7 思いがけない出会い 2
「ミチちゃんです。」
「?」
「この馬の名前、ミチちゃんです。西の砂漠でも渡れる凄い馬です。暑さにも乾燥にも強くて、力持ちで、ちょっとずんぐりして、背も低いけど、とても優しい馬です。」
あんな目をさせてはいけない。ここで手を離したら、この人は失われてしまう。確信に満ちた焦燥に駆られ、アイリは聞かれてもいない事を話し続けた。
アルブレヒトの目に光が戻って行く。面白そうに口唇の端が持ち上がった。
「砂漠を渡れるの?凄いね。もっと近くで見ても良い?あぁ、本当だ。筋肉の付き方が、僕の馬とは違うなあ。初めての人間にも怯えないのだね。賢いねぇ、僕が君を傷付けない事がわかるんだね。」
それはそれは優しい手でミチの鼻先を撫でて、囁く様に語りかける様子に、アイリはホッと息を吐き、同様に安堵の表情を浮かべるダイアナに気がついた。
「ありがとう。」小さな、だが心からの感謝を込めた言葉だった。
今思えば、アイリがアルブレヒトに惹かれたのは、お互いの持つ喪失感故だったのだろう。初めて訪れた大聖堂で、かけられた言葉は2度やり直した後でさえ、鮮やかに思い出す事が出来る。
「可哀相に。もう、二度と会えない。声も聞けない。謝りたくとも謝れない。勢いで言っただけ、本当はそんな事、全然思っていないのに。大丈夫。わかっているよ。辛かったね。もう泣いて良いんだ。頑張ったね。」
あれはアイリでは無い誰か、恐らく、アルブレヒト自身が言ってもらいたかった言葉。
この人は誰を失ったのだろう。私は、やり直す前の私は本当に愚かだ。この人の心の奥深くに自分と同じ喪失の悲しみがある事に全く気がついていなかった。優しくされて舞い上がって、恋人面で。この人が私の手を離した事に気づきもせず。あぁ、私が魔人討伐に行く事も生きるか死ぬかも、あの時のこの人にはどうでも良い事だったのだ。自分の結婚相手が誰であろうと。けど、そんな人にしてしまった一因は確かにアイリにもあったのだ。
2代目アイリは王家とは全く関わりを持たない様にしていたが、聞こえて来たアルブレヒト王子の評判は前世と変わりなかった。では、今回は?
前2回の人生では、アイリはこの時、舞台の端に座っていたはずだ。動物の世話など嫌だと、無理矢理、町娘役のユーリの横にくっついて、良い気になっていた。だから、この時間は父親のダンがミルナスを抱えて、この場にいたはず。では、アルブレヒトとダイアナが来たとして、恐らく何も起きはしなかったのだろう。そうして、アルブレヒトの心は徐々に失われて、それを見ている事しか出来なかったダイアナも道を誤ったのだ。
今が、運命の分岐点なのだ。自分の運命はこの時から、これまでとは違う道に入って行く。その事をアイリは自覚した。
『どうしよう。このまま、仲良くなる、なんて事あるのかな?』
18歳で死なない為に、運命を変えようとしたが、もう変わったのだろうか?これで安心?
『やっぱり、アル様、かっこいいなぁ。』
お忍びの地味目の服を着ていても、アルブレヒトの王族としての気品は11歳であっても溢れている。『昔みたいに私に微笑んでくれるのかなあ。』
本格的に目が覚めようとしているのか、ミルナスが更にふえっふえっ愚図り出し、アイリは愚かしい白昼夢から覚めた。
アルブレヒトの隣で微笑むダイアナからは、姉の様な暖かな愛情が彼に向かって注がれているのが分かる。アルブレヒトの飾らない表情も信頼を感じさせるものだった。2人の仲良さげな姿はこの人生でしか見られないものだった。ならば、これは貴重な守らなければならないもののはず。
ミルナスを揺すってあやしながら、この二人が王と王妃として並び立つ未来を見たいとアイリは思った。
「アイリ。」
「お父さん!」
足早に父が戻って来て、アルブレヒト達に気付くと、スッと、膝を折った。騎士の敬礼だ。過去には見慣れていたとは言え、父親が何の戸惑いも違和感もなく、膝をつく様に、アイリは目を丸くした。
「ああ、大人が戻って来たなら、私達は帰ろうか。馬の事、感謝する。」
そう言うと、アルブレヒトはダイアナをエスコートして、街道方面に歩き出した。何処からか現れた護衛も静かに付き従う。最初に不用心だと言っていたから、どうやら、アイリとミルナスを守ってくれていたようだ。アイリはお礼を言おうとして思い直す。そして、黙って頭を下げた。ダイアナが軽く頷いたから、きっとこれが正解だ。
「祭りは楽しかったかい、ディー。」
いつからか呼ばれなくなっていた愛称でアルブレヒトは尋ねた。だからダイアナもこう返す。
「私はあなたと出かける時はいつも楽しいわ、アル。」と。
アルブレヒトは目を丸くして小さく笑った。
「相変わらず持ち上げるのが上手いな。そうだな、最後の最後に驚くほど、楽しかったよ。」
「ねぇ、アル、私、大聖堂での聖女教育には、参加しないわ。」
「・・・」
「そんな事より、王太子妃の勉強をしたいの。」
「ディーはずっと、大聖女になるって言っていたじゃないか。」
「違うわ、王太子妃で大聖女、よ。私、欲張りなの。でもね、一番はアルの隣にいる事ってずっと思ってた。だから、王太子妃で聖女、で満足なの。」
「ははは、じゃあ、先ずは馬に乗れないとね。僕が逃げ出した時には一緒に来てくれるんだろう。」
「今だって、乗れてましてよ。」
「じゃあ、帰ったら腕前の程を見せてもらおう。」
これまでとは全く異なる二人の距離に護衛達は戸惑いを隠せない。
「それにしても、あの父親、騎士、いえ、貴族ですわね。」
「ああ、あれはナザレクト伯の直系だろう。」
「ご存じでしたの?」
「いや、あのつむじからそう思っただけ。」
「つむじ?」
「ナザレクト伯の直系はつむじが二つあって其々、逆巻きなんだ。父親だけなら、たまたまと言う事もあるだろうけど、赤児のつむじもそうだったからね。」
「 僕は、王子だからね。低頭されるのは慣れている。見えるのは、相手の頭のてっぺんだけさ。でも、これからは、少し、人の顔色も伺う様にしてみようか。」
そう言ったアルブレヒト王子の表情は優しげだが、ちょっと意地悪さを感じさせて、ダイアナの胸はドキリとしたのだった。