第3節 感情の歪みの芽生え
孤児院での生活が始まって数週間が経った頃、リュシアは自分の中に“説明できない感情”があることに気づき始めていた。
それは、他の子どもたちが喧嘩をしているときに強く現れる。
殴り合い、叫び合い、押し倒し、泣き声が響く。
その混乱を目にすると、胸の奥がざわざわと騒ぎ出すのだ。
(どうして……こんな気持ちになるんだろう)
怖いわけではない。
嫌なわけでもない。
むしろ、目が離せなくなる。
ある日、年上の少年二人が裏庭で激しく言い争っていた。
理由は些細なことだった。
拾った木の枝がどちらのものか、それだけだ。
「返せよ!」
「嫌だね。先に拾ったのは俺だ!」
少年のひとりが相手を突き飛ばし、もうひとりが反撃する。
やがて殴り合いになり、泥が舞い上がった。
リュシアは少し離れた場所から、その光景をじっと見つめていた。
胸の奥が、またざわつく。
(……まただ)
心臓が速くなる。
息が浅くなる。
手のひらがじんわりと熱くなる。
その感覚は、痛みでも恐怖でもない。
ただ、胸の奥に“熱”が灯るような感覚だった。
喧嘩はすぐに院長に止められた。
だが、リュシアの胸のざわめきはしばらく収まらなかった。
その日の夜、リュシアは布団の中で目を閉じながら考えていた。
(私……おかしいのかな)
他の子どもたちは喧嘩を怖がる。
泣き叫ぶ子もいる。
止めに入る子もいる。
でも、リュシアは違った。
喧嘩を見ると、胸がざわつく。
痛みを見ると、心臓が速くなる。
誰かが泣いていると、息が浅くなる。
(どうして……)
答えは出ない。
ただ、胸の奥のざわめきだけが、確かに存在していた。
翌日、孤児院の廊下で、年下の子どもが転んで膝を擦りむいた。
血がにじみ、子どもは泣き出した。
「痛いよぉ……!」
周りの子どもたちは見て見ぬふりをした。
誰も助けようとしない。
それが、この孤児院の“普通”だった。
リュシアは泣いている子どものそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
「いたい……」
リュシアは子どもの膝に触れた。
血が指先につく。
その瞬間、胸の奥がまたざわついた。
(……どうして)
痛々しいはずなのに、胸が熱くなる。
泣き声を聞くと、心臓が速くなる。
「リュシア、どうしたの?」
院長が駆け寄ってきた。
リュシアは慌てて手を引っ込めた。
「……なんでもないです」
院長はリュシアの表情を見て、少しだけ眉を寄せた。
「あなた……最近、様子が変よ」
リュシアは答えられなかった。
自分でも、自分の感情がわからなかった。
その日の夕方、院長はリュシアを呼び止めた。
「リュシア、あなた……怖い夢を見たりしていない?」
「いいえ」
「誰かにいじめられている?」
「いいえ」
院長はしばらく黙り、やがて静かに言った。
「あなたは、優しい子よ。でも……心が疲れているのかもしれないわ」
リュシアは頷いた。
だが、胸の奥のざわめきは、院長の言葉では消えなかった。
(私……どうしてこんな気持ちになるんだろう)
その疑問は、リュシアの中でゆっくりと膨らんでいった。
孤児院での生活は、リュシアにとって“生きるための訓練”のようなものだった。
誰も助けてくれない。
誰も守ってくれない。
泣いても、叫んでも、状況は変わらない。
だから、リュシアは泣くことをやめた。
怒ることもやめた。
感情を表に出すことをやめた。
その代わり、胸の奥に“ざわめき”だけが残った。
ある日の夕方、孤児院の裏庭で、年上の少年たちがまた揉めていた。
理由は、拾った木の実をどちらが食べるかという、いつものような些細なことだった。
「返せよ!」
「嫌だね。腹減ってんだよ!」
少年のひとりが相手の胸ぐらを掴み、もうひとりが突き飛ばす。
泥が跳ね、叫び声が響く。
リュシアは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
胸の奥が、またざわつく。
(……どうして、こんな気持ちになるんだろう)
喧嘩を見ると、心臓が速くなる。
息が浅くなる。
手のひらが熱くなる。
怖いわけではない。
嫌なわけでもない。
ただ、胸の奥が“生きている”ように騒ぎ出す。
喧嘩はやがて収まり、少年たちは泥だらけのまま部屋に戻っていった。
リュシアはその場にひとり残り、地面に落ちた木の実を拾った。
(……これが原因で喧嘩したんだ)
手のひらに乗せた木の実は、ただの小さな果実だった。
だが、それを巡って殴り合いが起きた。
(みんな……必死なんだ)
その必死さが、リュシアにはどこか眩しく見えた。
自分にはない“強い感情”のように思えた。
(私には……ないのかな)
胸の奥が、またざわついた。
その夜、院長がリュシアの部屋を訪れた。
薄暗いランプの光が、院長の疲れた顔を照らしていた。
「リュシア、少し話せる?」
「はい」
院長はベッドの端に腰を下ろし、リュシアの手をそっと握った。
「あなた、最近……喧嘩をじっと見ていることが多いわね」
「……はい」
リュシアは嘘をつかなかった。
つく必要も感じなかった。
院長は優しい目でリュシアを見つめた。
「怖くないの?」
「怖くないです」
「どうして?」
「……わかりません。でも……胸が、変な感じになるんです」
院長は少しだけ目を伏せた。
「変な感じって……痛いの?」
「痛くはないです。でも……苦しいような……熱いような……」
リュシアは言葉を探しながら続けた。
「誰かが怒ってたり、泣いてたりすると……胸がざわざわして……」
院長はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「リュシア、それは……あなたが悪いわけじゃないわ。環境が、あなたをそうさせているのかもしれない」
リュシアは首を傾げた。
「環境……?」
「ええ。ここは、優しい場所じゃないもの」
院長は寂しそうに笑った。
「あなたは、心を守るために……感情を閉じてしまったのかもしれないわ」
リュシアはその言葉を理解できなかった。
だが、胸の奥のざわめきは、院長の言葉を聞いても消えなかった。
院長が部屋を出たあと、リュシアは布団に潜り込んだ。
外は風が強く、窓がガタガタと揺れている。
(私……どうしてこんな気持ちになるんだろう)
喧嘩を見ると胸がざわつく。
痛みを見ると心臓が速くなる。
泣き声を聞くと息が浅くなる。
(私……おかしいのかな)
その疑問は、リュシアの胸の奥で静かに膨らんでいった。
そして、その“ざわめき”は、これから先の彼女の人生を大きく揺さぶることになる。




