第2節 孤児院の現実(後半)
孤児院での生活は、日を追うごとにリュシアの心を静かに削っていった。
食べ物は足りず、毛布は薄く、子どもたちは常に苛立っていた。
誰もが自分の分を確保することに必死で、他人のことなど気にする余裕はなかった。
昼過ぎ、院長が配給のパンを持って部屋に入ってきた。
子どもたちは一斉に群がり、院長の腕からパンを奪い取ろうとする。
「順番に並びなさい!」
「嫌だよ! 並んでたら無くなるだろ!」
院長の声はかき消され、子どもたちは押し合い、叫び合い、奪い合った。
リュシアは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
(……まただ)
胸の奥がざわつく。
喧騒の中で、誰かが転び、誰かが泣き、誰かが怒鳴る。
その混乱を見ていると、心臓が速くなる。
(どうして……こんな気持ちになるんだろう)
自分でも理解できない。
ただ、胸の奥が熱くなる。
パンの配給が終わると、部屋の隅でひとりの少年が泣いていた。
年下の子に押しのけられ、パンを取れなかったのだ。
「……お腹すいた……」
その声は弱々しく、震えていた。
だが、周りの子どもたちは見向きもしない。
「泣いても無駄だよ」
「自分で取れなかったのが悪いんだ」
冷たい言葉が飛ぶ。
リュシアは少年のそばに歩み寄った。
「……これ、あげる」
自分のパンを差し出すと、少年は驚いた顔をした。
「いいの……?」
「うん。私は……そんなにお腹すいてないから」
嘘だった。
本当はお腹が空いていた。
でも、胸の奥のざわめきの方が強かった。
少年はパンを受け取り、むさぼるように食べた。
その姿を見て、リュシアの胸の奥がまたざわついた。
(……なんで、こんな気持ちになるんだろう)
助けたはずなのに、心が落ち着かない。
むしろ、ざわめきが強くなる。
その日の夕方、院長がリュシアを呼んだ。
「あなた、今日……パンを譲ったでしょう?」
「はい」
「どうして?」
リュシアは少し考えた。
理由を探したが、うまく言葉にできない。
「……わかりません。でも……あの子が泣いてるのを見て……胸が、変な感じになって……」
院長は眉を寄せた。
「変な感じ?」
「はい。痛いような……苦しいような……でも、少しだけ……」
リュシアは言葉を飲み込んだ。
“嬉しい”と言っていいのかわからなかった。
院長はしばらく黙っていたが、やがて優しく言った。
「リュシア、あなたは悪い子じゃないわ。ただ……少し、心が疲れているのかもしれない」
リュシアは頷いた。
だが、胸の奥のざわめきは消えなかった。
夜、薄い布団にくるまりながら、リュシアは天井を見つめていた。
外からは風の音が聞こえ、窓の隙間から冷気が入り込む。
(私……おかしいのかな)
喧嘩を見ると胸がざわつく。
誰かが泣いていると心臓が速くなる。
痛みを見ると、息が浅くなる。
怖いわけではない。
嫌なわけでもない。
ただ、胸の奥が熱くなる。
(どうして……)
答えは出ない。
ただ、孤児院の暗闇の中で、リュシアは静かに目を閉じた。
その胸のざわめきだけが、彼女の中で確かに生きていた。




