。
「紹介するね。この人は椿征治。それから」
言葉を切って、征治の隣の狐目を指し示す。
「神野うつぎ。彼らは僕の……なんだろう、上司、かな。今は」
『今は……?』
どこか曖昧な説明に内心、首を傾げながら、史朗は2人の男を眺めた。
征治は大柄で180センチはありそうだ。相当鍛えているのか、服の上からでも筋肉質の体であることが窺える。不機嫌そうな鋭い眼差しも相まって、立っているだけでかなり威圧感がある。
一方、うつぎはというと、征治よりは少し小柄だ。袖口と、裾の後ろ半分が大きく広がった服を着ているためか、やや華奢に見える。黙ったまま楽しそうに、にこにこ笑うさまは、こちらの胸の内を覗かれているようで、あまりいい気分ではない。
やはり何となく信用できない感じがして、史朗が怪訝な表情を浮かべたままでいると、雪博は困ったように眉を下げた。
「まあ、今すぐに信用するのは難しいかもだけど、でも、本当に2人はいい人なんだ。僕が保証する」
「あらま、嬉しい評価されちゃったねぇ」
雪博の断言に反応したのは、うつぎだった。声につられた史朗が視線を向けると、それに気づいたうつぎは傍に寄ってきた。そして先程とは少し違う、胡散さの無い穏やかな微笑を浮かべて口を開く。
「はじめまして、柊史朗くん。神野うつぎだよ。よろしくね」
うつぎが手を差し出してきた。取っていいものか迷った史朗は咄嗟に雪博を見た。助けを求めるような眼差しに、彼は大丈夫と言いたげに頷いて見せる。史朗はちょっと嫌そうに眉を寄せたが、すぐに諦めてうつぎに向き直った。
「……ども」
小さく会釈しながら躊躇いがちに手を伸ばす。うつぎはその手をすぐ捕まえて両手で包むように握手すると、嬉しそうに小さくぶんぶん振った。それから彼は史朗の手を握りしめたまま、征治のほうを振り返る。
「ほら、征治。そんなとこ突っ立ってないで。カムカム」
片手だけ離して征治を手招きする。征治はそれまで以上に嫌そうに顔をしかめ、溜息交じりにこちらにやってきた。にこにこしながら史朗の手を離したうつぎは、入れ違いざまにポンポンと征治の背を叩き、雪博の隣に戻っていく。
史朗の傍に立った征治はやっぱり怖い顔をしている。睨むように見下ろされた史朗が身構えると、征治はハッとして、神妙な面持ちをした。それから気まずそうにゆっくりとしゃがみ込む。片膝を床につき、彼はやや見上げる形で史朗を見た。
「紹介にあずかった椿征治だ。よろしく頼む」
手を差し出された。表情はまた険しくなっているが、しゃがんで視線の向きが変わった分、先ほどまでの威圧感はだいぶ減っている。どうやら気を使ってくれたらしい。
『さっきの人よりかは、いい人かも……?』
そんなことを思って、史朗は大人しくその手を取ることにした。
「ええっと、ども」
会釈して、征治と握手する。彼の握り方はしっかりと力強かった。どうやら、たこがあるらしく、その手は思った以上にゴツゴツとしていた。
うつぎと違って、征治はすぐに手を離した。けれどそのまま立ち上がらず、しゃがんだままに雪博に視線を移す。
「ところで雪博。どこまで説明した」
「あ、えっと。入院の経緯は一通り。2人が来るのが思ったより早くて、そこまでしか話せてない」
「そうか、わかった」
不安そうに答えた雪博に頷いて、征治は史朗に向き直った。再び向けられた鋭い眼差しに思わず史朗が背筋を伸ばすと、征治はまた、あの神妙な面持ちをした。少し考える素振りを見せて、おもむろに口を開く。
「そんなに硬くならなくてもいい。楽にしてくれ」
「あー、はい……」
史朗も一応、頷きはするが「視線が怖い、痛い」というのが正直なところだ。
『悪い人じゃないんだろうけど……、なんとなく視線合わせたくねぇー』
内心でぼやいて、史朗が視線を彷徨わせたとき。
「お届け物でーす」
うつぎがおどけたように言うのが聞こえた。その場にいた全員の視線がうつぎに向く。いつのまに借りてきたのか、彼は両手に1脚ずつパイプイスを持っていた。
「はい、イス」
うつぎは征治の横にイスを1脚、開いて置くと、座面をぽんぽんと叩く。
「征治いつまでも王子様やってないで、ほら、座んな」
しゃがんだまま振り返っていた征治は、うつぎの言葉にしばし黙り込んだ。それから絞り出すような声で言う。
「別に、王子様をやっているわけじゃない」
「知ってる知ってる。はい、どーぞ」
征治の不服そうな声も、うつぎにはどこ吹く風らしい。軽い口調でそう答えて、彼は次に雪博を見た。そうして、空いた片手で、初めからベッド脇に置いてあったイスを指さす。
「雪くんもそこ、座って座って」
「あ、はい」
うつぎに指示されるまま、雪博は席に着く。ベッドを挟んだ向かい側でも、しかめっ面の征治がイスに腰かけている。大人しく座る2人を満足そうに眺めたあと、うつぎは雪博の横に移動して、持っていたイスを置いた。
「史朗くん、って呼んでいいかな?」
「あ、はい」
ふいにかけられた声に驚いて、史朗は咄嗟に頷いてしまう。軽率に頷いてしまったことを内心ちょっと後悔するが、うつぎがそれを知る由もない。彼は席に着きながら、穏やかな口調で続ける。
「ぶっちゃけ、征治のこと怖いんでしょ? そんでもって、おれのことも信用できなさそう、って思ってる」
ド直球な問いかけに史朗はきゅっと口を結んだ。言われていることは事実だが、まさか「はい、そうです」なんて答えるわけにもいかない。
固まる史朗を見て、けれど、うつぎはクスリと笑う。
「ごめんごめん。答えにくいよね。意地悪な質問だった」
『意地悪って自覚あるのかよ』
内心で愚痴る史朗。うつぎはしばらくクスクス笑っていたが、そのうち穏やかな微笑を浮かべた。組んだ手を膝に乗せて、史朗の側に少しだけ体を倒す。細い目がじっと史朗の目を覗き込んだ。
「君が、おれたちが何者かよくわからなくて不安に思うのと同じで、おれたちも、君がどんな子か分からなくて不安なんだ。特に、征治はさ」
うつぎの視線が征治に向けられる。史朗もつられてそちらを見た。征治はなんとも複雑そうな表情で黙り込んでいる。体はこちらを向いているが、目は合わない。意図的に目線を外しているようだ。
「これから征治は史朗くんに、大事な話をしなきゃならない。だから余計に緊張して、怖い顔になってるんだ」
「大事な話?」
史朗が不思議そうに言葉を繰り返すと、うつぎは視線を戻して、おもむろに返答する。
「そう、君の今後に関わる、とーっても大事な話」
とても大事な話とはいったい何だろうと、史朗は征治を見た。今度は視線が重なる。目が合った征治は静かに息を吐き、おもむろに口を開いた。
「先ほど雪博にも聞いたが、入院するに至った経緯について聞いているね。理解ができているか確認したい。ざっとでかまわないから、説明してくれるかい?」
「あ、えと」
説明を求められて、史朗は少し緊張しながら聞いたことを話した。能力暴走を起こしたこと、心身の検査のために入院したこと。
「あと、再暴走? ってのがあるといけないから、みたいに、この人に言われました」
雪博を指しながら史朗が返答する。言葉に征治はほんの一瞬、怪訝な顔をして、けれど、すぐに真面目な表情に戻り、「理解できているな」と頷く。
『今の顔、なんだ……?』
史朗は内心で首を傾げた。だが、征治が先に口を開きかけたのに気づいて黙り込む。
「では、結論から。君のことを特能警で保護することになった。それに伴って、しばらく学校も休学してもらう」
「……は?」
思いもよらない言葉に史朗の喉から低い声が出た。その反応に雪博が困ったように眉をハの字にし、うつぎが小さく肩をすくめている。
「ちょっと、意味……、わかんないんだけど」
史朗はベッドに座ったまま征治に詰め寄った。柵に手をかけ、混乱しながら矢継ぎ早に質問する。
「保護ってなに? 休学ってどういうこと? しばらくってどのくらい? 今、だって、12月だぞ。高校受験とか、卒業式とか、すぐなのに」
まくしたてるような言葉の羅列を、征治は表情ひとつ変えないまま黙って聞いていた。史朗が一通り言葉を吐き切るのを見計らって、彼はゆっくりと告げる。
「その説明を、今からしたいと、思っている」
まっすぐな眼差しに史朗は押し黙った。少し体を引く。それを認めて征治はおもむろに口を開いた。
「我々が君を保護し、休学するよう言う理由は、主にみっつある。まず、ひとつ」
数えるように征治は人差し指を立てる。
「君の能力が不安定な状態にあると推察されるからだ。先ほど、再暴走の話があっただろう。能力暴走の直後からしばらくは、能力が安定しないことが多い。それに、君に発現した能力はかなり特殊でね。その再暴走ともあれば、君自身含め、周囲にどんな影響が及ぶか分からない」
「特殊……?」
眉を寄せて呟く史朗に頷いて、征治は2本目の指を立てた。
「それが、ふたつめの理由だ。詳しくはおいおい話すが、君の持つ力は一般のものとは一線を画す。上手く扱えば万能だが、悪用もされかねない。能力が悪用されることを我々は危惧している」
「悪用って……」
「史朗がってわけじゃないよ!」
「もちろん、君がってわけじゃないよ」
史朗の不快そうな様子に2つの声が同時に飛んだ。びっくりして声の方を見れば、雪博とうつぎが顔を見合わせている。ほんの少しの沈黙のあと、うつぎが微笑んで、どうぞというように雪博を手で指し示す。雪博は会釈して史朗に向き直った。
「あのね、史朗、くんが、悪用するとは思ってないよ。それは絶対ない。でも、世の中には悪いことを考える人がたくさんいる。そういう人たちが君を脅して、無理矢理、力を使わせてくるかもしれないってこと」
「そうそう。世の中にはわるーい大人がわんさかいるからね」
どこか呆れた様子でうんうんと頷くうつぎ。
『うつぎって人はともかく、雪博は……嘘ついてなさそうだな』
なんとなくそんなふうに思えて、史朗は少しだけ表情を緩めた。
「続きを、話してもいいかな?」
静かな問いかけに史朗は征治に向き直った。それを肯定と捉えて征治は3本目の指を立てる。
「みっつ。今の君が、能力を使えない状態だからだ」
「えっ。やっぱりそうなの?」
雪博が驚いた様子で口を挿んだ。そんな彼に征治は目を細めて尋ねる。
「知っていたのか」
「あ、いや。知ってたわけじゃない、けど。その、違和感は、あったっていうか……」
困ったように視線を彷徨わせて雪博は答える。征治は少しの間、黙って雪博を眺めていたが、それ以上の追及はせず、静かに息を吐いた。
「今の柊君は、能力を使えない。なぜ能力を使えない状態なのか、ハッキリとはわからない。ただ、確実に言えるのは」
言葉を止めて、征治は史朗を見た。そして苦い顔をして言う。
「能力を使えないということは、君には自衛する術がない、ということだ。だから我々は、君を保護することで、先ほど話したような、君の力を悪用しようとする第三者から、君を守りたいと考えている」
「――と、征治がいろいろ説明したわけだけど」
征治に続けて、うつぎが明るく声を上げた。史朗が顔を動かせば、うつぎはにこにこ笑って告げる。
「要するに、君自身と、君の周囲の人間の安全を確保したい、っていうのがこっちの考えなわけ。理解してくれると、嬉しいかなぁ」
笑顔のまま小首を傾げるうつぎに、史朗は少しだけ顔をしかめた。考えながら口を開く。
「いや、まあ。言いたいことは、わかるけどさ。そんな急に言われても、困るだろ、ふつう。友達もびっくりするだろうし。それに」
そこまでいいかけて史朗はハッとした。視線を手元に下げる。優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
「……母さん」
小さな呟きが零れた。優しく笑う母の顔が脳裏に浮かんだ。咄嗟に雪博を見る。
「家に、母さんがいたはずだ。能力爆発ってたしか、けっこうヤバい被害が出るんだろ? 母さんは無事、なんだよな? オレのたった1人の家族なんだ……!」
史朗は状況を理解するのに精一杯で、そこまで考えが回っていなかった。不安げな問いかけに雪博が口を結ぶ。その反応に史朗は胸がぎゅっと詰まるような感覚がした。
「な、んだよ。どうなんだよ」
史朗が再度、震える声で問いかけるのと同時に、征治が驚いた様子で口を開く。
「雪博。この話もまだだったのか」
言葉にはしないものの、うつぎも意外だと言いたげな表情を浮かべている。
「あ、うん……。他のことを先に話してたから」
困り顔で征治に返した雪博は、視線を動かし、少し考えるような素振りを見せた。それから史朗に向き直り、その目を真っ直ぐに見つめて告げる。
「大丈夫。お母さんは、無事。怪我は、してない」
「……本当に?」
絞り出すような声で史朗は確認した。征治とうつぎが黙って事の成り行きを眺めている。
「本当だよ」
少し微笑んで、雪博は答えた。史朗はしばらく雪博の目をじっと見つめていたが、そのうちぽつりと言葉を吐く。
「無事、なんだな」
呟いた史朗の顔が泣きそうに歪んだ。1度、ぐっと唇を噛んで、それから肩の力を抜く。
「よかった……」
心底安心したような声音が彼から零れた。微笑んだままそれを眺めていた雪博が「それでね」と話を続ける。
「君を保護するって話と、それに伴った休学の話はお母さんにもしてあるんだ」
「そうなの?」
「うん。君のことよろしくって言われてる。だから、能力が安定したって言い切れるまでは、僕らと一緒にいて欲しいんだ。ダメかな」
不安そうに雪博が首を傾げる。史朗はうつむきぎみに考え込んだ。
今までどおり、家に帰って学校に通う。そうしたいのが史朗の本音だ。けれど、征治たちが言うように、能力の再暴走や、自分が誰かに狙われることがあって、そのせいで大切な誰かが傷つくかもしれないのなら。
『……それは、やだな』
内心で呟く。想像しただけでも、胸の奥がぎゅっとして息苦しくなるような嫌な感覚が湧き上がった。史朗はひとつ頷いて、顔を上げる。
「あんたたちの言うこと聞けば、まわりを巻き込まずに済むんだな? ……じゃあ、従う」
返答に雪博がほっと息を吐いて、安堵の笑みを浮かべた。そうして嬉しそうに言う。
「ありがとう。そう言ってくれて、本当によかった」
向けられる柔らかな笑顔に、史朗はなぜか照れくさいような気持ちになった。気まずさに視線をさまよわせれば、征治たちが視界に入った。彼らも心なしか胸をなでおろしているように見える。
「じゃあ、改めて」
雪博の声に振り向く。彼は満面の笑みを浮かべたまま、史朗に手を差し出した。
「柊史朗くん。これからよろしくね」