105 誰のためでもなく
ゆっくりとゆっくりと、世界が戻ってくる。頬に触れるのは、ざらりとした布地の感覚。それは、かつて与えられた上等な聖女や神官の纏う服では無く、子供の頃に着ていた何度も繰り返し洗って、ゴワゴワになった服と同じ。微かな夜の雨の匂いをそこに感じて、固く閉じた目を開けても、見えるのは薄明かりの差す暗く狭い空間。
それが、少しずつ明るさを増して、見えてきたのは、形の良い唇、鼻梁、そして、紫の瞳。
「紫?赤じゃ無い?」
何故そう思ったのか、根拠につながる記憶は霧散しつつ、アイリは無意識にカイの胸元に手を伸ばす。心臓のある位置。しかし、指が触れる前に、彼女の体はふわりと浮いた。
「え!?え?何?」
「リン。少し、休もう。無理をしすぎだよ。」
そう言われても、さっきまでのような身体の芯から感じる倦怠感はもう無い。自分に触れるカイから伝わる熱が、魔力まで伝えてくる様で。薄い薄い魔力のベールが幾重にも自分を包んで、大切に守られていると実感できた。
ヒソヒソと囁きながら、遠巻きに自分達を見つめる聖徒教会信徒達からアイリを護るべく、カイは彼女を抱き抱えたまま、魔導車へと誘う。しかし、彼女は首を振った。
「ありがとう、カイさん。でも、熱が酷い人がいる、って、だから、」
アイリは自分を呼びにきたはずのミルナスを見た。
「あー、えー、そのー、うん。傭兵さんなんだけど、鎧の下の怪我をずっと隠してて、それで、化膿したみたいで・・・。」
「わかった。せめて消毒だけでもしよ。」
【やめときなさいよ。どうせ、あんたが身を削って助けたって、感謝なんてされないのよ!】
また、魔石の中から、ウィンの声がする。
「?この声?」
今回は、ピッタリ寄り添っているカイにも声が聞こえている。
「風のウィン。まだ、皆、魔石の中で休んでるはず、なんだけどね。私を心配して目を覚ましてくれたみたい。ありがと。」
弱々しいながらも笑顔を浮かべてアイリが答えた。
【そう思うんなら、心配かけるんじゃ無いわよ!】
「ねーちゃん、ほっとけば良いじゃん。俺らが助ける義務は無いんだから。」
同じ様にプリプリと怒っているシルキスに
「私がそうしたいだけ、だから。」
そう言って、アイリはミルナスに怪我人の所まで案内してもらう。
カイのお陰で自虐的な罪悪感は薄れていた。しかし、助ける力があるのなら、助けたい、と思うのだ。自己満足で周囲に心配をかけている事は理解しているのだが・・・。
ルーの眉間による皺を見て、笑ってしまうのは申し訳ない。
その傭兵は足裏に怪我をしていたが、刺し傷程度、大した事ないと思い放置していた、と言う。そして、気がついた時には、靴が脱げない程腫れ上がっていた。
鎧は金属製なので、地の精霊の支配を受ける。アイリはアスクレイトスに頼んで、地の魔力を分けてもらい、傭兵の靴を所々腐食させて脱がせる事に成功した。
「何と、地の精霊まで・・・。」
そんな言葉が微かに聞こえた気がしたが、それよりも、靴が外れると同時に解放された患部から溢れる腐敗臭に、ゾッとした。
「酷い。」
あまりの悪臭に皆が鼻を多い、顔を背ける。怪我をした本人も気を失いかけていた。
足はくるぶしの上まで、パンパンに腫れ、傷口からは緑色のドロリとした膿が垂れている。
この毒素が全身を回って熱が出ているのだろう。
《これは、もう、切り落とすしか無いな。》
ルーの呟きにアイリも口唇を噛む。
「ミル、シモンさんに準備をお願いして。」
「あの、ここは清潔では無いので、処置は場所を移しますね。どなたか、この方に付き添って頂けますか?」
弟を使いに出し、傭兵に声をかけて、アイリは周りを見渡した。
あまりの悪臭に、彼女と傭兵の周囲にはカイとルーしかいない。シルキスは靴が取れた瞬間に駆け出していた。
誰もが声をかけられないように一歩後ずさるのを、ため息を飲み込んで、アイリは傭兵の手を取る。熱で上がった体温に少しでも楽になるようにと、オンディットの水の魔力で癒しと冷却の魔力を込める。
「俺も、長い事、傭兵をしてりゃ、ある程度、キズのことはわかる。手遅れかもしれねえんだろ。一か八か、バッサリやっちゃってくれ。それで死んでも嬢ちゃんのせいなんかじゃねぇよ。俺の名はレンツィオ。よろしくな。」
熱と痛みで顔を歪めながら、その傭兵はそれでも笑おうとした。目を見開くアイリの肩に励ますようにカイの手が置かれる。
「ねーちゃん、戸板持ってきた。」
シルキスが引き摺らないように必死に抱えて持ってきた戸板に、何事かとブラフの男達も加わって、傭兵を乗せ、魔導車へと移動する。その後ろを遠巻きにぞろぞろと何人かが付いてきているが、無視だ。
「ええーっと、取り敢えず、大量の水と綺麗な布。ここにいるブラフの中に風使いで外科処置をしたことのある人いますか?できれば、鎌鼬でスパッと落とす方が一瞬で済んで、痛みも出血も抑えられます。義足との接合面を考えても刃物で落とすより良いので、是非、協力をお願いします。アイリさんは助手です。子供にこんな重い責任を伴う決断はさせられませんよ。魔力は大丈夫?助手と言っても、ずっと浄化をかけてもらう事になるし、切断後も暫くは治癒魔法をお願いしないといけないけど。」
いつもぼーっつとしている印象のシモンだが、手術用の清潔な服に着替え、テキパキと準備を進める姿はまるで、別人だ。
「やります。」
そう言ってアイリは自分とシモン、風使いのブラフに浄化の魔法をかけた。
「ええーっと、ミルナスくんは連絡係で車内にいてね。何か足りないものとか出たら、風魔法で外に連絡する役ね。ルーさん、暫く誰も近寄らせないでください。」
「さあ、これを飲んで。」
そう言うとシモンは傭兵にオピムの水薬を飲ませた。