40 恐怖再び
走り出して間も無く、砂漠の真ん中だと言うのに見かける動物の数は増えていった。恐らく、その殆どは魔物化しているのだろう。更に進むと、魔物同士の争いも見られるようになった。この辺りになると、車を引く砂漠トカゲの様子が落ち着かなくなって来た。人間向けに作られた魔力封じの魔導具では、砂漠トカゲには弱すぎた様だ。その為、ここで車を降り、徒歩で近づけるだけ行ってみる事となった。あちこちで争う魔物達が散見される為、流石に子供のアイリとヨシュア、非戦闘員のシモンは留守番となる。護衛を三人残し、残りのクルー達とルーは油断なく武器を構え、オベリスクに向かって進んで行った。
遠視の魔導具で争う魔物達の様子を詳しく観察していたシモンが、興奮して告げる。
「私達ももっと近くに行きませんか?ひょっとすると大発見かもしれません。戦っている片方、あの犬のように見えている魔物ですが、300年前にロフェンケト皇国の滅亡とともに絶滅したと言われているロフェンケト狼かもしれません。」
「ロフェンケト狼?」
「そうです。皇国の森に住み、そのシンボルともなった、青銀の毛皮を持つ獰猛で賢い狼ですよ。一夜にして失われた皇国と共に住処を失い、数年の後には、この大陸から消えてしまった、と言う幻の獣です。生きていたんですねー、かつての皇国の首都で、魔物化した事で生き残ったのでしょうか?それとも・・・。」
「それじゃあ、あれが“未知の魔物“?でも、何か“未知“と呼ぶには普通のような・・・。」
そうアイリが言いかけたその時、ロフェンケト狼と戦っていた鷲の魔物が狼の胴体に爪を立て、大きく羽ばたき、二体の体は宙に浮いた。いくら下が砂地と言えど、あの高さから落とされれば無事では済むまい。そんな空中で身動きの取れない狼は絶体絶命だった。そして、鷲は狼を掴んでいた爪を緩めた。
「!?」
シモンを始め、アイリも息を飲んだその時、落ちていく狼の口から何かがぶわりと空中に広がり、鷲の魔物毎、狼を包み込んだ。
「!!??」
二体の魔物はそのまま砂塵を巻き上げて、大地に落下した。舞い上がった細かな砂のカーテンの向こう、巨大な何かがゆらりと動いた。
「スライムっ!!!」
アイリの喉から悲鳴が漏れた。「いやーっ!いや、いや、いやーっ!」
目の前が真っ赤に染まった。地面に倒れている父の歪に折れ曲がった体、右腕から血を流し蒼白となっているミルナス、足元の血溜まりに蹲る身重のユーリ。そして、巨大な黒いゼリー状の体の中に取り込まれながら、スライムの核を自身の胸に縫い止めるようにナイフで貫いた母。
最初の人生最大の悪夢がありありと甦った。
蒼白になったアイリはガタガタ震えだした。立っている事が出来なかった。息が出来なかった。周りの音が聞こえ無くなった。意識が遠くなる・・・。
だけど、こんな所で意識を失う訳にはいかない。早く、早く、逃げなければ!
誰かが何かを叫んでいる。いつも落ち着いているシモンの焦った顔。無表情なヨシュアもいつもの冷静さを失って右往左往している。
『駄目だ、みんな、スライムがこんな近くにいる。すぐ、逃げなきゃ。ルー達を呼び戻して!私の心配なんてしている場合じゃないよ!』
そう叫んでいるのに、自分の耳にさえその声が届かない。聞こえるのは、バクバクとうるさい自分の心臓の音だけ。
真っ赤に染まったアイリの視界に、鷲を捕食し終わったのかスライムがロフェンケト狼の体内に戻っていったのが映った。そして、その虚な瞳が、呆然と立ちすくむルー達に向けられ、次の瞬間、狼の体が砂を弾いて、跳ねた。
「逃げてー!」
アイリの叫び声に振り返ったシモン達は、何が起ころうとしているのかを一瞬、理解出来なかった。何故なら、いつもならルー達は襲い掛かる魔物など、条件反射で放つ魔法で瞬殺するからだ。しかし、狼は倒れない。炎も風の刃も大地の壁も何も起こりはしなかった。そして思い出す。今、魔力は魔導具で封じている。絶望が彼らの顔を覆った。
その時、どうしてそんなことが出来たのか。後になって考えてみてもやはり、説明はつかなかった。
アイリは駆け出していた。スライムを宿したロフェンケト狼に向かって。砂に足を取られながら、よろよろと。そして手にしていたボウガンから次々と矢を放ち、叫んだ。
「スライム!お母さんの仇、お父さんの仇、ユーリの、ミルナスの仇。よくも、よくも!お前なんて、死んでしまえ!」
アイリの魔力を封じていた魔導具が砕け散った。
途端に周囲に満ちていた魔力が彼女に流れ込んだ。あまりの魔力の濃さに吐き気が込み上げる。それとも恐怖か。俊敏な狼とは思ぬ程、スライムが操るそれは、ゆっくりと体の向きを変え、今や彼女を見ていた。
「もうこれ以上、私から奪わないでっ!」
アイリの放った矢は過たず、狼に届いていた。しかし、その矢は狼の体表を包むゼリー状の物体にあえなく取り込まれ、その勢いを失う。
《アイリ!》絶望的なルーの悲鳴が耳に届いた時、狼を覆っていたスライムが投網の様に大きく広がり、彼女を押し包もうとした。
その瞬間、彼女の魔石と武器から契約精霊達が飛び出し、守護するように魔力を展開した。頭の中にガンガンと響く声は魔力そのもの。その声が突きつける。
『我らに名を与えよ。そして、願え。』
結界を張ったのは土と水の精霊。そして、火と風の精霊が、アイリの目の前に並んで立っていた。『契約を成せ。』と。
2代前の生。全てを失い、呆然とする彼女の前に現れた二体の精霊。
『契約者ガイアの生命を持って乞われた願いを我らは聞いた。今後、我らは其方を見守ろう。真の契約を望むなら真名を持って我らを呼べ、ガイアの娘。』
『我が名はアイリーン。汝、火の精霊メテウス、風の精霊ウィンディラ、今、ここに契約を成せ。我が敵を撃て!』
『『承知!』』
その返事と共に二体の拘束は完全に外れた。精霊達は半人半獣ではあったが、もう手のひらに乗るような子供では無かった。火のメテウスは鍛えられた戦士の体躯の青年に、風のウィンディラも美しい女性となっていた。二体ともアイリより大きな、大人と同じ大きさだ。
『ウィンディラ!』そう言って手を伸ばしたメテウスの右手にはアイリの槍が握られ、風のウィンディラが吸い込まれていった。
メテウスは、無造作に目の前のスライムをウィンディラの宿った槍で貫いた。
槍はゼリー状の粘膜を貫通し狼の心臓に達すると、そこから、暴風が巻き起こり、狼の体ごとスライムが四散した。
《「やった!」》
誰ともなく、安堵と歓喜の声が上がった。
しかし。
四散したスライムはその一片一片が意志を持つ様に、倒れていた鷲に向かって移動した。
スライムとは、そのゼリー状の体に生物や鉱物を取り込み、溶解して自らとする。アイリの矢も目の前で取り込まれて、今は跡形もない。では、何故、捕食されたはずの鷲の体がそのまま残っているのか。その答えはそこにあった。
移動の途中にも集まり水滴が大きくなる様に容積を増していったスライムは、鷲に到達すると、死骸の開いた嘴から体内に入り込んだ。そして、次の瞬間には、それはもう羽ばたき、空に舞い上がっていた。
「!?」
メテウスは迷う事なく、槍を鷲に向かって投げた。しかし、流石に撃ち落とす事は出来ず、片翼を奪うにとどまる。鷲の羽の代わりにスライムの体を作るゼリー質が羽の様に広がり、なんとかバランスを取りながら、魔物はオベリスクに向かって飛び去った。
《アイリ!なんて無茶を。大丈夫か。》
「そんなことより、早く、逃げよう。できるだけ早く、遠くへ。」
駆けつけたルー達にアイリは叫ぶ。ウィンディラが槍を抱えて戻ってきた。アイリはそのままメテウスの背に乗る。シモンが手早く周囲の砂を魔物の肉片ごとかき集めた。こんな時にも、研究資料の回収を忘れないのは流石だ。彼らはオベリスクを背に砂漠トカゲを急がせ、この場から離れた。遠くで争う魔物達の叫ぶ声が聞こえていた。




