123 二年の間にあったこと
その年、南の大森林に魔物の暴走は起きなかった。森は緑を深め、更に南へとその勢力を広げた。魔人の噂は、二度と流れる事はなく、森の奥に近づくと、子守唄が聞こえてくる、と定期巡回する傭兵達が伝えた。子守唄の謎を解く依頼がダブリスの新生傭兵ギルドに貼り出されたが、依頼が達成された報告は上がっていない。
コルドー大陸全土に広がっていた聖徒教会の勢力が急激に落ちていくのもこの時期からだ。夏至祭等に合わせて行われていた精霊の輪くぐりは廃止され、球の中に閉じ込められていた精霊達は大聖女の命令で全員解放された。シャナーン王都にあった大聖堂は診療所に生まれ変わり、カトリーヌ改めカタリナ聖女が中心となって運営が始まったところだ。クイン・リーはノルドベールの生まれ故郷の村に帰り、診療所には定期的に薬を届けにやってくる。運搬はラファイアット商会改めノルドベール商会が引き受け、ヨシュアは本店もその村に移し、自分も移住した。年に一度、吹く風と共に団の一座が回ってきて、ナキムと猿のピノの大陸一の演技を披露する時は、大勢の観光客が村を訪れる。
翌年になると、中央諸国では、シャナーン王国で無血革命により王政が倒れ、市民議会による政治が始まった。アルブレヒト王太子とダイアナ大聖女の行方は知れない。革命後、混乱を極めると思われた国内は、突如現れた美貌の女性政治家の手で、大きく治安を乱すことなく、新体制へと移行した。肩までの金髪を無造作に括った金眼の美女は、青空色の瞳の秘書と一緒にいる時だけは、柔らかい表情になると言う。
西海岸の国では、ダマルカント公国にこれまで全く表に出なかった第三公子が世継ぎとして立った。芸術を愛する第一公子は、趣味の世界に没頭すると称して、政治の世界を引退し、隣国ヴィエイラ共和国との国境近くに芸術村を開いた。第三公子の台頭に反対を唱えると思われていた軍を掌握していた第二公子は、己の親衛隊を連れて国を出た。出奔に近い状態だったと言う。公位継承権を子孫に至るまで放棄し、その代わりに船を一艘手に入れると、何処へとも告げずに出航した。彼の行方も知れない。
北方連山の向こうでは、数多の国が乱立する戦国の世が終わり、統一国家が生まれた。ブラフ海賊はコルドー大陸西岸を隈なく哨戒し、その国の動向を探るのが、今一番の重要任務だ。ミルナスとシルキスはその船に乗り込んで一年のほとんどを海上で過ごしている。成り行きで一緒にイーウィニーまでやって来たレンツィオも今では立派なブラフ海賊の一員だ。ルーは本拠地で貯めに貯めた事務仕事に追われている。その傍で補助についているのは、何故かシモンで本来の夫であるラモンは、マリの子育て担当だと嘯いている。二年前まで殆ど関わっていなかった罪滅ぼしらしい。そして、先日、ルーのお腹に弟か妹がいる事が判明した、と連絡が来た。
そして。
約束の二年が経ち、18歳になったアイリは、母テラと人型に変身したドラゴン、ロン・ローと失われた王国にやって来た。
ロン・ローの人型はそのまま魔人だ。時々、この姿で霊廟の見回りに来ていたらしい。かつて、初代アイリがここで魔人に遭遇した事自体、実はかなり運に左右される確率の低い事だったのだ。今は亡き、かつての仲間、ソラン。その似姿を見たテラは微かに目を眇めた。喜びとも悲しみとも取れるその様子に、アイリは複雑であろう母の心情を思う。
カイとウィンディラ、オンディット(ローレイラ)を残して、霊廟を後にしたアイリ達は、無事ブラフの仲間との合流を果たし、イーウィニーのブラフ海賊の拠点に帰りついた。そこまでの旅路で、地の精霊オーロン、あるいはアスクレイトスは、己の知る限りの真実をアイリに伝えた。そして、アイリは家族に自分の秘密、これが三度目のやり直しの生である事を、やっと話すことが出来たのだった。
そして、今、アイリは、霊山の前に立つ。
うっそりとした森の木々は、霧雨にけぶっている。
崩れた山肌に、低木や草が、しがみつくように生えていた。わずか二年で植生が整うはずもなく、まだまだ油断は出来ないが、明らかに水の精霊の加護をもらって元気に育っている。かつての生で目にした、無機質な剥き出しの土肌や乱雑に立っていた蟻塚は無い。
魔人の巣窟。
かつて恐怖の代名詞とまで言われたモノは、人の想像の産物でしか無かった。嫌、むしろ、想像の産物であったからこそ、あそこまで恐怖の対象とされたのかも知れない。実際の魔人、ドラゴンのロン・ローは、ヒトが嫌いで、人類から隠れるように暮らしているのだから。
岩肌に空いている一際大きな横穴を地の精霊アスクレイトスの先導で進む。
現世のロン・ローにはオーロンとローレイラという同じ名の別の契約精霊がいる。地の精霊はアイリの生まれ変わりに付き添う間に、‘ソラの欠片‘と同様、自我は変質していった。”オーロン”の名は、覚醒を促した後は、自己を表現するものではなくなってしまった。アイリに付けてもらった”アスクレイトス”こそが、今の自分である。かつての主人、ロン・ローとその契約精霊と相対した時、アスクレイトスが消滅も吸収もされなかった事が、別個体となった証明だ。そうアスクレイトスは主張し、ロン・ローもアイリの母テラ、始まりのホムンクルス・ガイアもそれを認めた。ガイアの契約精霊に至っては、顕現体の姿形から、全く異なっており、どう見ても別精霊としか言いようが無いのだから、この推論は正しいのだろう。とは言っても、証明の仕様がない事なのだが。
大広間に着くと、中央の玉座には真ん丸なスライムが座っていた。玉座の足元に、美しい男の抜け殻。八卦陣の外に、カイ、ウィン、ローレイラ(オンディット)が、空中をも利用した立体的な魔法陣を描いていた。
子守唄が流れている。
「シャオシャオ?」
アイリの右前で母の肩が震えた。
「シャオシャオ、コノ馬鹿者ガ。」
ドラゴンの慟哭。
波が引くように子守唄が止まった。
「創成の御方々、よくぞ、いらっしゃいました。」
代表して頭を下げたのはカイ。
二年前より、更に少し、大人びて見えた。