10 スライムと猫の眼
魔物とは本来、生き物に精霊が付いた物である。しかし、その昔、某皇国の狂った皇帝の欲望のままに、純粋に魔力だけで作られた魔物が2種類いた。
一つはあらゆる生き物の骨を全て組み合わせて作られた「ドラゴン」。
一つはあらゆる生き物の骨を全て混ぜ合わせて作られた「スライム」。
そのいずれもが、某皇国の滅びに関わった、と言われ、歴史の表舞台から姿を消した。
しかし、その目撃談が噂でしか無いドラゴンとは異なり、スライムは150年程前から、幾つかの亜種が確認されていた。
全てを混ぜ合わせて作られ単一の核しか持たないスライムは、捕食した生命体から必要なエネルギーを取り込み、無機物から特性を得て、活動すると考えられている。取り込んだ物の種類だけ亜種が存在し、その中で環境に適した個体が分裂し、増殖する。しかし、その先でまた特性を得る為、スライムとは100体いれば100体に異なる対策が必要とされる魔物だ。共喰いも多い為、個体数が少ないのが、唯一の救いだが、それは又、多くに耐性を持つ厄介な個体だけが生き残っていると言えた。
スライムを倒す一番確実な方法は、その核を潰す事だ。だが、スライムの体は前述の食性から物理攻撃も魔力攻撃にも耐性を持つ物が多い。
そんなスライムが目に前にいる。
「このスライムが魔物達を暴走させていたのね。」
ひと飲みにした馬車と人の消化に時間がかかっているのか、スライムはその場を動かなかった。その間に息を整えた母が呟く。その言葉が正しい証拠に今、この場に生きているものは、スライムと彼女達だけだった。
あれだけ次々と湧いていた魔物は、倒された死骸以外、見当たらなかった。スライムから逃げていた魔物は、スライムが姿を見せた時点ででここから逃げていったのだ。そして、仲間の遺体とアイリ達だけが残された。
「お母さん、今のうちに逃げる事は出来ないかなぁ。」
アイリは声を潜めて尋ねた。
「難しいわね。スライムは暴食。その場にいる全ての生命を喰らい尽くす。ヒトがスライムと遭遇して生き残るには、倒すのが一番確率が高い。」
「お母さん倒せるの?」
振り返った母の瞳は、ネコの眼をしていた。
そこから先は心が思い出すのを拒否した。ただ、内側から炎に包まれたスライムの中でその核を抱き締めて己の胸ごと短剣を突き立てた母の、ネコの眼の様に縦に伸びていた虹彩をこの夢でまざまざと思い出した。
その瞳と同じ瞳を18歳のあの日、魔人の瞳に見つけたから。
悪夢と熱からふと浮上して目を開けると、そこには優しく見守っていた母の顔があった。夢うつつのまま、疑問が口をついた。
「お母さん、いつもは普通の眼なのに、どうしてあの時はネコの目だったの?魔人も同じ眼をしてたけどそれって、たまたま?」
「魔人?」
「黒髪でお母さんと同じ紅い眼をしてた、私と同じ歳位の男の人。凄い魔力で。私じゃ敵わなくて。でも、魔人だから、倒さなきゃ、そうしなきゃ私はアル様と一緒には居れないって言われたから。・・・また、一人ぼっちになるのは、嫌っ!」
そう叫んでアイリは母にしがみついた。
その耳に何事か囁いてゆっくり背を撫でると、アイリはくったりと腕の中に倒れ込んで、再び眠りについた。
「この眠りは悪い夢を見せない。だから、ゆっくりお休み、アイリーン。それにしても、一体、何が起こっているのかしら。この子と同じ位の歳の男の人?男の子、では無くて?黒髪で私と同じ眼って。・・・。まさか、ね。・・・ソラ?ひょっとして、生きているの?」
「それにアル様、とか一人ぼっち、とか。ねぇ、貴女達。私の精霊とよく似ている子もいるけれど、それも関係あるのかしら?あぁ、どうして言葉が届かないの?」
途方に暮れて見つめる先には、アイリと契約している4大精霊が、あちらも物言いたげにテラを見ていた。これまで、テラが話の出来ない精霊はいなかったのだが、アイリに付いている精霊達は姿を見る事は出来ても意思疎通が出来なかった。向こうからも一生懸命話しかけて来ているのはわかるのだが、認識阻害をかけられている様に全く、意味が通じない。
精霊の理も巻き込んで何かが起こっているのは間違いなかった。
「この子には、この子に相応しい平凡な人生を送って欲しかったのに、どうして、こうなってしまったのかしらね。」
悪夢にうなされ、額に浮かんでいた我が子の汗を拭う。素直ではあったが、決して魔力の多い方では無かった。精霊が見えていたのもほんの赤ん坊の時だけで、自然の美しさよりも、作られた装飾品の綺麗さを好んだ。華やかな舞台に憧れ、地味な練習を嫌った。まだ幼いからとは言え、もう一人の娘ユーリはこのぐらいの時にはもっと、と思ってしまった事は何度もあった。
だが、アイリはアイリで良いのだ。このまま、平凡な普通の幸せを、あの頃、自分とソラが望んで、絶対に手に入れられなかった“平凡“な人生を送れるようにしてあげよう、そう決めた時に、この子はいきなり変わってしまった。
突然起きあがって、泣き出した娘を見た時の驚きは、言葉にならない。守るようにその子の周囲に現れた異形の精霊達。必死に何かを伝えようとするその姿に悪意はなく、己の精霊の反応からも、これは間違いなく自分の“アイリ“である、と教わった。それでも、あの時、自分は上手く笑えただろうか、と思う。
“作られた子“として、波乱万丈な人生を送ってきたテラをして、娘が一瞬で別物に代わった瞬間は恐怖でしか無かった。
その後のアイリは、5歳児の自分を意識するあまりおかしな事になっていた。吹き出しそうになるのを堪えるのに、何度苦労したことか。そんな姿を見ているうちに、ああ、やはりこれは、私の平凡なアイリなのだと納得できた。
平凡な子が、何があったのか、強大な魔力を持ってしまい、精霊契約を結んでしまった。意図せず手にいれた力でも、正しく使おうと足掻いているのだ、と理解した時、これまで以上にアイリに愛しさを感じずには居れなかった。
だから、この子がその不相応な魔力に飲み込まれない様、母として、南の森の紅き魔女として力をかそう、涙の跡の残る柔らかな頬を撫で、テラは、アイリの平凡な人生を諦めた。