86 おかえり
「シル、シルキス!」
誰よりも早く、それに気がついたのは精霊達を探索に飛ばしていたアイリではなく、キャンプで黙々と魔石に魔力を注いでいたミルナスだった。心ここに在らずの少年に何をさせたら良いのか迷った大人達は、とりあえずの仕事として、緊急性はないものの、あっても困らなく、皆の目の届く所で出来る危険の無い仕事、として空の魔石を渡したのだ。魔力が満杯になってもまだ注ぎ続けるミルナスに、痛ましげな目をやりながら、そのまま、見守っていた彼らは、いきなり、弾けるように立ち上がった少年に、とうとう心が壊れたのか、と一瞬、ギョッとなり、よろけながらは駆け出した姿を止めるべく、手を伸ばして、そうして、風の精霊の力を借りて飛んだミルナスの後を慌てて追いかけた。
《アイリに知らせろ!》
《おい、待て!待てって、ミル!畜生!何なんだ、あいつ、空飛んでるぞ!》
泣く子も黙る、と言われるブラフ海賊達が取り乱して、取るものも取りあえず走り出した。
《全員呼び戻せ!》
《誰か、鳥の眷属持ってるやつ居ねーのか!》
《もう、飛ばしてる!って、おい、あれ、ま、まさか!》
《!?》
駆けつけた男達が見た先に、馬乗りになって弟を殴りつけるミルナスとその周りをオロオロと彷徨う吟遊詩人がいた。
「何が、おーい、だよ、どれだけ心配したと思ってるんだ。」
いきなり空を飛んできたかと思えば、そのまま、抱きついてきた一つ年上の兄は、勢いに任せて、弟を押し倒した。
「怪我は?ちゃんと食べてた?」
「ミ、ミル。大丈夫だって。どこも怪我してないし、割とすぐにカイさんに会ったから、一緒にここまで来れたんだ。」
はぁーっと大きな溜息をついて、脱力し、シルキスを抱きしめる。「無事で良かった。」
「・・・ごめん、ミル兄。」
「!?謝って済む問題じゃないから!」
ガバッと起き上がり、シルキスの胸元を掴み上げる。そのまま、頭突きを食らわせ、つかんでいた手を離す。ゴッと鈍い音がして、シルキスの頭が地を打つ。右の拳を振う。続いて左の拳。更に右。左。
「どれだけ、僕や姉さん、ブラフの皆んなが心配したと思ってるんだ。そんなにみんなに心配かけないと得られない強さなんて、意味ないだろ。」
ぼたぼたと泣きながら、弟を殴り続けるミルナスを誰も止めることが出来ない。
最初は抵抗していたシルキスも数日でやつれた兄が泣きながら殴る姿に思うところがあったのか、今はもう力を抜いてなすがままになっていた。
そっと、ミルナスの方に手が置かれ、弟と自分の血で汚れ破れた拳を、包み込む手があった。
「ミルナス。もうおしまい。シルキスも、もうわかったよね。」
「・・・姉さん。」
涙でぐちゃぐちゃのミルナスを抱き起こし、アイリはその顔を掌で拭った。
「酷い顔。」小さく笑い、魔石に囁いた。
【ディディ、お願い。】
魚の下半身をもつ美しい少女姿の水の精霊が現れ、ミルナスの周りを渦を巻くように空中を泳いだ。キラキラした水滴が少年を取り囲む。目の下にできていた隈も破れた拳も、洗い流されたかのように次の瞬間には消えていた。
「シルキス。」
しかし、倒れている方の少年は、伸ばされた姉の手を取ることが出来ずにいた。殴られて腫れてしまった瞼から覗いた目は、確かに彼女を見てはいる。流れる涙は少年の後悔を物語っている。
こんな大事になるとは思っていなかったのだ。ちょっとした冒険のつもりだった。そんなに心配させるつもりは無かった。そんな事を言った所で、かけてしまった心配を取り消せるはずも無く・・・。
「ねーちゃん、ごめん。」
そう謝るのが彼の精一杯だった。
「うん。おかえり、シル。」「うえーん。ごめ、ごめんよぉ、ごめんなさい。ごめんなさい。」
号泣するシルキスにも癒しの雨が降り注いだ。
派手な再会劇を繰り広げた弟達は、この五日間の疲労も重なって二人とも倒れるように眠ってしまった。しっかりと手を握り合って眠る彼らを魔導車に残し、アイリは夕食を終えたカイの元に向かった。
「眠りました?」
穏やかに尋ねる声、焚き火に映る横顔、そのどれもを懐かしい、と感じた。
どういった経緯でシルキスと一緒になったのか、彼に何が起こったのか知っているのか、別れてからどうやってここまできたのか、聞きたいことはいくつもある。が、アイリは一番に彼の演奏が聞きたい、と思ってしまった。一緒に旅をしていた間、特にダマルカント公国に入ってからどんどん腕を上げていった彼の演奏の‘今‘を聴きたかった。
それでも、弟を探すのに必死に走り回ってくれたブラフの面々の前で、勝手なことは出来ない。
「改めまして、弟を助けて頂き、ありがとうございました。」
アイリはカイに深々と頭を下げた。
「カイさんが見つけて連れてきてくださらなければ、きっとあの子は生きてここへ戻ってくる事は出来なかったと思います。」
「どうしてシルキスと一緒だったのか、話していただくことは出来ますか?」
アイリはカイが一番気に入っていたイーウィニー大陸の発酵茶を食後のお茶として用意してから、切り出した。
「あぁ、久しぶりです。本当に良い香りですね。」嬉しそうに受け取ったカイの顔をアイリはまじまじと見つめた。
『確かにあのスライムの擬態にそっくり。だけど魔力の量も質も全然違う。カイさんはあまり魔力が無いけど、多分、土属性?でも、良かった。生きてる。』
「あの、リン、どうかしました?」
随分、じっと見つめていたのだろう。居心地の悪さを感じたカイが困ったように眉を下げた。
「ご、ごめんなさい!あ、あの、シルから聞いていませんか?カイさんにそっくりなスライムに遭遇して、吸収されて姿を写し取られたんじゃないかって、みんな心配してて。」
「・・・あぁ、はい、聞きました。でも、大丈夫ですよ。吸収されてはいません。」
ね、ほら、と、カイは、何故か自分の頬をむにゅっと引っ張った。
驚くアイリにカイは、ここから西の都サイコの遺跡をめぐっていた時に、シルキスが突然現れたこと、その時すごく怯えられて、その後、本人かどうか確認する、と言って頬を引っ張られたことを楽しそうに話して聞かせた。
天真爛漫にやらかす弟の武勇伝にアイリは冷や汗をかきながら謝罪するのだった。




