一
忠国警備シリーズサイドストーリー。ユウキの話。
自サイトでも公開しています。
http://gambler.m78.com/hikaru/sakuhin/fromDADtoSON.html
「加藤さん、診察室へどうぞ」
待合室に日奈さんの声が響く。日常の光景だ。診察室では母が、カルテを捲って次の患者の確認をしている。僕はと云うと、その奥のカーテンで仕切られたスペースで、看護師達の邪魔にならない様にこっそり隠れて、母の仕事振りを見ている。
「あれ、ヒロくん帰っとったの? ちょっと通るよ、ごめんね」
看護師の希理子さんが僕を避けながら、奥の戸棚に消毒薬を取りに行った。
「やあヒロくん、今日もお母の見学?」
ガーゼや包帯を抱えた多恵さんが、目の前を通り過ぎる。
希理子さんが消毒薬を持って戻って来ると、「オキシドールでーす」と云って多恵さんに手渡した。
診察室では母が、鳶か大工の様な恰好をした患者の腕に包帯を巻いていた。何をしたのか判らないけど結構な怪我をしている。包帯を巻き終わる位のタイミングで、鳥渡だけ治りが早くなるおまじないをしておいた。
「なんか良なった気がしゃあす、流石は由紀先生だがや!」
患者さんがそんなことを云っている。
「何云っとりゃあす、消毒して包帯巻いただけだで。暫くは大人しゅうしときゃあよ」
母にはおべんちゃらなど通じない。冷たくあしらうと、「はい次の方ー」と云って患者を追い出した。
僕は幼稚園から帰ると、いつもこうして母の仕事を見守り、時々鳥渡だけ手助けしている。母は僕がそんなことをしているなんて気付いていないし、僕の能力のことも知らない筈だ。これを知っているのは父だけ。抑々父から受け継いだ能力だから、知っていて当たり前なんだ。
次の患者は食中りの様で、洗面器持って青い顔しながら入って来た。看板には「澤田小児科外科クリニック」なんて出しているけど、正直何でも来る。町医者だから外科も内科も無いのだ。ところでこれ、サルネ……サモルネ……なんだっけ、これヤバイ奴だ。これ以上悪化しない様に、あと他の人に伝染らない様に、おまじない。辛そうだと云うことで、別室で吐き気止めと下痢止めの点滴になったけど、まあ直良くなるよ。
こんな調子で次々来る患者の治療を鳥渡ずつ手助けしている所為か、母の治療は良く効くと評判になっちゃって、引っ切り無しに患者が来る。御蔭で近所の他の医者は暇になってる様で、鳥渡遣り過ぎたかも知れない。余り遣り過ぎたら、また父に怒られちゃうなぁ。今日はこの辺にしておこうかな。
この診療所は母を始めとして、女の人しかいない。受付の日奈さん、看護師の希理子さんと多恵さん。日奈さんが三十前半で、看護師二人は二十代らしい。皆僕を可愛がってくれるから、迚も居心地が好い。いつも入り浸って仕舞う。で、そのお返しに治療のお手伝いをしているんだけど、今日は鳥渡だけ遣り過ぎた気がする。
「はーい、今日の診察はおしまいでーす」
日奈さんが診察室に終業を知らせに来た。
「はい、お疲れさん。キリちゃんと多恵ちゃんもお疲れさん」
母が白衣を脱ぎながら、皆に労いの言葉を掛けている。
「それでは、失礼しまーす」「キリちゃん、お茶行かない?」「あー、今日用事あるもんで、ごめんねぇ」
そんなことを云いながら看護師達は捌けて行った。先日迄緊急事態宣言だか厳重警戒宣言だか云うものが出ていたけれども、それも取り敢えず解除になって、看護師さん達も今迄我慢していた分を取り返したいのかも知れない。今回は都合が合わなかった様だけど。
「弘和も、帰ろまい」
丸椅子からぴょんと飛び降りて、母の手を握る。
「今日も大人しゅうしとったね。退屈せなんだの?」
「うん、楽しかったわ」
「何がほんな楽しいかね。わからんねぇ」
外に出ると、冷たい風が首筋を掠めて行った。最近曇り勝ちな所為か、急に涼しくなってきた。十月だから当たり前なのかも知れないけれど、でもつい先週位迄は未だ未だ夏の様に暑かった気がする。若干体を縮こませながら、母と一緒に診療所を後にする。表玄関の鍵を掛けてシャッターを下ろしたら、稍急ぎ足で裏に回って住居の玄関から同じ建物に入る。診療所の二階が住居になっているのだ。
「ただいまぁ」
「おかえり!」
帰宅すると、父が出迎える。父は在宅で仕事をしている。何の仕事をしているのかはよく知らないけど、今はどの会社も、出社しないで在宅で働くのが普通なのだそうだ。一寸前迄は普通に出勤していたそうなのだけど、よく覚えていない。幼稚園に入るより前の話だと思う。初めて「緊急事態宣言」なんて聞いたのはいつのことだったかな。皆あの感染症が原因なんだ。
そういえばその感染症も見たことあるよ。家に受診しに来た人の中に居たんだ。凄いヤバそうだったから、検査とかで確定する前に僕が完治させちゃった。周りに伝染り掛けていたのも全部消しといた。発熱者用の隔離された待ち受けで辛そうにしていたのに、診察時には熱も下がってケロリとしていたから、大袈裟な人だなってことになって、薬も出さずに追い返されちゃったのは気の毒だったけど、そんなこと云ったって感染症で苦しむより何百万倍も好いよね。この事を知っているのは父だけなんだけど、父も流石にこの件に就いては僕を叱らなくて、ちょっと複雑な難しい顔してたっけ。――まあそんな訳で家の界隈では、否少なくとも家に来院する人達に限っては、感染者出てないし、これからも出さない。
診察は午後六時に終わっているから、そこから夕御飯の支度をして、遅くとも八時迄には食べ終わって、それから父とお風呂に入る。お風呂の中で、今日のことを話す。治療の手伝いをした件に就いては凡てここで報告する。隠しても何でかバレちゃう。能力を使った痕跡とかが残るみたいで。だから全部正直に話すんだけど、案の定鳥渡叱られた。
「そりゃあやり過ぎだよ。もう少し手を抜けよ。もっと人の自然治癒力を信頼しろな」
「別にそこは、信頼してないわけじゃないよ……」
「そうかな。だったら寧ろ何もしないでおいてくれよ」
父はこの辺の生まれじゃないから、ちっとも訛っていない。だから父と話す時は、僕も訛らない。なんと云うか、訛るかどうかって結構相手に引き摺られる。母と話すと訛るし、父と話すと訛らない。なんか不思議だけど、そうなんだからしょうがない。
「そうだヒロ、お前そろそろ他の能力も覚えてみないか」
「他って?」
「毒の中和とか」
「毒って……なんとなく判るよ」
「そうなのか?」
「ちゅうわってのは、したことないと思うけど……あれが毒だな、ってのは判る」
「流石だなぁ、父さんがそれ判る様になる迄には、結構時間掛けたんだけどな」
「えへへ」
多分褒められたんだと思う。なんだか嬉しかった。
「じゃあさ、このお風呂の水にどんな毒が入ってる?」
「どんなって……水道の水には全部この……臭い奴入ってるけど、毒なこともあるけど、でもこれが無いと水腐るよ」
「塩素な」
「えんそ?」
「そう。正確には次亜塩素酸イオン。大量にあったら矢っ張り毒なんだ。でもヒロが云う通り、消毒の効果があるし、少量なら無害なんだ。試しに――」父はそう云うと手桶で風呂の水を掬って、「この桶の中からその次亜塩素酸イオンを消してご覧」
「うーんと……こう……かな?」
じあえんなんとか云うモノを、鳥渡クルっとしてみたら、桶の中のソレが連鎖的にパタパタと消えた。何で消えたのかは好く判らないけど。
「上手いなぁ」
また褒められちゃった。でもその代わりに、なんか別の悪いものが増えて行く気がする。
「次亜塩素酸が消えたから、この水の中に別の毒が増えてきたの判るか? これは雑菌だな。風呂の水なんか雑菌だらけだ。カビとか、レジオネラとか、バクテリアとか、皮膚の常在菌とか」
どれが何かとか、名前は好く判らないけど、良くないモノ――毒が増えて行くのは判る。
「この毒も消せるかな?」
やってみた。クルリクルリと捻ると、次々と毒性のモノが消えて行く。形あるモノは破裂したり溶解したりして、分解、吸着、結合を繰り返し、あるモノは沈殿し、あるものは拡散し、毒素が次々と消滅してゆく。
「凄い凄い。父さんよりすごいぞ!」
また褒められたみたい。非常に嬉しい。
「どれが何て名前なのか、追々憶えて行くと好いよ。取り敢えず今遣っ付けたのはね――」
父が色々な名前を教えてくれたけど、ややこし過ぎて直ぐには覚えられそうにないから、後で図鑑とかネットとかで復習しようと思う。
「今日はこんな所だな。他にもいろんな毒があるから、今度教えてあげるよ」
なんだか不穏な会話だと思うけど、楽しみの方が勝って仕舞う。それにしても父は、なんでこんなに色々と教えてくれるのだろう。診療所で患者を直すのは良くないと云う癖に、なんだか迚も愉しそうに、僕に色々教えてくれるんだ。
そんな父が、僕は大好きだ。