35:愛しの花嫁
「逃げ出してしまったのかと思ったが」
「そんなことしない。ちょっと、みんなと話し込んでただけで……」
「そうか? まあ、今さら逃がすつもりもないから構わないがな」
私の手を取った白緑は、こちらにまじまじとした視線を向けてくる。
いつもと違う格好をしているのは、私も同じだ。物珍しいのかもしれないけれど、さすがにちょっと無遠慮すぎないだろうか?
「へ、変でも我慢して……! みんなが色々してくれたんだけど、私だって見慣れなくて……」
「まだなにも言っていないが?」
「それはそうだけど……じっと見るから」
「綺麗だ、依織。よく似合ってる」
自信が無さすぎて予防線を張った私を気にすることなく、白緑はさらりとそんなことを言う。
顔が熱くなってしまって、綿帽子で隠すように顔を伏せた。
「褒めているのにどうして隠すんだ?」
「それは……恥ずかしいから」
「俺のために着飾ってくれたんだろう? なにも恥ずかしがることはない」
誰が見ても整った容姿をしている白緑はいいだろうけれど、私はそうはいかない。
誰かに見られたり、注目されることなんて今までなかった。それが普通だと思っていたのだから、好きな相手に見られていると思えばなおさらだろう。
「見られるのに、慣れてないの」
呆れられてしまうだろうか?
白緑に見てもらうために、淡紅たちが手を掛けてくれたというのに。これから生涯の伴侶になるのだという相手に、自分を堂々と見せることもできないなんて。
「……それなら、これから時間をかけて慣らしてやろう」
「え……へ、えっ!?」
無理に顔を上げさせるわけでもなく、白緑は私の手を引いて歩き出す。
彼に続いて足を踏み出したのはいいけれど、足元に目線を落としていた私は驚愕してしまう。
「ちょ、白緑、危な……ッ!! …………え?」
「どうかしたか?」
慌てる私に対して、まるで悪戯を成功させた子どものような顔をしている白緑。
私たちが進もうとした先にあるのは、あの湖だった。そこに飛び込むことになるなんて思っていなかったのだから、焦るのは当然だろう。
けれど、体重を預けても私たちの身体が水の中に沈むことはなかった。私と白緑は、湖の上を歩いているのだ。
最初は浮いているのかと思ったけれど、足をつけた箇所には波紋が広がっている。
「王なんだから、このくらいはできて当然だ」
「”元”、でしょ! 意地悪!」
「散々待たされた仕返しだ。言っておくが、手を離せば沈むぞ」
その言葉に、思わず繋ぐ手に力が篭ってしまう。
それだって彼の言う冗談なのかもしれないけれど、せっかく準備してもらった花嫁衣裳を台無しにするリスクを負ってまで、確かめるほどの勇気はない。
それにまた白緑が笑うものだから、私はムッとしてしまうのだけど。
「……大丈夫だよ、離さないから」
「そうか」
そうして大樹のところまで辿り着いた私は、改めてその大きな木を見上げる。
太い木の幹には裂け目や傷も見当たらず、ここに門があったとは思えない。人間の世界にあったそれと同じように、注連縄はしっかりと巻き付けられている。
「この門が開くことは、もうない。お前が人間の世界に戻ることも、もうできない。それでもいいか?」
「私の答えはとっくに決まってる。わかってるでしょ?」
「ああ。だからこそ、お前の口から聞きたいんだ。依織」
大樹の方から白緑へ視線を移すと、私は彼と向かい合うように移動する。
淡い緑色の瞳はまっすぐに私のことを見つめていて、繋ぐ手から伝わる体温が少しだけ上がったのを感じた。
「私はあなたと生きていきたい、白緑」
「俺もだ、依織。俺の生涯の伴侶として、ずっと傍にいてくれ」
白緑との距離が近づいて、私は瞼を伏せる。
互いの唇が触れると、妖都の空からぽつりぽつりと雨が降り始めた。
大切な人たちに別れを告げたあの日とは違う、暖かい雨。
湖の向こうでは、私たちのことを見守ってくれていたみんなが祝福の声を上げている。そちらに手を振って応えようとしていると、突然私の身体が宙に浮きあがった。
「きゃっ……!? 白緑、なにするの!?」
「悪いが、今日は特別な日だ。これ以降は花嫁を独り占めにさせてもらう」
私を抱え上げた白緑は、身軽な動きで大樹の枝へと飛び乗る。
遠くから抗議の声が聞こえてくるけれど、耳に届かないふりをしている白緑は、この上なく楽しそうな顔をしていて。
そのまま、淡紅たちがいるのとは反対の方角へと向かったのだった。
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