第11節「夜の塹壕」後半
影が塹壕に飛び込んだ瞬間、
闇の中で何かがぶつかり合う鈍い音が響いた。
兵士の怒号、敵兵の荒い息、
刃物が空気を裂く音――
すべてが混ざり合い、方向すらわからない。
ミーナは耳を塞ぎ、震えながら叫んだ。
「いやっ……! どこ……どこにいるの……!」
カイルは必死にミーナを抱き寄せ、
暗闇の中で敵の影を探す。
「見えねぇ……何も……!」
だが、リュシアだけは違った。
(……右後ろ)
足音の重さ、呼吸の速さ、
土を蹴る音の方向――
闇の中でも、敵の位置が“わかる”。
リュシアは反射的にミーナとカイルを押し倒した。
その頭上を、刃物が風を切って通り過ぎる。
ハルツが低く叫ぶ。
「音を追え! 影を見るな、殺されるぞ!」
兵士たちは闇の中で銃を構え、
耳だけを頼りに敵の位置を探る。
だが、敵も同じだ。
夜の塹壕では、音ひとつが命取りになる。
闇の奥から、かすかな囁き声が聞こえた。
「……こっちだ……」
敵兵の声だ。
ミーナが震える声で言う。
「リュシア……怖いよ……!」
リュシアはミーナの手を握り、
静かに言った。
「大丈夫。まだ近くない」
カイルが驚いたようにリュシアを見る。
「なんで……わかるんだよ……」
リュシアは答えなかった。
そのとき、
闇の奥で“別の音”がした。
足音でも、呼吸でもない。
もっと低く、湿った音。
(……泥を踏む音)
敵兵が塹壕の外側を回り込んでいる。
リュシアは即座に叫んだ。
「左側、来る!」
兵士たちが驚いたように振り返る。
「左だと……? 見えるのか……!」
ハルツだけが迷わず動いた。
「構えろ!」
その瞬間、
闇の中から二つの影が飛び込んできた。
銃声が闇を裂く。
火花が散り、影が倒れる。
だが、一人が塹壕に着地し、
兵士に飛びかかった。
刃物が閃き、兵士が倒れる。
ミーナが悲鳴を上げる。
「いやっ……!」
カイルが震える手で銃を構えるが、
暗闇では狙いが定まらない。
リュシアは動いた。
昼間拾ったスコップを握りしめ、
敵兵の腕を叩き落とす。
金属がぶつかる鈍い音。
敵兵がよろめく。
ハルツがその隙に飛び込み、
敵兵を押し倒して止めを刺した。
静寂が戻る。
だが、それは“終わり”ではなかった。
夜の塹壕は、
昼間よりもずっと恐ろしい。
ミーナは泣きながらリュシアにしがみつく。
「リュシア……もうやだ……!」
カイルは息を荒げながら言う。
「なんで……なんでお前はそんなに落ち着いてるんだよ……」
リュシアは答えなかった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
(……私は、何をしているんだろう)
その問いは、闇に溶けて消えた。
ハルツが周囲を見渡し、低く言った。
「夜はまだ長い。ここで死にたくなければ、声を出すな」
その声は、闇よりも冷たかった。
リュシアはスコップを握り直し、
闇の奥を見つめた。
(……まだ来る)
夜の塹壕は、
戦争の“本当の顔”を見せ始めていた。
闇は深まり続けた。
時間の感覚が消え、空気は冷え、
風の音すら敵の足音に聞こえる。
ミーナは膝を抱え、震えながら呟いた。
「……もう、朝にならないんじゃないかって……思えてきた……」
カイルは唇を噛みしめ、
何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けようとしていた。
「大丈夫だ……大丈夫……朝は来る……来るはずだ……」
だが、その声は自分に言い聞かせているだけだった。
リュシアは、壕の入口に立つハルツの背中を見つめていた。
彼は微動だにせず、闇の奥を睨んでいる。
(……まだ、何かいる)
リュシアにはわかる。
闇の奥で、誰かが息を潜めている気配。
足音を殺し、こちらを伺っている気配。
ミーナやカイルには聞こえない音が、
リュシアには“はっきりと”届いていた。
(……近づいてる)
胸の奥が静かに冷えていく。
突然、壕の外で短い悲鳴が上がった。
「っ……!」
兵士の声だ。
すぐに、何かが倒れる音が続く。
ミーナが泣きそうな声で言う。
「なに……今の……」
カイルは顔を青くした。
「敵……まだいるのかよ……」
ハルツは低く言った。
「夜明け前が一番危険だ。敵も焦っている」
その声は、闇よりも冷たかった。
リュシアは壕の外を見つめた。
闇の奥で、何かが動いた。
(……一人じゃない)
足音が二つ。
呼吸が三つ。
土を踏む重さが違う。
(……三人)
リュシアは即座に言った。
「三人来る」
カイルが驚いたように振り返る。
「また……わかるのかよ……」
ミーナはリュシアの腕を掴んだ。
「リュシア……怖いよ……」
リュシアは静かに言った。
「大丈夫。まだ遠い」
その声は、妙に落ち着いていた。
ハルツがリュシアを一瞥した。
その目は、驚きでも疑いでもない。
“理解”だった。
「……お前は、何者だ」
リュシアは答えなかった。
自分でもわからない。
ただ、胸の奥が静かにざわつく。
そのとき、遠くの空がわずかに白んだ。
夜明けだ。
ミーナが息を呑む。
「……朝……?」
カイルは震える声で言った。
「助かった……のか……?」
だが、ハルツは首を振った。
「違う。夜明け前が一番危険だ。敵が最後の突撃を仕掛けてくる」
その言葉に、ミーナの顔が青ざめる。
「そんな……!」
リュシアは空を見上げた。
薄明かりが、塹壕の影を長く伸ばしている。
(……来る)
その瞬間、森の奥から怒号が響いた。
「突撃だぁぁぁぁッ!!」
敵兵の叫びだ。
夜明け前の最後の突撃。
ハルツが叫ぶ。
「全員構えろ! ここが踏ん張りどころだ!」
兵士たちが銃を構え、
ミーナが泣きながら耳を塞ぎ、
カイルが震える手で銃を握る。
リュシアはスコップを握り直し、
闇の奥を見つめた。
(……来る)
胸の奥が静かに熱くなる。
ハルツは一瞬だけリュシアを見た。
その目は、戦場でしか見せない“決断”の目だった。
「……撤退か、持久か」
彼は短く息を吐き、
決断を下した。
「――持久だ。ここを守る」
その声は、夜明けの空よりも強かった。




