第11節 夜の塹壕
夜が落ちた瞬間、戦場はまるで別の世界になった。
闇がすべてを飲み込み、視界は数歩先すら怪しい。
風が吹くたび、木々の影が揺れ、何かが潜んでいるように見える。
ミーナは震える声で言った。
「……暗い……何も見えない……」
カイルは息を整えながら周囲を見回した。
「声を出すな。敵に聞こえる……」
その声も、いつもより小さかった。
夜の塹壕では、声ひとつが命取りになる。
ハルツは壕の入口に立ち、耳を澄ませていた。
銃を構えたまま、微動だにしない。
「……敵はまだ近い。夜襲の可能性が高い」
その言葉に、ミーナが息を呑む。
「夜襲……?」
ハルツは淡々と続けた。
「夜は音だけが頼りだ。動く影はすべて敵だと思え」
その言葉は、恐怖を煽るためではなく、ただの事実だった。
リュシアは壕の壁に背を預け、闇を見つめていた。
昼間の銃声よりも、この静けさの方が胸をざわつかせる。
(……音が違う)
遠くで枝が折れる音。
風に混じる、かすかな足音。
土を踏む重さ。
ミーナやカイルには聞こえない音が、リュシアにははっきりと届いていた。
(……誰かが動いてる)
胸の奥が静かに冷えていく。
突然、壕の外で兵士が低く叫んだ。
「動くな! そこ誰だ!」
次の瞬間、短い悲鳴が闇に吸い込まれた。
ミーナが口を押さえ、震える。
「な、なに……今の……」
カイルは顔を青くした。
「敵が……もう近くに……」
ハルツは短く言った。
「夜は、死が静かに来る」
その言葉は、闇よりも冷たかった。
壕の奥で、別の兵士が囁く。
「おい……聞こえるか……?」
耳を澄ませると、闇の向こうから何かが擦れる音がした。
布か、靴か、武器か。
正体はわからない。
ミーナが震える声で言う。
「リュシア……怖いよ……」
リュシアはミーナの手を握った。
その手は冷たかったが、震えていなかった。
「……大丈夫。まだ来てない」
その言葉に、カイルが驚いたようにリュシアを見る。
「お前……なんでわかるんだよ……」
リュシアは答えなかった。
ただ、闇の奥を見つめ続けた。
そのとき、ハルツが低く言った。
「全員、息を潜めろ。来るぞ」
空気が凍りつく。
風が止まり、闇が濃くなる。
そして――
闇の中から、かすかな足音が近づいてきた。
ひとつではない。
複数だ。
ミーナが震えながらリュシアにしがみつく。
「いや……いやだよ……!」
カイルは歯を食いしばり、銃を構えた。
「来るなら……来いよ……!」
だが、リュシアだけは違った。
闇を見つめ、静かに息を吸う。
(……ここじゃない)
足音の方向が、兵士たちの予想と違う。
もっと近い。
もっと低い。
もっと――
(……下だ)
リュシアは叫んだ。
「伏せて!」
その瞬間、壕の縁を越えて影が飛び込んできた。
夜襲だ。
リュシアの叫びと同時に、
闇の縁から黒い影が塹壕へ飛び込んだ。
兵士が反射的に銃を向けるが、
夜の闇は敵味方の区別を奪っていた。
「撃つな! 味方かもしれん!」
「いや、違う、敵だ――!」
怒号が重なり、銃声が混ざり、
闇の中で何が起きているのか誰にもわからなかった。
ミーナが悲鳴を上げ、カイルが彼女を抱き寄せる。
「リュシア、どこだ……!」
リュシアはすでに動いていた。
影の動き、足音、呼吸のリズム――
闇の中でも、敵の位置が“わかる”。
(……右)
リュシアはミーナとカイルを押し倒し、
その頭上を刃物がかすめた。
ミーナが震える声で言う。
「な、なに……今の……!」
カイルは息を呑んだ。
「リュシア……見えてるのか……?」
リュシアは答えなかった。
ただ、闇の奥を見つめていた。
ハルツが低く叫ぶ。
「全員、音で判断しろ! 影を追うな、殺されるぞ!」
その声は、闇を切り裂くように鋭かった。
兵士たちは銃を構え直し、
耳を澄ませながら少しずつ後退する。
だが、敵は闇に紛れて動いていた。
足音が近づく。
呼吸が聞こえる。
土を蹴る音が響く。
ミーナが震える声で言う。
「もう……いや……!」
カイルは歯を食いしばる。
「ミーナ、伏せてろ……!」
そのとき、リュシアは“違和感”を感じた。
(……一人じゃない)
足音が二つ。
呼吸が三つ。
土を踏む重さが違う。
(……三人)
リュシアは反射的に叫んだ。
「三人来る!」
兵士たちが驚いたように振り返る。
「三人だと……? 見えるのか……?」
ハルツだけが、リュシアの声を疑わなかった。
「右だ! 構えろ!」
その瞬間、闇の中から三つの影が飛び出した。
銃声が闇を裂く。
火花が散り、影が倒れる。
だが、一人が塹壕に飛び込んだ。
兵士が押し返そうとするが、
敵兵は狂ったように暴れ、刃物を振り回す。
ミーナが叫ぶ。
「いやっ……!」
カイルがミーナを庇い、倒れ込む。
リュシアは動いた。
昼間拾ったスコップを握りしめ、
敵兵の腕を叩き落とす。
金属がぶつかる鈍い音。
敵兵がよろめく。
ハルツがその隙に飛び込み、
敵兵を押し倒して止めを刺した。
静寂が戻った。
だが、それは“終わり”ではなく、
次の恐怖の始まりのような静けさだった。
ミーナは泣きながらリュシアにしがみつく。
「リュシア……怖いよ……もうやだ……!」
カイルは息を荒げながら言う。
「なんで……なんでお前はそんなに落ち着いてるんだよ……」
リュシアは答えなかった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
(……私は、何をしているんだろう)
その問いは、闇に溶けて消えた。
ハルツが周囲を見渡し、低く言った。
「夜はまだ長い。ここで死にたくなければ、声を出すな」
その声は、闇よりも冷たかった。
リュシアはスコップを握り直し、
闇の奥を見つめた。
(……まだ来る)
夜の塹壕は、
昼よりもずっと恐ろしい。




