61 聖女伝説
吟遊詩人のカイと名乗った青年は、十代後半から二十代前半の黒髪に紫の瞳をした穏やかな雰囲気を持っていた。
切られたという背中は、乾いた血と土がこびりついており、よくこれで感染を起こさなかった、とシモンが青くなって、消毒と治療を施した。傷口自体も決して浅いものではなく、かなり出血をしたのだろうと思われるのだが、本人は、「あまり痛くないのです。この子のお陰でかすり傷程度だと思っていました。」と、大切そうに壊れた竪琴を撫でていた。
シモンの処置をそばで見ていたマリが《痛い?痛い?》と可愛い顔を歪めて聞いて来るので、カイは微笑んで痛くない、と答えたのだが、マリの眉間に寄ったシワはますます深くなった。
《あのね、カイしゃ、いたい時はいたいって言っていいんだよ。》
《そうしないと“うそつき“になるんだよ。》
《うそつきは良い子じゃないんだよ。》
真剣にそう諭す幼女に、カイの目は驚きに見開かれた。
そして、恥ずかしそうに頷いた。「はい、小さき姫。」
その返事に大きく頷くマリの得意げな顔を見て、その場の空気が和らぎ、シモンは隣で姪の可愛らしさに悶絶していた。
「ねえねえ、さっきのあれ、楽器が、あの男の声で話したあれ、どうやったの?」
身を乗り出し、興味津々でシルキスが尋ねた。
この宿のルー達が借りている部屋はイーウィニー風に家具が揃えられている。テーブルや椅子は無く、床に敷いたラグやクッションに直に座っている。ミルナス、シルキス、マリは寝転がる方が多く、今も、シルキスは腹ばいになって、足をぶらぶらさせながら、カイを見上げていた。
「秘密。」
唇に人差し指を立て、微笑むカイは、淡い色気を纏っていて、これまで、海賊の中で揉まれてきたアイリ達にとって出会った事の無いタイプだ。
《カイしゃ、お歌、歌う人?》
マリがキラキラした目を向ける。
このコルドー語とイーウィニー語の入り混じる不思議な会話に、戸惑いもせず、カイは
《どちらかと言うと楽器の方が得意です、小さき姫。》とイーウィニー語で答えた。
そんな様子を、少し離れた場所からアイリとルーは見ていた。
《ごめんね、ルー。また、迷惑をかけちゃった。》
《迷惑とは思っていないが、しばらく、足止めだな。家畜達はインディーに言って、先に出発させる。アタシが傭兵ギルドの相手をしよう。》
《ごめんね。》
《だから、何を謝る。殺人鬼を見つけたんだ、誇って良いんだぞ。だが、そうだな、申し訳ないと思うなら、教えて欲しい事が、一つだけある。》
ピクリ、とアイリの肩が跳ね上がる。
《殺された聖女、の事だ。》
俯くアイリにそれでもルーは言葉を続けた。
《言える範囲で構わない。市長や憲兵隊長を納得させられる答えが欲しい。無理か?》
答えないアイリに、小さくため息をついたが、気を取り直すようにルーは明るく、俯いたままのアイリの頭を撫でた。
《わかった。さっきも言ったが、アイリのしたことは正しい。ちょっと乱暴だったかもしれないがな。だから、任せておけ。》
もう、何もかも話してしまおうか、自分を無条件で信じて守ってくれようとしている人に、10年以上も隠し事を続けるのは、辛かった。赤の他人の自分に、ここまでの愛情と信頼を示してくれているのだ。けれど、もし、話して、呆れらたら、気持ち悪がられたらどうしよう・・・。
《ルー、あの、あのね、》
「聖女。」《「?」》
「聖女なんですよね、アイリ、あなた。」《「!?」》
背後から現れ、そう断言したのはヨシュアだった。差し出されたのは、暖かい花茶。ふわりと優しい甘い香りがする青色の液体。その中を青い花びらが上下している。
「今、ノルドベールで育てている植物から作った精神安定効果のあるお茶です。落ち着きますよ。」
微かに甘味を感じるぐらいで、特に癖はない。体に染み渡る温かさも良いが「冷たくしても美味しそう。」とのアイリの呟きをヨシュアは聞き逃さなかった。
「!ああ、その発想はなかったです。でもそうするともう少し甘くした方が良いかな。開発に言っておきます。で、聖女ですよね。」
さらっとした切り返しに、ルーが盛大にむせた。
「ち、違うよ、だって、聖女って言うのは、聖徒教会の認定した人でしょ。」
あわあわと否定しながら、ルーの背中をさすり、アイリは内心汗を掻いた。
「そこです。」
と冷静にヨシュアは続ける。
「大体、聖女の定義って何ですか?僕の姉も預言の聖女と呼ばれていますけど、ちょっと時々、未来のかけらが視える以外は、特に魔法は使えません。」
「え、いや、未来視って凄い能力だと思うけど。」
「勿論、そうです。けど、それで“聖女“ですか?姉によると聖徒教会での“聖女教育“は
聖徒教会や聖女、王国の歴史が中心で、その他は貴族社会でのマナーや教養の時間が多かったそうです。後は貴族出身の聖女の侍女のような事ばかりさせられた、と。」
前世の自分を思い出して、アイリは納得してしまう。
そのままの勢いでヨシュアは続けた。
「聖女となってからは、魔石に魔力を注ぐ仕事ばかりだった、と聞いています。それでも、中には魔力の高い聖女もいて、そんな聖女は魔物討伐に参加させられていた、と。まあ、僕たちが聞かされている聖女の恩恵は“魔からこの世界を守っている“なので、魔物討伐に行かない選択肢はないのでしょうけれど。」
「それでも魔物討伐に選ばれるのは平民か低位貴族出身の聖女で、高位貴族の聖女は式典への参加や貴族向けに祝福を授けるなんて事で、全く“世界を守る“には関係無いんですけどね。」
皮肉に口元を歪める。
「あ、これは大聖女であるダイアナ様から聞いた事なので、偏見でも何でも無いですよ。ダイアナ様はそんな状況を改善しようとされていましたが、ミルフォード公爵家やアルブレヒト王太子の後ろ盾を持ってしても、聖徒教会と貴族社会ひいては王家との結びつき、はっきり言って癒着を断ち切ることは出来なかった。その結果、姉を含めた数人の聖女達と一緒に少し距離を取るようになった訳です。」
「で、“聖女“とはなんだ、と私は考えたんですよ。始まりの聖女と呼ばれる少女の事は知っていますか?」
いつの間にか、皆、ヨシュアの話に引き込まれて聞き入っていた。
「今から300年以上前、この大陸の西半分を支配していた魔道皇国ロフェンケトが一夜にして滅び、その皇都が後にフェラ砂漠と呼ばれる不毛の地となった時、その大災害の被害は皇都に留まらず、大陸各地に広がりました。そんな無法地帯となった街にある日、竜に乗った少女が降り立ちます。竜はすぐに北に飛び去っていきましたが、彼女は、その地に留まり、傷ついた人々を癒しただけでなく、精霊を呼び、土地をも癒した。失われた魔力は戻り、作物が無事に育つ事を見届け、少女は街を去った。その後もいくつかの街で奇跡を起こした後、少女は忽然と姿を消しました。迎えに来た竜を見たという者もいたそうですが、本当の事は分かりません。ただ、その少女を天の神が地上の人々を救うために使わされた聖女だと定義して始まったのが聖徒教会です。ですから、始まりの聖女に連なる本来の聖女は癒しの力、精霊を友とする者、だと私は思うのです。」




