氷川兄妹と葉山隆志(1)
一日一話
「ただいま、綾乃」
「お帰りお兄ちゃん。作った晩御飯、冷めちゃったから今から温めるね!」
どうやら氷川兄妹の関係は良好であるらしい。うちとは違いうらやましい限りだと葉山は思った。
「こんばんわ。おじゃましまーす」と声を掛けて葉山は氷川の背後からぬっと顔を出す。
「えっ!?何?えっ?どどどどちら……様でしょうか?」
氷川の妹である綾乃は顔面蒼白となり、ひどく動揺していた。目が泳ぎ、ガタガタと体を震わせている。それは仕方のない反応だ。無精ひげを生やした百九十センチの大男、しかも四十路の見知らぬ中年が夜分に突如として自分の家に現れ、目の前に立っているのだ。たとえか弱い女の子でなくともかなりビビる。
「私は一之瀬警察署の葉山です。夜分遅くの訪問、真に申し訳ございません」
兄の方に対する態度とは区別して、妹の綾乃には丁寧な口調で接して謝罪をする。いつもの適当な態度で接すれば確実に泣かせてしまうからだ。葉山は胸ポケットから名刺を取り出して綾乃に差し出した。この場面で警察手帳を出すと威圧感がマシマシになるので、綾乃を怖がらせないための配慮だ。綾乃はおそるおそる名刺を受け取り、内容を確認した。
「警部ということは刑事さん?何?えっ?何があったんですか?それになんかお兄ちゃん、ケガしてるし。えっ?どういうことなの?というかお兄ちゃん大丈夫なの?」
綾乃は目の前で起こっている事態を頭の中で処理しきれていない。頼れる兄の腕にしがみついて既に泣きそうになっている。
「だから刑事さんを部屋に上げたくなかったんですよ。予想してた通り、妹がめっちゃ怖がってるじゃないですか」
「ああ、悪かったな」
「綾乃、大丈夫だから落ち着け。な?な?」
綾乃は氷川になだめられて徐々に落ち着きを取り戻していった。だが氷川の抗議を前にして、悪者は完全に葉山となった。その理不尽に対して、お前が怪しいからここまで来る必要があったんじゃねーかよと喉の先まで出かけたが、それをぐっと堪えて妹に再び話しかけた。
「君のお兄さんが一之瀬の商店街でちょっとした事件に巻き込まれてしまってね。それで少し話を聴くためにおじゃましたんだ。怖がらせてすまない」
「そ、そうだったんですか。とり合えずお茶入れますね。リビングでおかけになって少しお待ちになって頂けますでしょうか?」
「いえ、お構いなく。それよりも君のお兄さん、一応顔を殴られているから救急箱があったら湿布を持ってきてくれるかな」
「は、はい」
綾乃は氷川の腕に絡めていた手を離すとパタパタとキッチンの方へと走っていった。その間に葉山と氷川はテーブルを挟んで座る。新築の匂いが漂う部屋。テレビの大きさも60インチはあり、5.1チャンネルのスピーカーシステムも完備している。まるでドラマで使われる背景セットのような空間。やはりこいつら、いいとこのお坊ちゃん、お嬢ちゃんなんだろうなと葉山は思った。
「可愛い妹じゃないか」
兄を気遣う妹の可愛らしさとはまた別に、氷川綾乃自身もまたどこぞのアイドルグループに紛れ込んでいてもおかしくないような可愛らしさがあった。全くこのアイドル兄妹が。おじさんが直視するにはまぶしすぎる。
「世界一可愛い妹っすよ」
「歳はいくつだ?どこの学校に通ってる?」
「今年度で高二っすね。学校は一之瀬高」
「うちの娘とタメかよ」
しかもまた兄妹揃って優秀。市立の一之瀬高校は娘の京子が通う海鳴高校よりもワンランク上の高校、市内でトップである。いるところにはいるんだなこんな絵に描いたような兄妹。氷川綾乃の背丈は百五十前半くらいだろう。葉山の娘である京子と比べて綾乃には小動物のような可愛らしさがある。いわゆるかわいい系。
「ってゆーか刑事さん、あんまり妹のことジロジロ見て詮索しないでくださいよ。確実に何かが減ります。タメの娘さんがいるなら分るでしょう?僕の気持ち」
「バカ野郎。これは必要な手続きとして聴取している。仕事以外の何物でもない」
そう言いながらも心の中では私情を挟んで綾乃を娘の京子と比べてしまっていた。京子はあの派手な化粧を落とせば、誰にも負けない美人のはずなんだがなぁ、などと考えてしまう。妙なところで対抗心を出してしまう自分が恥ずかしい。それはそれとして葉山と氷川の間の会話がだんだん砕けてきた。必要なことを聞き出すためにはまず相手の警戒を解かなければならない。葉山の話術だ。
「あと、お前たち兄妹の親御さんは?今日はなぜ留守にしている?」
「うちのオヤジとオカンはもう死にましたよ。三年前にね。会社が倒産して二人で心中してしまいましてね」
「ああ、それは悪いことを聞いたな」
「いえ別に。そのことについてオレは全然気にしてないし、妹も随分前に折り合いつけていますし」
意外だった。氷川兄妹には両親がいない。だが、あっけらかんとそれを答える氷川を見て葉山は一瞬、心に痛みを走らせた。自分は今でも妻の死を引きずっている上に娘との関係も良くない。それに比べてこの兄妹は、両親が自殺だなんてより過酷な経験を積んでいる上にも関わらず、それを乗り越えて仲睦まじく生きている。この兄妹を見ていると、どうしても自分が情けなくなってきた。
「そうか。しかしそんな状況でどうしてまたこんな高級マンションに住んでいるんだ?会社が倒産したという話なら親の遺産も残っていなかっただろう。どこから生活費が出ている?」
「今はネット環境が成熟してますからね。ココさえあれば学生を続けながらでも余裕で稼げますよ」
氷川はこめかみをこんこんと指でつつきながらドヤ顔でそう答えた。明鏡大の学生ともなればそんなこともできるのかと葉山は少し感心し納得してしまった。その横で氷川はぼそっと話を付け足す。
「なのにオヤジもオカンもオレに何の相談せず黙って逝ってしまいましてね。バカですよあいつら」
話が暗い方向に進みそうだったので気まずくなりかけたが、ちょうど、氷川家のアイドルが救急箱を抱えてリビングに戻ってきた。小走りに走ってくる様はまるで座敷犬のチワワである。
「あの……お話の途中でしたでしょうか?兄の手当てをしてもかまわないでしょうか?」
「いや、大丈夫。そのままお兄さんの手当てをしてあげて」
葉山の了解を確認すると綾乃は氷川の隣に座ってパカっと救急箱を開けた。そして湿布を取り出して兄の頬に貼ろうとする。
「いや、いいって!自分で貼るから」
「いいの。お兄ちゃんはじっとしてて。暴れると変な風に引っ付いちゃうから動かないでよ」
氷川が痛たっ!とか冷たっ!とか声を上げている。本当に仲の良い兄妹だ。そんな眩しいアイドル兄妹を尻目に葉山はスマートホンを取り出し、メールの着信を確認した。嶋巡査長から連絡が入っている。