勇者の呪い
勇者によって魔王は倒され、世界は平和になった。だが、長時間の死闘の末、勝鬨をあげた勇者は倒れ深い眠りについた。目覚めた時、勇者は全てを忘れていた。自分に愛する妻がいたことも。
「王よ、忘れることなかれ」
魔王討伐に賢者として参加していたエルフのサーフはそう言い残しエルフの里へ帰って行った。魔王軍との戦いと魔王城からの転移で魔力の消耗が激しく、里で早急に休まねばならなかった。魔力のない人間界はエルフには毒でしかない。気掛かりはあるが自らの消滅と引き換えに出来なかった。
記憶を無くした勇者リューは王城で養生することになった。無くしたのは記憶だけで日常生活には全く支障はなかった。王城の奥にある離宮で一緒に暮らしているのは聖女として魔王討伐に参加していた王女マリア。一緒に旅をするうちに恋仲になったと勇者リューの側を一時も離れずに甲斐甲斐しく世話をしていた。
今日も王城の門を叩く者がいる。
「夫に、リューに会わせてください」
勇者一行の帰還と同時期に王城から追い出された女だった。
「帰った、帰った」
何も知らない門番は冷たく薄汚れた女を追い返す。馴れ馴れしく勇者の妻を名乗る女に憤りを感じながら。
「勇者様はマリア王女の婚約者様だ。お前なんかが会える相手じゃない」
ただ、毎日毎日縋る目をして勇者が住む王城を見上げる姿に同情はしていた。どうしても勇者に会いたいのが分かる。本当に勇者の知り合いなのかもしれない。だが、勇者に会いたいという者は誰も通すなと命じられている。それに貴族でもないこの女を通せるはずもない。
勇者リュー様は勇者として目覚める前、小さな港町で結婚していたという噂があった。神殿からそのような記録はないと公表されたが、この女はそれを知らないのかもしれない。だから、妻と言ったら会えると思いこんでいるかもしれない。
「ほら、帰った、帰った」
シッシッと犬を追い払うように帰るように言う。懲りずに明日も来るだろうと思いながら。
「何事だ?」
「タキ様、なんでもありません」
門から馬に乗って出てきたのは、勇者と共に魔王討伐に参加していた剣士タキであった。
「タキ様、お願いです。リューに、夫に会わせて下さい」
「お前は…」
剣士タキは顔を顰めると馬から降り、近寄って来た女の腕を取った。
「この女か? 門前で毎日戯れ言を騒いでいるというのは」
「そ、そうでございます」
門番は大事にはしたくなかったのに、と早く去らなかった女に恨めしそうな視線を向ける。
「私がよく言い聞かせておく」
剣士タキはそう言うと片手で馬を引き、もう片方で女を引き摺るようにその場を足早に去って行った。
門番はふと明日は女は来ないかもしれないと思った。そして、本当に女は次の日から現れなかった。
「タキ様、お願いです。夫に、リューに会わせて下さい」
人気のない場所に連れてきて剣士タキは女の腕から手を離した。懇願してくる女から目を逸らす。
「リュー様はマリア様の伴侶になられる。諦めろ」
「けれど、会ってどうしても伝えたいことがあるのです!」
必死に願う勇者リューの妻に何を言えばいいか分からない。現実は残酷だ。
魔王との死闘の後、何度も死線を潜り抜けてきた仲間さえも忘れていた勇者リュー。誰? と言われた時のショックを剣士タキは忘れられない。
勇者として夫婦で城に招かれた時の仲睦まじい姿はよく覚えている。目の前で他人扱いされるのはさぞ堪えることだろう、愛し合っていたのなら殊更。だから、勇者と会わせることなく城から出されたのにその恩情を考えないことに腹が立つ。
「リュー様は君のことを忘れている。だから君も忘れろ」
「知っています。だから、会わなければいけないのです。たとえリューがマリア様を選んでいても」
まるで勇者リューが女に会えば記憶が戻るとも言いたげな態度にカッとする。
魔王討伐の旅で聖女マリアが勇者リューに惹かれていくのが分かった。妻がいるからと勇者リューは仲間として接していたが。
記憶を無くし聖女マリアの献身の介護を受けて、勇者リューも少しずつ聖女マリアの心に寄り添うようになってきたと聞いている。それを壊してはならない。そう国王からも命じられている。
「会っても思い出すとは限らないんだぞ」
「分かっています。けれど、会わないと、会わない方が後悔します」
女の必死な様子に会わせたい気持ちが無いわけではない。だが、あの辛い旅を耐え、やっと愛する男と結ばれようとしている聖女マリアの幸せを願う方が強かった。それに討伐の間、この女は安全な城で保護されぬくぬくと生活し夫の帰りを待っていたのだ。こちらは魔物に襲われ何度も死にそうになっていたのに。
苦労した者が幸せになって何が悪い?
「この女を出来るだけ遠くへ。殺すことは許さん」
物陰に隠れている男たちに金の入った袋を投げて命令する。
「タキさま! タキさまぁー」
剣士タキは馬に乗り走り去った。女がどうなるか剣士タキには分かっていた。剣士タキは殺すなと一応命じたが従うかどうかは男たち次第だ。それに女のことは王の耳に入っている。すぐに同じ結果となっていただろう。
これでいい、これでいいんだ。
湧き上がる不安を聖女マリアの幸せのためだと誤魔化す。魔王討伐に出発するまでは見ている方が恥ずかしいくらい仲の良い夫婦だった。勇者リューは妻のヒナを本当に本当に大切にしていた。だが、子も運悪く生まれなかったと聞く。だから、これでいい。
悪くない、私は悪くない。
魔王が悪い。勇者になってしまったリューが悪い。妻をヒナを忘れた勇者リューが悪い。
一ヶ月後、剣士タキの元に死後数日経った女の死体が郊外で発見されたと報告があった。殺害された後、獣に食われたようでそれは無惨な死体だったそうだ。損傷が酷く身元が分からないとなっていたが、剣士タキにはそれが女、勇者リューの妻ヒナだと分かった。藍色の髪と残っていた片目がヒナと同じ翠だったから。
剣士タキは深い後悔に襲われたが、庭を聖女マリアに手を引かれて歩く勇者リューの姿にこれで良かったと思うことにした。
魔王討伐から一年後、勇者リューと聖女マリアは大聖堂で華やかな結婚式を挙げた。翌年、二人の間には男の子が生まれ、さらに次の年には女の子が生れた。
聖女マリアは大公の位を授かり、女大公となった。
おかしなことが起こり出したのは、魔王討伐が終わって二年目、勇者リューと聖女マリアの間に男の子が生まれた頃だった。
勇者リューが生まれ育った村が消えた。山あいの地図にも載らない小さな小さな村だった。狭い畑と羊で生計を立てている何処にでもある村。その村で怪異は起こった。一夜にしてほとんどの村人が消え、古い家や納屋等も消えた。残ったのは村に移り住んだ者たちと十七歳に満たない子供たち、建てて十七年も経っていない家や建物。残った者たちも何故他の村人が消えて自分たちが消えなかったのか分からなかった。だが、王都から遠く離れた田舎の出来ごと。この不気味な現象が王都に届くのに数ヶ月の時間がかかった。
村が消えた一年後、勇者リューが暮らしていた港町で同じことが起こった。この町で勇者リューはヒナと出会い、町の神殿で結婚式を挙げていた。人が消え、建物が消えた。人は勇者リューと一緒に働いていた者たち、仲良くしていた者たち等、勇者リューに関係ある者たちだった。建物は勇者リューが住んでいた家に、働いていた場所に、よく行っていた店に、ヒナと結婚式を挙げた神殿に……、これもまた勇者リューに関係ある場所ばかりだった。
港町の出来事の半年後、王都にある大聖堂が黒く染まったと思うと一瞬で霧散し、その荘厳な姿を消した。勇者として目覚めたリューが洗礼を受けた場所であり、聖女マリアと結婚式を挙げた場所でもあった。そして、魔王討伐前に勇者リューに関わった城の者たちが一人ずつ消え始めた。
国王はこの怪異な現象に賢者サーフを呼び出すことに決めた。
暗い謁見の間には、国王と世継の王太子ギルヘイド、王太子妃ミルタ、聖女マリア、剣士タキがいた。空間が歪み、賢者サーフが現れた。
「けんじゃ…」
「国王、お前たちは間違えたようだな」
国王の声を遮り賢者サーフの冷たい声が部屋に響く。その声の冷たさにその場にいた者たちは体を震わせた。
「私は言ったはずだ。勇者に選ばせろ、と」
ビクッと国王と聖女マリアの体が震える。王太子夫妻は訝しげに賢者サーフを見ていた。
「選ばせなかったから、勇者に失われた記憶を与えるため関係した者たちが次々と取り込まれている」
「で、では、この怪異なことは勇者リューのせいだと」
王太子の言葉に賢者サーフは呆れた息を吐くと首を横に振り、違うとはっきり答えた。
「全て、お前たちの責だ。
勇者は魔王との戦いで記憶を無くす。これは決められている。勇者には過去を教えどうするかを選ばせなければいけない。討伐前に大切な者がいたなら、旅で仲間と恋仲になっていてもどちらを選ぶか勇者が決める、と。お前たちは最初からリューに妻などいなかったことにした」
その言葉に目を見開いたのはタキであった。初めて聞いた話だった。それなら、剣士タキがしたことは間違っていたことになる。
「だ、だか、しかし…、酷ではないか、忘れておるのに会わせるのは? それにヒナは自ら出奔して……」
国王が言葉を濁しながら言い訳じみたことを口にしようとするが…。
「違うであろう? 思い出すといけないから、知られるといけないから会わせなかった。己の欲のために」
剣士タキは信じられない目で国王と聖女マリアを見た。二人の言葉を信じてヒナを遠ざけたのに。忘れられたヒナが可哀想だから、と。
「勇者が過去を知ってどちらを選ぶか決めさせる。リューの妻、ヒナにも同じことを言ってあった。帰還後、リューはヒナを選ばないかもしれない、と」
剣士タキは片手で顔を覆い、己の罪の深さにどう償えばいいのか分からなかった。勇者リューに会いたがっていたヒナをどうなるか分かっていて男たちに預けたのは自分だ。
「お前たちは己の欲に溺れた。その結果だ。せめて聖女マリアが本当にリューを愛していたら変わっていたかもしれないが」
「ち、違いますわ。わたくしはリュー様を愛しています」
聖女マリアがそう叫んだが、賢者サーフは冷たく一瞥しただけだった。
「聖女マリア、お前にとって勇者は身に付けるアクセサリーと同じだ。如何に自分を引き立てる存在かが重要であって、それはリューでなくても良かった。勇者に目覚めた者であったなら誰でもな」
「ち、ちがいますわ……」
リューが勇者でなければ愛さなかったと言われても聖女マリアにはどういうことか分からない。リューは勇者として聖女マリアの前に現れたのだから。リュー以外の者が勇者として現れたのなら、聖女としてその者を愛しただろう。勇者は聖女と結ばれるべきなのだから。
「国王、お前もだ。魔王を討ち取った勇者が国にいる。義理の息子となる。自分の地位と名声を高めるために勇者を利用しただけ。そこにいる娘のためでもない」
国王は何も言わず賢者サーフを睨み付けた。その通りだからだ。使えるものを使って何が悪い。
「ところで、ヒナは妊娠していたはずだがどうなった? ………そうか、殺したか………」
「ち、ちがう! あれは事故で…」
国王は慌てて弁明しようとした。人気の無い階段だった。だから誰も落ちたことに気づかず長い時間放置されていた。慌てて手当てしたが、子は流れてしまった。危なかった母親の命だけでも助かったのは幸いだった。その間、魔物の活動が再び活発化し、勇者リューの活躍はほとんど聞かれなかった。何らかの形で勇者とその妻が繋がっているのを思い知らされた。それから魔王を倒すまでは命に繋がるような嫌がらせはないようにさせた。
王太子妃ミルタは真っ青な顔をして震えていた。勇者の妻とはいえ汚い平民の女、ちやほやされるのはお門違いだ。城から追い出すのは出来なくとも底辺の生活は当然だと侍女たちに命じていた。そしてその事故、いや、それを起こさせた。わざと人通りが少ない階段を使うようにさせ、滑り落ちさせた。死んでもいいと思っていた。夫と子を宿した愛妾に思い知らせたかった。魔王討伐に影響が出て思わず焦ったが、その命が助かった時はさすが平民図太いと思った。それからは死なない程度の嫌がらせだけにした。それを誰からも咎められたことはなかった。国王からも夫である王太子ギルヘイドからも。
「勇者は聖女と結ばれるべき…、そんな言葉を聞いてこの城にいる者たちが動かないはずがないだろう? 相手は気に入らない平民だ。こぞって嫌がらせした。それを知っていたのにも関わらず放置したのは罪ではないと?」
国王は知られていることに驚愕した。邪魔であった、勇者の妻は。だが、命じて排除することは出来なかった。魔王討伐が終わるまでは生かしておく必要があった。そう勇者と約束した。魔王が倒されるまで城で預かると。衣食住は与えた。不自由していたかどうかなど関係ない。わざわざ死なないようにしていたのだ、命を狩るほうが楽なのに。
王太子ギルヘイドは妃が何をしていたのか知っていた。自分が可愛がっている愛妾にその牙が向かないよう妃が勇者の妻にしていたことを黙認していた。勇者にバレなければいい。所詮平民だ。王太子ギルヘイドにとって、その存在は、その命はとても軽いものだった。
剣士タキは唇を噛むしか出来なかった。何気ない侍女の言葉でヒナが城で苛められていたことに気づいたのは勇者リューと聖女マリアの婚約が正式に発表された頃だった。
二年に渡る魔王討伐、その間中、ヒナは城の者たちに虐げられていた。日当たりの悪い物置きのような部屋、食事は使用人の残り物ばかりで運ばれない日もあった。服は下女が着古したボロしか与えられず直して着ていたらしい。掃除や洗濯も己でやらなければならなかった。城から出ることは叶わず、子も失ってしまい、夫リューの帰りをただ待つだけの生活。勇者リューの妻としてとても大切に扱われていたのではないのか。守られて安穏とした生活をしていたのではないか。味方のいない城での生活はどれほど辛いものだったのか、それに耐えてひたすら夫の帰りを待っていたヒナ。もう償うことが出来ない罪の重さに剣士タキは押し潰されそうだった。
「直に勇者は思い出す。そして疑問に思うだろう。何故、妻のヒナがいないのか」
国王、王太子夫妻、三人の体が跳ねるように反応する。勇者リューに今までの仕打ちを話されてはだめだと帰還と同時に城から追い出したのは王太子妃ミルタだった。
国王は剣士タキには可哀想だから城から逃がしたと言ってあるが、勇者リューが思い出したならヒナは男と出奔したと、勇者リューを待てず裏切ったと伝える予定だった。
「どう判断するかはリュー次第だ」
「こ、この国は………」
「さあな、次の魔王となる者を育てたのはお前たちだ」
その言葉に国王たちは愕然とする。
「ど、どうしたら……」
「もう遅い」
賢者サーフは何もかももう遅いと言うが国王も聖女マリアも信じたくなかった。
「わ、わたくしはリューに愛されていますわ。子も二人おりますのよ」
「記憶のない者に恋人だと吹き込み洗脳しようとしただけ。リューのヒナに向けた思いと同じだったかと本当に思うのか? それに子とな。本当にリューの子か?」
聖女マリアは目を見開いた。勇者リューは聖女マリアに優しくしてくれる。けれど、壁があるのは感じていた。それは勇者といえど平民のリューと王族であるマリアの生まれの差だと思っていた。
勇者リューが妻ヒナに向ける思いとは…、立場が違うのだから同じであるはずがない。けれど、妻ヒナに向けていた目で見られたことはあるだろうか? あのような熱の籠った目で見られたことは……。
それにあの二人の子供はリューの子だ。聖女マリアがリューの子として産んだのだから。本当の父親が誰だろうが関係ない。
「勇者は直に妻がいたことを思い出す。そして妻が受けた仕打ちを知る。お前たちは最初から試練を受けるのに値しなかった。勇者の呪いを発動させた」
「な、何故、教えなかった」
小刻みに震える国王が絞り出すように呟いた。
「教えただろう。魔王を討伐すると勇者は記憶を失う。帰還した勇者には過去を偽りなく話さなければならない、と。だから、お前たちは預かった勇者の愛する者も大切にしなければならなかった。勇者に過去を教えるつもりがないから、この城でヒナが虐げられていても黙認していた」
賢者サーフは形の良い眉を片方だけ上げて心外だと国王を睨みつけた。
「勇者が記憶を失うのをこれ幸いと画策したのはお前たちであろう? 思い出さねばいいだけだと。思い出しても思い出すまでに良い暮らしを与えておけば大丈夫だとお前たちの価値観を押し付けた」
「王女を与え、大公女の夫という地位を与え、平民には身に余る光栄のはずだ」
国王は吠えた。自分は報酬を与え、勇者を蔑ろにはしていないと。むしろ平民に過剰な報奨を与えてやった、と。
「愚か……、としか言い様がない。勇者が望む幸せがお前たちと同じだと? 旅立つ前、リューは何を望んだ?」
国王は奥歯を噛み締めた。勇者リューが望んだのは妻と静かに暮らす平民らしい平凡な何の価値もない願いだった。
「聖女マリアよ、剣士タキよ、リューはヒナといる時のように幸せそうであったか?」
聖女マリアは当たり前ですわ。と即答したが、剣士タキは俯いた。会うことが出来た勇者リューはいつも何かを探す目をしていた。勇者リューが探していたもの、それは恐らく……。
「わたくしと結婚できたこと自体が幸せではなくて?」
「愚か、としか言い様がない。幸せは人それぞれ。マリアよ、お前が望む世界を強要されたリューが幸せそうか?」
賢者サーフは憐れみの籠った目で聖女マリアを見た。
聖女マリアは認めたくなかった。何不自由ない生活に不満などあるはずないのに吐かれるため息、遠くを見る視線、ふとした瞬間に諦めたように落ちる肩、幸せであるはずなのに。
「陛下! 勇者様がご乱心されました!」
崩壊が始まった。
お読みいただきありがとうございます。
誤字脱字報告、ありがとうございます。
11月3日から連載版始めました。
https://ncode.syosetu.com/n4181hh/
です。
人間界は魔力のないエルフには毒でしかない。気掛かりはあるが自らの消滅と引き換えに出来なかった。
上記の文ですが、『人間界は』の部分を『魔力のない』の後ろにと助言をいただきました。(下文)
魔力のない『人間界は』エルフには毒でしかない。気掛かりはあるが自らの消滅と引き換えに出来なかった。
ありがとうございます。