はじめに
フクロウさんと過ごした二年間のことを今でも時折思い出す。目を閉じれば、フクロウというあだ名にふさわしい、まるでくちばしのようなワシ鼻の印象的な彼の横顔が瞼に浮かんでくる。彼は決して善人ではなかったし、有り体に言えば『ろくでなし』だった。でも今でも僕の最も尊敬する人であることに変わりはない。
僕がフクロウさんに初めて会ったのは、大学3回生を間近に控えた3月のことだった。フクロウさんというのは僕がつけたあだ名で、「心理学者なんてのはね、ミネルヴァの使いのフクロウみたいなものだよ」という本人の言葉にちなんでいる。ギリシア神話の女神、知恵の神ミネルヴァのフクロウは夕方を飛ぶ、という言葉になぞらえた皮肉であるとこのことだったが、正直今でもよく意味は分かっていない。とくにかくフクロウが好きなんだろうと思って、僕は彼をフクロウさんと呼ぶ。
フクロウさんと出会った頃、僕の家は大変な状況だった。父と母が離婚し、父親は地方に異動、母は僕と一緒に暮らすことを拒否した。そのときはふざけるなと思ったものだが、今考えれば、当然だったろうと思う。友達もろくにいない、大学にもほとんど行かず家に引きこもってばかりの、コミュニケーションすらままならない息子など、僕だって一緒に住みたくはない。両親の不仲の原因は僕のせいだと言っても良かった。
ともあれ、当時の僕は、大学を中退して、父と一緒に地方に行くか、東京で一人暮らしをするか、そんな二者択一に迫られていた。一人暮らしをするのであれば、少ないながら仕送りをすると父は言っていた。まあそれも、体のいい厄介払いだったのだろうが、僕はそれに飛びついた。
仕送りがあるとは言っても一人で部屋を借りるには心許ない程度である。そこで僕はルームシェアをすることにした。大勢の人間と一緒に、というのは流石に僕には厳しいので、二人一組で住むことが条件の物件を探した。ネットで、ルームシェアで同室になった異性と恋愛関係になったという記事を読んだことが原因ではない、とは言わない。いやむしろ、それが目的だった。普通に考えれば、ルームシェアで好き好んで男と二人で住みたいと希望する女性がいるはずもないのだが、当時の僕はそんな当たり前のことすら想像することができていなかった。
当然のごとく、見つかったルームシェアの相手は男性で、そのルームシェアの相手として不動産屋から紹介されたのが、フクロウさんだった。
聞くところによると、翌々年の3月で大学院の博士課程を修了予定の人だそうで、大学院では心理学を専攻していたらしい。
第一印象は最悪だった。まあ、初対面の男性に僕が抱く印象がよかったことなんて一度もないけど、フクロウさんは特に最悪だった。いけ好かない奴。そう思った。
大抵、僕と初めて会った人間はその表情が歪む。太った、頭頂部の禿げた、陰気なブサイク。そんな嫌悪感を丸出しにした表情で引きつった笑顔を浮かべる。でもフクロウさんは違った。表情はまるで変わらず、淡々と自分の生活リズムやルームシェアをする際に決めておくべきルールなどを説明して来た。僕の存在など無視するみたいな、いわゆる意識の高いと言われるような連中と同じ態度だと思った。
何より一番腹がったのは、ルームシェアに関しての彼の一言だ。
「僕は普段あまり家に帰らないだろうから、リビングは好きに使ってくれていいよ。僕は自分の部屋に寝に帰るくらいだろうからね。でも、もし君が了解してくれるなら、時々、女性を部屋に入れるかもしれない。構わないかい?」
フクロウさんはいわゆるイケメンだった。背も180を超えているそうだから僕からすれば見上げるほどに高い。おまけに国立大学の大学院を卒業しており、頭もいい。神様は不公平だ。僕が通う大学は、Fランクとネットでも評判で、さらに僕はそこのおちこぼれだ。顔も醜い。鏡を見るのは大嫌いだ。おまけに太っているし、大学に入ってから、急に髪の毛も少なくなってしまった。髪型だけでもとセットしてみても、地肌が髪の隙間からちらほら見えるほどに。
神が居るなら、なんでこんな格差をつけるんだろう。
いや分かってはいるのだ。僕の顔は母親にそっくりだし、父親は僕以上のデブでバーコードハゲだ。単なる遺伝で、僕が貧乏くじを引いただけ。ゲームの難易度で言えば、僕の人生はハードモード、いやインフェルノだ。
なのに、僕が何一つ持っていないものを、彼は全て持っている。
おまけに、女を連れ込んでいいか、だって?
僕は心の中で初対面の彼の首を思いっきり締め付けながらこう言った。
「……あ、はい……。全然、大丈夫……、す」
俯いて答える僕の顔を覗き込みながら、フクロウさんはにっこりと笑って、
「ありがとう。まあ、なるべくは女性の家に行くようにするけどね。まあ一人暮らしじゃない子もいるから」
と言った。
ーーそれが僕とフクロウさんとの出会い。
はっきり言って最悪の出会いだった。
一人暮らしのほうがよかった、と心から思った。
そこからの1、2ヶ月は輪をかけて酷かった。彼は1〜2週に1回ほど、女性を家に連れ込むのだが、毎度その女性が違う。しかも壁が薄いから、あのときの女性の声が聞こえてくるのだ。
その声を聞いて何かしたかって? もちろんしたさ。
そしてアダルトビデオを見るよりも虚しい気持ちになった。
壁を一枚隔てた向こうには何もかもを手に入れた人間がいて、自分には何もない。ルームシェアに伴って始めたコンビニのアルバイトでだって、同僚の誰からも話しかけられることもない。影で豚幽霊と呼ばれて居ることも知っている。
その頃の僕は、毎日、死ぬことばかりを考えていた。
生きていたって、この先何一ついいことなんて起きないだろう。この地獄が続くだけなんだろうから。
そんな日々がまるっきり変わってしまったのは、GW真っ只中の、ある深夜のことだった。フクロウさんが珍しく、女性を連れずに酔っ払って帰ってきたときのことだ(彼は週の半分は家におらず、女性の家に泊まっていた)。
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その日、アルバイトが終わって家に帰ると、マンションの前でばったりフクロウさんに会った。その日は珍しく、フクロウも女性を連れていなかった。
職場の歓迎会に出ていたらしく、「しこたま飲まされたよ」と言う彼の足取りはおぼつかなかった。
家に帰り、部屋着に着替えてリビングへ行くと、フクロウさんは500mlのビール缶を右手にチーズかまぼこをかじっていた。かなり深酒をしたのか、顔が赤い。
まだ飲むのかよ、荷物を自室に収納しながらフクロウさんを横目に見ていると、
「君も一緒にどうだい?」
声を掛けられた。
空になったらしいビール缶をちゃぽちゃぽと振りながらフクロウさんはチーカマを咥える。
「いや……、大丈夫、す」
「たまにはいいじゃないか。酔いが回ってたせいか、さっきコンビニでお酒を沢山買ってきてしまったんだ。一人で飲んだら、二日酔いで大変なことになってしまうよ」
「はあ……」
押し切られる形で、僕はフクロウさんが買ってきたらしい缶ビールを冷蔵庫から取り出した。フクロウさんはもっぱらビールしか飲まないらしく、冷蔵庫の中はいつも彼が買いだめている銀色のビール缶で埋め尽くされていた。
向こうから誘ってきたというのに、フクロウさんは自分から特に何かを話す訳でもなく、黙々とチーカマとビールを交互に口に運んでいる。それからしばらくの間は、二人とも押し黙ったままつまみを頬張り、ビールで流し込んでいた。室内には、テレビのニュースキャスターが楽しそうに郷土料理をレポートする音だけが流れていて、とてつもなく気まずい。
「今日は……、恋人の方は、いないん、すね」
無理矢理誘われて飲んでいるのに、なんで僕が気を使わないといけないんだと思いながらも、沈黙に耐えきれなくなって、僕はそう言った。「恋人?」不思議そうな表情で呟いた後、フクロウさんはふっと笑みを漏らした。
「そうだね。今日は歓迎会で酔ってしまったからね。さすがにこれだけ酔ってしまうと女性にも迷惑だろうからね」
「……そうすか」
「いつも迷惑をかけてしまっているかな?」
「いや……大丈夫、す……」
そう、とフクロウさんは言ってまたビールを飲み始めた。
再びの沈黙。
テレビではニュースキャスターが総理大臣の失言について言及している。
「あの……!」
「なに?」
「前から聞きたかった……ん、すけど……」いくらかでも体内にアルコールを入れたせいか、それとも日頃からの疑問が積もり積もったのか。僕はビール缶を持った両手を震わせながら、そう言った。きっととんでもなく上ずった声だったろうと思う。「やっぱり、フクロウさん(このときはまだあだ名では呼んでいなかったが、プライバシーもあるので了解されたい)は、女性と付き合う時に心理学のテクニックなんかを使うんですか?」
「急に君も答えにくいことを聞くね」
「あ……、いや、すごくモテるみたいなので……、そういうのがあるのかなって思って」
しばらく顎に手を当てて何かを考え込むような素振りをした後、
「まあ、そりゃあね。僕は心理学者だし、紙の上や実験の結果でもたらされた理論が現実世界で使えるかどうかを試したことがないかと言われれば、ないとは言えないよね」フクロウさんはニッコリと笑いながらそう言った。
「じゃあ……、やっぱりそういうのを使って?」
「まあ、有効活用はするよね」
思わず僕は生唾を飲み込んだ。
「じゃ……、じゃあ! 僕でもそれを使えば彼女が作れますか!?」
僕の言葉にフクロウさんは一瞬きょとんとした顔をした後、「ぷっ」とビールを盛大に吹き出して破顔した。
やっぱりか、と僕は思った。
ネット掲示板にもそういった情報が上がることが稀にあるし、僕自身これまでにいくつかネットでそういったテクニックは調べたことがある。なんなら本も二冊ほど買ったことがあるくらいだ。でも、そこに書いてあったのは僕にとってはこの世界でドラゴンを倒すのと同じくらいファンタジーな話だった。
現実にドラゴンがいないのと同様に、服を買いに行く服がない人種の僕にとっては、そもそもそういったテクニックを使う相手がいない。
一度だけ、ネット掲示板に『チビでデブでハゲで、ニートで頭も良くない僕でも彼女ができますか』と書き込んだことがある。他の人から見れば冗談に見えたかもしれないし、僕だって本気でどうにかできるかもと期待していたわけじゃない。いくつもの僕の書き込みを馬鹿にするメッセージの中で一際僕の心を傷つけたのが、『物事には限度がある。分を弁えてください』だった。ちなみに、弁えるを、わきまえる、と読むのを知らなかった僕は、ネットで読み方を検索したのち、意味を理解して自宅の障子に拳で穴を開けた。
俯いてクツクツと笑いを押し殺しているフクロウさんを見て、僕は急激に気持ちが落ち込んでいった。
「やっぱり、そうですよね。僕みたいなのだと……、いくら心理学のテクニックを使っても……」
「できるよ」
「え?」
「別に普通に可能だけど?」
「いや、僕ですよ? フクロウさんではなく」
僕の言葉にフクロウさんは不思議そうな表情を浮かべて首をかしげた。
「君が心理学のテクニックを使えば、彼女を作ることができるかという質問だよね?」
「そうです」
「だから、それに対して可能であると答えているよ」
「まじですか……」
今度は僕が呆気に取られる番だった。
「ああでも、答えが正確ではないな。100%ではない。確実ではないけれど、
そうだなあまあ9割以上は、出来るだろうね」
「9割以上って……、ほぼ確実じゃないですか」
「9割と確実は全く違うものだけど、まあいいか。ともかく出来るよ」
そういうフクロウさんの目からは何の感情も読み取れなかった。僕を説得しようとしているわけでも、自分の能力を誇示しようとしているわけでもない。単に出来ることを出来ると言っているだけ、その表情は僕にそう思わせるだけの真実味を帯びていた。
「え、じゃあ教えてください」
「なんで?」
「なんで、て……。出来るんですよね?」
「うん、出来るよ」
「じゃあ、教えてくれてもいいじゃないですか」
「君が通っている大学だって心理学の授業はあるだろう。その先生に教えてもらえばいいじゃないか」
「いや、そんなの全然無理ですって」心理学は大学一回生の時に一般教養科目の一つで受講した。担当の教員はかなりの老齢で、心理学と哲学の違いやらなんやらを話していたが、とても女性の口説き方なんて教えそうには見えなかった(そもそも授業を2、3回しか出ていないから後のことはわからないがきっとそうだろうと思う)。「フクロウさんに教えてもらいたいんすよ」
「だから、なんで?」
「だって、9割彼女出来るんですよね?」
「そうだね」
「だからです」
「いや、だからそこじゃない。僕は某大学で授業をしているけれどね、そこでは学生はみんな授業料を払って知識を受け取っているんだ。僕も給与をもらっているから知識を教えている」
「金を払えってことですか?」
「金でも構わないし、その他の何かしら僕にメリットのあることでも構わないよ。どんなメリットを君が用意できるのかわからないので、なぜ教えなければならないのか、と聞いているんだよ」
「別に減るもんじゃないし、いいじゃないすか」守銭奴め。僕はうつむきながら吐き捨てるように言った。
「減るかどうかで言えば、君に割く時間、労力、色々減るがね」
「簡単なのでいいんで……」
「心理学的テクニックを一個や二個教えてどうにかなるなら、それは心理学じゃあなくて、魔法だよ。君も自分で分かっているように、今の君が彼女を作ることは極めて難しい。そんな君を女性が好きになるようにすることは可能だけれど、そのためには複数のテクニックを自在に使えるように教授し、訓練する必要がある。それを施す労力を僕が君に割く理由がどこにあるのかな?」
でも……、そう言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
フクロウさんの言っていることは正しい。そこに色々文句をつけられるかも知れないし、交換条件を引き出すことも出来るかもしれない。でも結局それらはこの言葉に帰着するのだ。
……あんたは何だって持ってるじゃないか。なのに、なぜ少しだって分けてくれないんだ?
それは何も持っていない僕の醜い嫉妬に他ならない。
僕は惨めだ。何も持たず、容姿も醜く、誰からも嫌われる。それらは全て自分のせいだ。それも結局は、他の誰でもない、僕自身が分かっている。分かっていてずっと見ないふりをしている。いつか、誰かが、何かが、僕を救ってくれる、そんな妄想に逃げ込んでいる。
フクロウさんの言っていることは正論だ。彼は僕の親でもなければ、教師でもない。彼には僕を救う義務なんて一つもない。その正論に、無茶苦茶な論理を突き立てても、最終的に救われるのは僕ではないのだ。
そんなことを考えているとふと目頭が熱くなった。
ぽろり、と一筋涙が頬を伝う感触で、感情が堰を切ったように溢れ出す。涙はこらえようもなく溢れ、言葉にならない嗚咽が喉の奥から漏れる。
「僕……、こ、このままじゃ……、嫌、なんです。このまま、じゃ……、さみしくて……、死にたくなって」
子供のように泣きじゃくる僕を、フクロウさんは何も言わずにじっと見ていた。
「君は今、大学3回生だっけ?」
「え……、はい……」
フクロウさんは小さくため息を吐いた後、もう温くなってしまったであろう缶ビールを一気に飲み干した。
「君が彼女を作れるように心理学のテクニックを教えてもいいけど、条件がある」
「え?」
「まず第一に期限。来年度の末、つまり再来年の3月まで。そこまでで君がものになっていようがいまいが、後は一切関知しない。不動産屋からも聞いているだろうけど、僕はそのときにはここから出て行くからね」
「あ、はい……」
涙をぬぐいながら僕は答えた。
フクロウさんは今、某大学で特任講師というのをしているらしく、その契約期限が再来年の3月までだそうで、その後は別の大学へ就職するつもりだとのことだった。僕もその時期はちょうど卒業となるため、ちょうどいいとのことで彼とのルームシェアが実現したのだ。
「第二に、毎日日記をつけてもらう。そしてそれを最後にまとめてもらう。これは将来出版するかもしれないし、そうでなくても授業で資料として使う場合がある。この時の、このレポートの権利は僕のものとする」
「がめついっすね」
「さっきまで泣きじゃくってた割に毒舌だね」
「すいません。大丈夫です」
フクロウさんはにこりと笑った。
そう、これを読んでいるあなたが誰かは知らないが、この時交わした約束を元に作られたのが、このレポートだ。
あなたはフクロウさんの学生だろうか。それともフクロウさんのことを知らないどこかの誰かだろうか。僕には分からないけれど、僕が会うこともないあなたのことを考えると、少し、楽しい気分になる。そしてあなたがあの頃の僕と同じように何かを抱えて人生に絶望しているのなら、このレポートを最後まで読んで少しでも救われてくれると嬉しい。
これは、まるでモテなかった冴えない僕が、フクロウさんに出会ってリア充になるまでの、10の心理学の法則に関するレポートだ。