氷川徹也の価値観
一日一話
葉山を帰した後、氷川は自室に籠った。氷川の部屋の半分は何台ものPCとディスプレーで埋め尽くされており、そのうちの一台で氷川はPython言語のプログラムを流れるように打ち込んでいる。
だが、氷川はその手を止めずに頭の中では別のことを考えていた。
葉山は猟犬のような嗅覚で氷川を追いつめた。綾乃が泣いて割り込んで来なければ氷川も危なかったかもしれない。やはり刑事ってやつはただのバカではないんだな、と氷川は改めて感心した。 知恵比べをした場合、氷川の方が頭脳で分があるかもしれないが、葉山は刑事である経験則を活かしてショートカットで接近してくる。
自分を襲ったあのチンピラどもは龍頭の指金であると氷川は確信していた。龍頭は東アジアを勢力圏にする中国系のマフィア。氷川は銀行、大手企業のサーバーハッキングをするためのスクリプトを龍頭に提供する代わりにそのマージンをもらうという契約を交わしていた。
そのスクリプトを実際に使うのは龍頭の方なので氷川は実行犯にはならないが実質的に犯罪に加担する形になる。なので、仮に摘発されたとしたなら無罪ということにはならないだろう。
先月、氷川は香港の銀行をハッキングするためのスクリプトを龍頭に提供したのだが、龍頭と報酬の話で折り合いがつかず、結局、龍頭が契約不履行という形で強引に幕引きを計ろうとした。なので、氷川は仕返しと見せしめのために龍頭の口座から五千万ドルほど横領したのだった。今回の暴行事件はその報復かもしれない。
合わせて、まだ龍頭は気付いていないだろうが、彼らのサーバーからハッキングして入手した犯罪の証拠となる武器、人身売買のルートを示す資料も押さえてある。この証拠を国際刑事警察機構に出したところで、龍頭を一網打尽にすることは無理であろうが、構築された犯罪ルートは再構築せざるを得なくなるので、金だけでは無く人、時間も合わせて大損害を与えることができる。なのでこの情報は氷川にとって最後の切り札だ。
とりあえず自分を襲ったチンピラどもが、誰それから指示があったと口を割ろうと、龍頭に辿り着くことはないだろう。龍頭がそんなへまをするわけがない。そう氷川は考えている。
ギィ……と、ドアが開いた音がしたので氷川はびくっとして振り返った。
「お兄ちゃん、今日はもうあんなことがあったんだからもう寝た方がいいと思うよ?」
妹がドアから半分だけ顔をのぞかせていた。お兄ちゃんのことがとても心配だけど、でもやっぱり仕事をしているようなら邪魔しちゃ悪いし、どうしようかな?うーん?と散々迷った末に決断して下した答えが、”半分だけ顔を出す”という結果なのだろう。
やっぱり誰がどう考えてもオレの妹が世界一可愛いいじゃねぇか。クソッ。
「ああ、いや。四年生の卒研のテーマをチェックする作業は今週までに一旦終わらせないといけなくてね。綾乃こそ早く寝ろよ。明日も学校あるんだろ?今日はお前に心配を掛けさせて悪かったな」
「うん。寝るね。お兄ちゃんも早く寝てね」
「おう。後三十分以内に終わらせるから心配するな。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
綾乃を部屋に帰した後、再びディスプレーの方に向き直る。妹に向けた優しいお兄ちゃんの笑顔からうって変わって闇を見つめる悪い顔。
「オヤジ、オカン。オレはあんたらみたいに負け犬にはならない。オレは金に振り回される側じゃなくて、振り回す側の人間になるのだから」
どんなに奇麗ごとを取り繕うと、結局人生は『金』だ。持たざる者が死んで持つ者が生き残るゼロサムゲーム。どれだけ生産性が上がろうと、行き着くところは取るか取られるかだ。だからオレは他人から金を奪いつくして、オレと綾乃だけが生き残る道を見つけ出す。知能が低いバカどもは搾取されて干乾びるがいい。氷川はそう考えている。
その後も氷川は憑りつかれたようにPythonのプログラミングを続けた。
氷川徹也は幼い頃から金に振り回される人生を送ってきた。というよりも金に振り回される両親の姿を見て育ってきたのだ。
中学の頃までは父親の事業がうまくいかず、借金が重なっては極貧生活を続け、高校に入ってからは事業が軌道に乗り、急に大金が舞い込んできた。そして大学二年に上がった頃には事業が再び大コケし、借金は以前よりも倍増。そのショックに耐えきれず、両親は二人の子供を残して心中を図ったのだろう。
氷川兄妹が両親を亡くした当時、二十歳を迎えた氷川徹也には両親のその気持ちが理解できた。長い間、地獄の底辺を彷徨う生活を強いられておきながら、急に天国に持ち上げられ、そしてまた地獄に突き落とされる。金に振り回され、それ以外の価値あるものに目を向ける余裕がなかった両親にとって、事業の再転落は何物にも替えがたい絶望感をもたらしたのであろう。
氷川徹也は幼い頃から分かっていた。お金を生み出すことはとても難しいことで、膨大なエネルギーを必要とすること。
氷川徹也はせめてこの救いのない世界で、妹にだけはそのような苦しみを生み続ける『金』を意識しないで済むよう、それ以外の価値あるものを見て知ることができるように、必死になって努力してきた。妹が他の同級生と同じものを揃えられるように、学校や両親に隠れてアルバイトなんかもした。
地獄でのたうち回るのはオレだけでかまわない。そしてどうやって『金』を生み出せばいいのか自分なりに勉強し、研究を続けてきた。
氷川徹也にとって『金』は価値があるものではなく、既に憎むべき対象となっていた。