メルハ14歳(3)
男ものの革靴がうつむいた視界の端を通り過ぎていく。
この地でメルハが愛されることはない。事実が重くおもくのしかかる。自分で言った通り、愛のない結婚だ。異国でこれから何十年も肩を縮めて生きていかねばならない。
他国に行くのでも、父兄はカレヴィとの婚約が最善だと言い張り選択権もくれなかった。ソンダーブロ州に嫁ぎに来たのは自分の意思ではない。やるせなくて尾を引いている。
もし気心の知れた友人のいるズーアプラーナ国へ行くことができたのなら、いまごろメルハも笑顔でいられただろうに。
レンガをひとつ地面に置いた。腕を上げて、息を吸う。吐くときに上から手の側面を叩きつける。二度、三度繰り返す。割れるどころかヒビも入らない。あの男はどうやってこれを壊したのか。どれだけの圧力が必要になる。これひとつにメルハの全体重をかけても壊れないのに。
振り上げた手首を掴まれた。
「手を傷つけるぞ」
やわらかい皮膚は簡単に擦り傷がついて赤くなっている。
「屋敷に戻ったのではなかったの」
「一人になりたいのかと思ったから少し離れただけだ。自傷するのは見過ごせん」
メルハはカレヴィと目を合わせない。
「暴れたいのならいい場所がある」
向かった先は屋敷ではなかった。敷地から歩いて十五分ほど離れたアーティサーリ家の私軍訓練基地へ入っていく。メルハがむかし慰安で訪れたイブリーカ帝国の軍事施設も似たような雰囲気をしていた。
トレーニングルーム、というのだろうか。
使用方法の不明な機器。あれを持ち上げる人間はいないだろう、と無駄にさえ思える円盤の重しが棚に飾ってある。
中心にはサンドバッグが天井から吊るされていた。円柱形の袋自体はメルハの身長とそうそう変わらない長さをしている。
ほれ、とカレヴィは黒いバッグを裏拳で叩く。
これに好きに打ち込めということか。
メルハなりに手を握り込んで、サンドバッグにぶつけた。枕を叩いたのと大差ない音がした。骨がじんじんとして、指を広げられない。
「……いっ……たいわ……」
痛めた手を庇うようにしてその場にへたり込んだ。
しかめっ面をしたカレヴィはメルハの手をとって、ひねったり回したり指をつまんだりして深刻な怪我をしていないか確かめていく。
流水で洗浄後、救急箱を取り出して擦り傷用の軟膏を塗ってくれた。四角い爪の武骨な手だけれども手当てに慣れている。
ーー怖いお顔をして、こんなことができるのね。
折りたたみの椅子を広げ向かい合わせに膝をくっつける。
「それで、何が不満だ。話し相手でも欲しかったのか?」
弱く否定する。
「わたくしはこれから外国で独りきりなのだわ……」
一時的な旅行ではなく、一生を過ごす場所となる。
家の外、どころか部屋の外へ出ることが怖かった。海を越えたここは言葉も違えば文化も違う。吸って吐く空気ですら。人びとの顔つきも見慣れない。毎朝の起床を促すラッパの音にもびっくりしてしまう。予告もなく響くサイレンの意味を誰もメルハに説明してくれない。
環境の変化についていけず、イブリーカの雰囲気を宿す部屋に固執した。
「寂しいのならそう言えばいい。私はメルハの不服を埋めるためにいる。悪いが夫を他に見繕うことはできん。そこは納得してくれ」
お互い、望まぬ相手ということだ。
「……べつにカレヴィが嫌なんじゃないわ」
ほう? と小首を傾げられた。
「だって、本気で嫌だと思えるほどあなたと時間を過ごしていないもの。説教くさいけれど、言い分は正しいわ。わたくしは生きるためにあなたのような後ろ盾が必要です」
身勝手な振る舞いからかけ離れた発言だった。これまでの態度は自分の置かれた状況を頭でわかっていても感情がついていかなかったことから来ていた。
「任されたからには面倒は見る」
拾った子猫の世話はする、というふうに聞こえたが、嘘らしさは皆無だった。怒ったとしても、メルハに直接暴力を振るうことはしない。だから正直になろうとした。
「……さっきのレンガのときもだけれど、カレヴィの乱暴な話し方はちょっと怖いわ。普通の人みたいに優しくないのだもの」
メルハは他を屈服させるに足る美貌と身分を持つ。家族以外に対等な存在はおらず、他は全て下のもの。いくつ年上の男からだって丁寧に扱われてきた。
彼はバツが悪そうに眉根を寄せる。長年かけて作り上げた口調はカレヴィの性格そのもの。変えるのは難しい。彼なりにメルハを理解して丁重に接しようとはしているのも考えればわかる。ひたすらに、メルハが冷静になれないのが悪い。
ピンクがかった紫の瞳の輪郭が歪む。
「でもそれは、わたくしがカレヴィに慣れていないだけね。この国についても知ろうともしなかったわ。
でも……」
ぱたり、と服に染みをつくる。
「でもね、この国に馴染んでしまえば、イブリーカのことを全て捨ててしまうことになる気がするの。父様も母様も兄様も……」
大事にしてきたものを丸ごと置いてきた。成人もしてないのに右も左もわからない土地で生きろと放り出されている。
「捨てることにはならんだろう。欲しいものがあったらイブリーカからでも取り寄せる。家族が恋しいのなら、すぐに会わせることはできんが電報でも手紙でも好きなだけ送ればいい」
血縁といえど、王族に面会の約束をとりつけるのにも数ヶ月を要する。前は同じ王宮内に住み、思いつけばふらりと会いに行けたのに。血を分けた家族だったから。
「王宮にいれば会いたいときに会えたのに」
「どうしてもと言うのなら、戦闘機を飛ばしてやる」
「侵略と間違われるのではなくて?」
壁時計を見て、カレヴィは首を振る。
「見つかって追いつかれるような鈍い機体は使わん。いまから行って帰るだけなら夕飯には間に合うぞ」
目標は海を越える国。船でも一日二日の旅程では間に合わない。代わりに空を使えば一直線に城へ突撃できる。しかしそこまでの性能をそろえた機体であれば、存在すらも機密にしているのが普通だ。
「使用許可なんて下りないでしょう」
は、と一笑に付す。
「私物だ」
カレヴィの私物機体のモデル
Dark Star
機体重量:機密
許容人数:パイロットのみ
最高速度:機密
攻撃射程:機密
座席はひとつ。メルハは膝に乗せときゃいいんですよ……。