警部・葉山隆志の苦悩
一日一話ずつ目標
―半年前―
警視庁捜査一課の刑事の仕事は東京都の治安維持、凶悪犯罪の解決、そして被害者とその家族が安心して暮らせる日々を取り戻せるようにするため、日夜地道な捜査を続けることが職務である。
葉山隆志は一之瀬市所轄の警部。年齢は四十路を過ぎ。そろそろベテランの域に達しているが、身長は百九十センチ、体脂肪率十二パーセントの体が引き締まった理想的な筋肉体質の体をしている。職業柄、暴力沙汰の喧嘩の仲裁に入ることは少なくないが、刑事であることを名乗る前に、たいていの問題は解決してしまう。暴れていた当人たちは葉山の体躯を見るなり委縮してしまうのだ。柔道六段の腕を披露する事態になることはめったなことでは起こらない。
昨日は残業が深夜まで続き、疲れ果てて風呂にも入らずそのままソファの上で寝てしまった。午前七時半にテレビの電源が入る設定にしているため、ニュースの音声が聞こえてくる。葉山は目を覚ますと頭を掻き、むくっと起き上がる。そして無言のまま上半身裸になり洗面所の方へと向かった。鏡の前に立つと口の周りの髭が数ミリ伸びている中年の顔が映った。昨日は剃ったので明日でいいかとそこでだらしない判断を下してしまう。出社するまでの時間がないため、髭を剃る時間さえも惜しいんだと心の中で言い訳をする。ただ、歯磨きだけは必ずする。五年前、一度右上の奥歯を虫歯にした際にドリルで削られた恐怖が一生もののトラウマになったからだ。
歯ブラシを洗面台に置いたところで、上半身裸の葉山は鏡の前でポーズをとった。盛り上がる大胸筋と上腕二頭筋。そろそろ初老に片足をつっこむであろう歳とは言えど、まだまだ衰えを見せる気配はない筋肉である。
自分の部屋でアイロンの掛けていないよれよれのスーツを着込んだところで、キッチンに向かった。朝食はとらないが、コーヒーだけは飲む。昔は妻の早紀が豆を挽き、ドリップしたコーヒーを準備してくれていたものだが、早紀は既に事故で他界している。あれから十年経過した今でも葉山はふと思う。本当は豆から挽いたコーヒーを飲みたい。たまらなく飲みたい。であれば自分でドリップすればいいものだが、それがきっかけで生前の妻が入れてくれていた味を思い出すようなことがあれば、自分がいったいどのような感情に見舞われるのか分らない。
長い年月が経過している今なら案外こんなものかと拍子抜けの結果になるかもしれないし、昔の希望に満ちた円満な家庭環境を思い出して感情が溢れ出て来るかもしれない。ただただ、どのような形になろうと、結果を受け入れること自体そのものが怖いのだ。
自分でコーヒーをドリップしないのは時間がないからだ――。
そのような形でまた自分に言い訳をしながら、葉山の時間は十年前のまま止まっている。わざと止めている。ただ、そのような感傷とは別にカフェイン中毒と化した体はやはりコーヒーを求めているようで、葉山は冷蔵庫を開けるとブラック無糖の缶コーヒーを取り出した。
葉山がプルタブに指を掛けたところで、制服に着替えた娘がリビングに出てきた。
「……。」
無言である。葉山も娘もお互いにおはようの挨拶もない。妻の早紀と死別してから男手一つで娘を育てて来たものの、娘との関係は決して良好とは言えない。
娘の京子は高校二年生である。スラっとした高い身長と長い手足は葉山譲りのものであろうが、小顔でアーモンド型の瞳、美人と表現してもけっして謙遜ではない、鼻筋の通ったバランスの取れた顔の造形は間違いなく母親譲りのものだ。
葉山がキッチンからカウンター越しにリビングに目をやると、京子は葉山と目も合わそうとせず、テーブルの前に座るとマニキュアを塗り始めた。緩いカーブの掛かった長い髪は金色に染まり、長いつけまつげに濃い化粧、おおよそ高校に通う女子高生としては相応しくない派手な風貌。いわゆるギャルというやつだ。妻の早紀から引き継いだ清楚で美人であるはずの顔を台無しにしている。娘・京子のそんな姿を見て葉山はいらついた。
「スカートの丈が短い!それに何だその髪の色と派手な化粧は!もう少し高校生らしい格好をしたらどうだ!」
娘との会話があるとすれば必ず喧嘩腰になってしまう。
「うるさい」
京子はぼそっと答えたが、長い爪にマニキュアを塗る作業を止めない。娘の何が気に入らないって、その風貌よりもそのそっけない受け答えよりも、その死んだ魚のような目をしていることが気に入らない。この世の何もかもに興味を無くし、未来を歩む気力を微塵も感じさせない、ただ過ぎていく毎日を消化しながら死んでいないだけの生活を送っている人間がする目。
早紀が他界する前までの幼かった京子は目に入れても痛くないほどの可愛いらしい少女だった。母親である早紀にべったりではあったが、仕事で忙しくなかなか相手をしてやれていなかった葉山にも愛想よくなついてくれていた。出勤前、玄関で葉山の足にしがみつき、顔を見上げながらいってらっしゃい、という娘の愛おしさを思い出すと、胸が苦しくなるほどの熱い思いが込みあげてくる。
『キョウは本当に可愛いな!お父さん、今日はできるだけ早く帰ってくるからな!』
当時の葉山は自分の大きな手を愛娘の頭の上に乗せるとガシガシとなぜた。
それから十年経った今、それと同じことを今さら再現しても寒い空気が流れることは火を見るよりも明らかだ。
京子はマニキュアの作業を終えると、また無言のまま学生鞄を手にしてそそくさとマンションを出て行った。まぁ、学校に通ってくれている分にはまだマシである。しかしどこでどう育て方を間違えたのか。早紀と死別してからも前と変わらず仕事にかまけてほとんど娘の相手をしてやれなかったのが原因だろう。早紀を失って苦しかったのは自分よりもむしろ娘の京子だったろうに。頭では分かっていてもどうしても気持がついて来なかった。早紀を失った葉山は向き合うべき現実から目を逸らすようにようにして以前よりも仕事に打ち込むようになってしまっていた。
一人マンションの一室に残された葉山は、壁に掛かっている鏡をふと見た。そこには無精髭が伸び、目の下にクマが出てきている疲れてそうな顔をした中年の男の顔が映っている。
「改善しないといけないのはオレの方だって、それは分かってはいるんだ」
葉山は手にしていた無糖ブラックの缶コーヒーのプルタブを開けると一口飲んだ。
「やっぱまずい……」
そう悪態をつきながら十年もの長い間同じ生活を繰り返している。まずいと言いながら缶コーヒーを口にする生活をやめられない。やめようともしない。葉山は残りを一気に飲み干すと、戸締りをしてからマンションを出た。