55 帰還
その船は海原を自分の庭の様に走る。波も風も自分の味方につけて、何者にも邪魔されず。
《姉さーん、コルドー大陸が見えたよー。》
《この調子なら昼食は新鮮なものが食べられそうだね。》
マストの上から、よく似た、けれど、トーンの違う少年の声が甲板に立つ少女にかけられた。
《そうね、久しぶりに、ダブリスの水菓子が食べたいわ。》
潮風に靡く赤紫を差し色にしたオレンジのスカーフで髪をまとめた少女は少年たちの声にマストを見上げ声を上げた。
《ミルナスもシルキスもそろそろ降りておいでー。》
《はーい。》《えー、もうちょっと良いでしょー。》
姉の言葉に素直に従ったのがミルナス、甘えて口答えをしたのがシルキス。アイリの弟達だ。ミルナスは11歳、シルキスは10歳。年子の弟達は双子の様に背格好もよく似ていた。
この年、コルドー大陸シャナーン王国国王の在位30周年式典が開かれたが、それは20周年に比べ、かなり規模を縮小して催された。かつて、中央諸国の雄として名を馳せた国力は翳りを見せ、勢力拡大を図る南西のダマルカント公国にその領土を度々脅かされていた。辛うじて国境線は維持しているものの、シャナーン王国の国力の衰えは誰の目にも明らかだった。これまでも、北方連山の雪解け水によるサイ川の氾濫、疫病による家畜の集団死、ウィト王国のイナゴ被害による農産物の輸入の減少など、度重なる自然災害は国民生活に暗い影を落としていた。それに加え、心の拠り所となるべき聖徒教会は、フェラ砂漠の未知の魔物に対し何の対応もしなかった(出来なかった)。その事実は、教会の影響力の低下をもたらした。王国上層部と深い結びつきを持つ聖徒教会だが、精霊付きの減少とそれを誤魔化すための精霊の輪くぐりによる市井からの魔力持ちの強制徴集は人々の心に疑惑の種を植え付けた。集められた魔力持ちは貴族にのみ恩恵をもたらし、市民は搾取されるだけ、と言う構図。ダマルカント公国によるプロパガンダとは言え、全くの創作ではない事は、王国民の誰もが薄々感じていた。それでも、彼らには希望があった。
輝く黄金の髪と青空色の瞳の王太子と彼に寄り添う金髪金目の大聖女。次代の国王夫妻は、新しい生活を国民に提示した。品種改良や土壌改良により、これまでは農業に適さなかった土地でも農作物が育つようになっていた。これは輸入に頼っていた食料の自給率の向上を予想させた。サイ川、オーム大河沿いの灌漑整備により、王国を南北に繋ぐ水の交通網が造られつつあった。新薬開発にも着手しており、一部の疾患はもう死病ではなくなっていた。そのどれもが、4年や5年の年月で解決する問題では無いにも関わらず、一定の成果が現れているのは、王太子と彼を支える側近集団の能力の高さを物語っていた。彼らは、シャナーン王国のみならず、他国からも、また貴族、平民の身分を問わず、志さえあれば、迎えられた。
そして、今、その最たる協力者、イーウィニー大陸西の海の覇者、ブラフ海賊貴族新当主、ブラフ・ルー・ヴィシュ・ザ・フィフスが、全滅した家畜に代わる新たな動物を連れて、海を渡っていた。
ここまで来るのに、平坦な道など一つも無かった。新たな農作物の普及はまだ始まったばかりで、イナゴ被害で言えば、ヴィエイラ共和国から提示された作付け時期をずらす農法を早くからとり入れていたウィト王国より、耕作地が狭いにも関わらず、実際の被害はシャナーン王国の方が甚大だった。それでも壊滅しなかったのは、アルブレヒト王子がその農法を後押しし、自らの直轄地や婚約者のダイアナ・ミルフォードの実家の公爵領で効果をあげたからだった。
新しい事を推し進めようとする時には、今のやり方で得をしている者・組織からの妨害が付き物である。
いくら王太子の改革と言えど、現国王の施政には表立って逆らうことは出来ない。しかも、王政を支えているのは大陸全土に根を張る宗教団体である。そこで存在感を示したのが、ダイアナ大聖女であった。元々は聖徒教会が王家に恩を売る意味もあっての任命であったが、一度その地位を得た彼女はその肩書きと公爵令嬢の身分を持って、各地の聖女をその庇護下に置くと、これまでの聖徒教会の方針とは一線を画し、貴族だけでなく国民に広く聖女の能力を解放した。
預言の聖女カトリーヌ・ドメニクを始め、個人的に彼女に忠誠を誓う聖女は多く、これまで秘蹟とされ貴族が独占していた聖女の能力が、アルブレヒト王太子の事業のみならず、多くの社会活動に役立てられた。
王太子の最終目標が魔石に頼らない社会の確立である事は、まだ、側近の中でも一部にしか知られていない。それは、聖徒教会と完全に敵対することになるからだ。聖徒教会は魔石の供給をほぼ独占している。今の社会は魔石による魔力が生活の全てを賄っている。魔石がなければ、水道、照明、冷暖房、ほぼ全ての生活が成り立たない。その魔石への魔力供給の大部分を聖女が担っていたから、ここまで聖徒教会は権力を持ち得たのだ。
「聖徒教会には緩やかに王国から御退場願おう。」
魔石の代わりになる“燃える石“その進化形の“石炭“を使った輸送実験に向かう側近に向かい、アルブレヒト王太子はそう宣言した。
《アーしゃ、抱っこー。》
ピタッと足に抱きついてきた小さな体をアイリは抱き上げた。赤銅色の肌に灰緑の瞳、くるくるの金髪を赤紫のリボンでツインテールにした3歳ほどの女の子。
《マリちゃん、もうそろそろ上陸だよ。お母さんは?》
《ママ、おしゃれ中。ねえ、アーしゃ、パパ、きてるかなあ。》
《来てると良いねー。》としか、アイリは言えなかった。ブラフ・マリ・シュヴァの父親は、超多忙な人で、コルドー大陸を縦横無尽に飛び回っては、あらゆる仕事をこなしていた。
初めて、ルーのお腹にマリがいる事を聞いた時、アイリは心の底から驚いた。まわりから見て、恋人同士には見えなかったのだから。
「もー姉さんはー。そう言う時は、“きっと来てるよ“って言うもんじゃないの?」
ミルナスはアイリからマリをひょいと取り上げた。
《ミルにー》そのまま高い高いと抱き上げられて、キャッキャッとマリが笑う。
「ミルはそうやっていつもその場その場を誤魔化そうとするから、後で修羅場になるんだぜー。」
ミルナスの手からマリはシルキスの手にダンスのパートナーの様に引き取られ、そのままシルキスはくるくると回った。
「修羅場?」一体、10歳かそこらの子供がどんな修羅場に遭遇したと言うのか。我弟ながら末恐ろしい。
ミルナスもシルキスも金髪と赤髪の違いこそあれ、共に父譲りの緑瞳をもつ美少年だ。イーウィニー大陸においてはその日に焼けてもなお白い肌と合わせて、軟弱だと陰口を叩かれることもあったが、そんなものは、実力で黙らせてきた。テラ譲りの魔力は、こちらの大陸においても屈指。おまけに歩き出す前からブラフ海賊団の面々に鍛えられてきたのだ、同年代など相手になるはずもなかった。
風の精霊付きであるミルナス、火の精霊付きであるシルキスの二人は最強の組み合わせだ。加えて、言葉を交わさずともお互いがお互いの戦いやすいように動く事ができた。今はまだ、ブラフ海賊団の中だけでしか知られていないその実力が、広く世界に知られるようになるのもそう遠くない、とは、ルーの言葉だが、決して身内贔屓ではないとアイリも思う。
弟達が、身を守る技術を身につけるのは純粋に嬉しい。けれど、それで戦いの場に身を投じるのは心配になってしまう。自分を棚に上げてそんな事を考えたアイリは、子供達だけを今回のシャナーン王国行きに送り出した両親は、自分達を信頼しているのか、諦めているのか、どちらなのだろう、とちょっと首を傾げてしまった。




