悪役令嬢の笑顔を歪ませたい大貴族の嫡男の話
ソルド王国で最も格式高い教育機関として有名な、王国立ソルドレイユ学院。そこには数多くの名門貴族の嫡男、令嬢が在学している。
そんなソルドレイユ学院には、とある有名な男子生徒がいる。
彼の名前はリューゼン・クロウス。ソルド王国の三大貴族の筆頭、クロウス家の嫡男である。
彼はいつも独りで、教室の窓際にある自分の席に座っている。その姿はまるで、絵画から切り取ったかのようである。
しかしそれは、顔立ちが整っているとか、そういう理由ではない。眉一つ動かないその顔が作り物のように無機質で、人間味をまるで感じさせないからだ。
クロウス家の嫡男というだけで、何をせずともクラスの中心になれる。事実、リューゼンが入学した当初、彼に気に入られようとした同級生たちが周りに集まってきた。
そうなっていないのは、他でもない彼自身が「一人にしてくれ」と言い放ったからだ。
凪のように静かな言葉だったが、全員が従った。
それもそのはず。彼の機嫌を下手に損ねてしまえば、ソルドレイユ学院にいられなくなる。クロウス家の嫡男という立場だけで、それほどの権力があるのだ。
結果、リューゼンに関わろうとする者は誰もいなくなった。リスクとリターンを天秤にかけたら、リスクの方に傾いた。それだけの話なのだろう。
そのことについて、リューゼンは気にしなかった。自らその状況を望んだのだから、当然のことであるのだが。
彼はいつもどおり自分の席に座り、時間が流れるのを静かに待つ。
しかし、教室の方はいつもどおりではなかった。触れば破裂してしまう、そんな緊張感が漂っている。
一人の少女と、何人もの取り巻きを引き連れた少女の対立が、それをもたらしていた。
「いい加減お気づきになってはいかが? あなたのような平民の生まれの女が近くにいては、ウェイド様に迷惑がかかってしまいます。早く身を引くことを提案しますわ」
取り巻きを率いるリーダー格の少女が、嫌味ったらしく言い放つ。
彼女の名はカタリナ・リンネバーグ。
クロウス家ほどではないにせよ、リンネバーグ家はかなりの力を持った貴族である。
彼女はリンネバーグ家の令嬢として見合うだけの美貌、そして能力を兼ね備えている。それを自覚してるが故に、プライドも高い。
「別れるかどうかは、私とウェイドさんが決めることです。カタリナさんじゃありません」
そして、毅然とした口調でカタリナに言い返す少女の名は、ニーア・ガードナー。
彼女もある意味、リューゼンと並んで有名な生徒である。史上唯一、平民出身でありながらソルドレイユ学院に通っているのだから。
実はニーアは、さきほどから2人の会話に現れる男と── ウェイドと交際している。
彼もまた、ソルドレイユ学院の男子生徒であり、グレイヴス家という貴族の跡取りである。明らかに会話の中心人物である彼がこの場にいないのは、違うクラスだからだ。
貴族と平民という身分の差を感じさせないほど二人の仲は良好だが、そういった愛には障害が付きものだ。ウェイドの両親が、平民との交際に猛反対しているのだ。貴族と平民、その身分の違いを考えれば当然である。
しかし、ある条件を達成すれば、ウェイドの両親は交際どころか結婚さえも認めてくれるという。
その条件とは、ソルドレイユ学院を卒業すること。卒業さえできれば、平民であろうと箔がつく。
だから彼女は、たった一人の平民であろうと、ソレドレイユ学院に通っているのだ。
「2人だけの問題だなんて悲しいことは言わないでくださいまし。私たちは同じ学院で学ぶ仲間なのですよ。あなたが酷い嫌がらせを受けていれば、心配するのは当然ですわ」
カタリナの言うとおり、ニーアは嫌がらせを受けている。平民出身でありながら、ソルドレイユ学院にいるのを許されているせいか。平民出身でありながら、ウェイドと恋仲でいるせいか。思い当たる節はいくらでもある。
だが、リューゼンは無数の理由の中に隠された、たった1つの真実を知っている。
ニーアに対する嫌がらせを主導しているのは、実のところカタリナなのだ。
カタリナはウェイドに恋をしている。問題なのは、ウェイドがニーアと付き合っていようと、その恋を微塵も諦めていないことだ。
2人を破局まで追い詰め、心が弱っている状態を狙ってウェイドを手に入れる。それがカタリナの思い描いた計画の全貌だ。
何故そんなことを知ってるかというと、カタリナの取り巻きの一人から聞き出したからだ。リューゼンは常にカタリナの動向に気を配っていたので、尻尾を掴むのは簡単だった。
取り巻きの一人は、リューゼンに何度も視線を向けている。リューゼンが何かするつもりではないかと、不安に思っているのだろう。
残念ながら、その不安は現実のものになる。
リューゼンは席から立ち上がり、騒ぎの渦中へと足を進める。
立ちはだかろうとする者は当然誰もおらず、彼はカタリナの目の前まで悠然と足を運ぶ。
「な、何か御用かしら?」
カタリナは驚愕と動揺で目を見開いた。
まさか、あのリューゼンがこうして関わってくるなんて。いつものように、遠い世界の出来事と言わんばかりに無関心を貫くと思っていたのに。
「……」
リユーゼンの目に迷いはない。既に決断を済ませ、どんな結果になろうと受け容れる覚悟を決めている。
その尋常ではない雰囲気を前にして、カタリナだけでなく、教室にいる誰もが圧倒される。
彼が何を考え、何を言うつもりなのだろうか。
現状、その答えを唯一知っているリューゼンは、遂にその重い口を開く。
「カタリナさん、あなたのことがずっと前から好きでした。俺と付き合ってください」
まるで世界そのものが凍ったかのように、教室に静寂に支配された。誰もが、予想外の言葉に思考を凍らされたのだ。
カタリナとリューゼンとの接点は皆無に等しい。会話すらしたこともない。
そもそもの話、リューゼンと接点のある人物がこの学校に何人いるのだろうか。それほどまでに、彼は誰とも関わろうとしてこなかったのだ。
普通、このタイミングで割って入るのは、一方的に責められているニーアを助けるためだ。リューゼンの言葉を聞くまでは、誰もがそうだと思っていた。
いざ蓋を開けたら、そこにあったのはカタリナへの愛の告白という爆弾である。
そう、爆弾だ。謀略も、執念も、何もかもを吹き飛ばして、最後に混沌を生み出す。これを爆弾と例えずして、何に例えればいいのか。
「……………あぇ?」
カタリナの口から、言葉になっていない小さな声が漏れ出る。
愛する男を奪ってやるという執念を支えに、卑怯な手口を使う自分を耐え忍んできた。そうまでしてやってきたことが、突然現れた第三者によって一瞬で水泡と帰した。
しかもそこに、半ば不可侵の聖域と化していた同級生に、何の脈絡もなく告白されという要素も加わる。
その衝撃と困惑が、言葉にならない声からまじまじと伝わってくる。
嫌ではない、嫌ではないのだ。どうして自分がという困惑があるだけで。
(その顔が見たかったんじゃああああああ!!)
その声を最も近くで聞くリューゼンは、神妙な面持ちを保ちつつ、内心では最高潮と言っていいほど興奮していた。
カタリナに初めて出会ったときから、ずっとこの瞬間を待ち望んでいた。
勝ち誇ったカタリナの表情を歪ませたかった。自信に満ち溢れたカタリナを、混乱という底なし沼へと一気に沈めたかったのだ。
リューゼンの胸に秘めているのは、間違いなくカタリナへの愛である。愛は愛でも、極めて捻くれている愛だが。
「えっ、えっと………… その……」
カタリナが想いを寄せているのはウェイドだ。リューゼンに告白されようと、それは変わらない。
しかし、ここで断ってしまえば?
断って、リューゼンに恥をかかせてしまえば?
間違いなくソルドレイユ学院にいられなくなる。それどころか、リンネバーグ家の未来すら危うい。断るという選択肢は最初から絶たれている。
「………………よ、喜んでお受けしますわ」
カタリナの浮かべた笑顔は、誰がどう見ても無理に取り繕ったものだ。
しかし、だからこそリューゼンから満足できるのであった。カタリナが心の奥底から喜んでいないのは最初から承知の上であるし、むしろそうでなければいけないのだ。
†
かつてのリューゼンは、その外見から感じる印象に違わず、空虚な性格であった。
クロウス家の嫡男に生まれて、不満もなければ、驕りもない。幼い頃からずっとそうだった。まあ、普通よりは楽な人生を歩めるんじゃないかと、その程度にしか思えなかった。
彼は将来について少しも不安もないが、その代わり希望もない。為すがままに生き、為すがままに死んでいく。それがリューゼンの、人生に対する姿勢であった。
そんな彼が人生の転機を迎えたのは、ソルドレイユ学院での自己紹介のときであった。
「リューゼン・クロウスです」
それだけ言い残して、さっさと席に戻る。
あまりにも短い自己紹介で、周囲から困惑の声が聞こえてくるが、知ったことではなかったし、特に咎められることもなかった。
次々と耳に届くクラスメイトの自己紹介を、右から左へと聞き流す。自分自身にさえ興味がない男が、他人に興味を持てるはずもない。自嘲ではなく、他人事のようにそう思ってきた。
しかし、違ったのだ。興味を惹かれるどころではない。彼は、とある女性に心を奪われた。
「皆様、初めまして。私の名はカタリナ・リンネバーグ。ご存知の方も多いと思いますけれど、リンネバーグ家の長女ですわ。これからどうぞ、よろしくお願いしますわ」
そう、その人物とはカタリナであった。
(……カタリナ。カタリナ・リンネバーグさん)
頭の中で、何度も何度も彼女の名前を反芻した。
彼女の自己紹介は堂々としたものだった。凛としたその姿は、素直に美しいと思った。
それと同時に、とてつもなく膨大な衝動が心の奥底から湧き上がった。自信に満ち溢れたカタリナの表情を、歪ませてやりたいという衝動だ。
ただし、それは暴力的な手段や、下卑た手段などではなく…… そう、もっと上品な手段でなくてはいけない。上手く言葉では表せないけれど、確かな線引きがリューゼンの心にあった。
それは、人生で初めて「熱」を感じた瞬間だった。
とても心地良い感覚だった。世界がいつもより色鮮やかに見えたのは、きっと気のせいではない。
この感覚を味わってしまった今、手放すなんて考えられない。あの薄っぺらな人生に戻るのは、絶対に嫌だった。
この熱を心に宿したまま生きていくことを、カタリナの笑顔を歪ませるために生きることを、リューゼンは決意した。
その熱は恋、あるいは愛と呼べるものだと自覚するのに、そう時間はかからなかった。
†
ソルドレイユ学院の近くにはカフェがある。上品な雰囲気を感じさせる内装で、贅沢に慣れているソルドレイユ学院の生徒たちにも、憩いの場として受け入れられている。
そんなカフェの最奥のテーブル席にリューゼンは座り、向かいの席にはアビーという名前の少女が座っている。アビーはカタリナの取巻きの一人で、カタリナの計画を余すところなく白状した
リューゼンは優雅に紅茶を啜り、対照的にアビーは居心地の悪そうな顔をしている。
アビーの心にあるのは、カタリナを裏切ってしまったという罪悪感だった。友人の魂を悪魔にでも売り渡しているような気分が、どうにも拭えないのだ。
カタリナとの関係は友と表すより、群れのリーダーという形容する方が的を射ている気がするが。
「──以上が、カタリナさんに告白した理由だ。それにしても、あの日のカタリナさんの顔は想像よりずっと胸がキュンキュンした。思い出すだけでもご飯3杯はいけるな」
(何言ってんだこいつ)
子供のように屈託のない笑顔を浮かべているが、その裏側に隠れているのは、屈託まみれになった愛だ。その発言内容だって、どう考えても変態のそれだ。ドン引きだ。闇が深過ぎる。
ついさっきの会話で、アビーはリューゼンの本性を知らされた。協力者を得ようとしたリューゼンが、彼女をカフェに呼び出し、自らの本性を暴露したのだ。
リューゼンの本性を── いや、性癖を告げられたとき、彼女は幻聴かと思った。それか、白昼夢の中にいるのかと。
だってそうだろう。あのクロウス家の嫡男で、常に浮世離れした雰囲気を醸し出している彼が、カタリナを困らせることで興奮するという性癖を持っているなんて。
カタリナの計画を聞き出し、その後も胸の内にある欲望を満たす協力をしてもらう。数いる取巻きの中から、アビーがその対象に選ばれたのは、最初に目が合ったから。それだけである。運が悪かったとしか言いようがない。
「それでアビーさん、カタリナさんの様子はどうだった?」
「ショック…… とはちょっと違いますかね。情報の処理が追いつかなくて、心ここに在らずって感じでしたよ。当然ですよね。あれだけ身分の離れた恋愛を否定していたのに、気づいたら自分がする側になっていたんですもの」
「そうかそうか、それは大変そうだな」
言葉と表情が完全に一致していないが、敢えて触れないでおいた。逐一指摘していたら、それこそ永遠に話が進まない。
「……あの、どうして私を呼んだんです? これ以上リューゼンさんの歪んだ愛に巻き込まないでほしいんですけど」
「おいおい、酷い言われ様だな」
リューゼンは心外そうだが、これまでの言動、行動を鑑みれば、歪んだ愛と言われても仕方ない。
つい少し前までは、口が裂けてもリューゼンにそんな言葉は吐かなかった。
だが、ギャップというやつなのだろう。
浮世離れした雰囲気のリューゼンはその実、俗っぽいを通り越して変態染みた感情をカタリナに抱いていると知って、彼の存在を一気に身近に感じるようになった。
「アビーさんをここに呼んだのは、聞きたいことがあるからなんだ」
リューゼンは屈託のない笑顔を浮かべたままだが、それが返って不気味である。
彼は何を聞くつもりなのだろうか。得体の知れなさに恐怖を感じ、無意識のうちに息を飲む。
「カタリナさんの嫌いな食べ物、知ってる?」
質問自体は至って普通だ。好きな人の食べ物の好みを把握するのは、何も不自然ではない。
しかし、この男の場合だと意味が違ってくる。わざわざ嫌いな食べ物と指定してくる辺り、その歪んだ愛情が見え隠れしている。
だが、教えないという選択肢は最初から存在しない。どれだけ変態でも、リューゼンはクロウス家の嫡男なのだ。力の差が歴然過ぎる。
(……ごめんなさい、カタリナさん)
カタリナに降りかかるであろう苦難に想いを馳せた後、心の中で彼女に謝った。せめてもの罪滅ぼしに、そうするしかなかった。
†
ソレドレイユ学院では、リューゼンとカタリナが交際を始めたという話題で持ち切りだった。
今や話題の人物となっているカタリナは、呆然と席に座っている。
こうして暇な時間になると、リューゼンに告白された瞬間の情景ばかりが脳裏に蘇る。そのときの自分の心情も、リューゼンの真剣な眼差しも、周囲のどよめきも、ついさっき経験したかのように、鮮明と思い出せる。
この話題は、既に学院の外まで知れ渡っている。
どんな経緯で聞いたのか、両親も教えるまでもなく知っていた。家に帰るなり、嬉し泣きしながらカタリナを出迎えた。
結婚するまで、何としてでも彼と別れるな。今までにない強い口調で、そう言われた。
クロウス家の嫡男と結婚できれば、リンネバーグ家のさらなる繁栄は約束されるのだ。気の早い話ではあるが、期待をするのも当然である。
とてもではないが、他に好きな男がいると言えるような雰囲気ではなかった。
何よりも厄介なのは、カタリナ自身、これが千載一遇のチャンスであり、絶対に不意にしてはならないと理解していることだ。家の繁栄など考えず、自分のことしか考えない愚か者でいられたら、どれだけ楽でいられただろうか。
嫉妬の視線を感じることも多くなった。リンネバーグ家は確かに上級貴族だが、クロウス家の格はその比ではない。
どうしてあんな女が、リューゼンに選ばれたのか。きっと、誰もがそう思っただろう。
奇しくも今、ニーアと同じ境遇に陥っている。
そんな状況で、ニーアに嫌がらせを仕向ける余裕なんてない。今後の身の振り方を考えるので手一杯だ。
大きく変化していく状況とは裏腹に、リューゼンはいつもどおりだった。
何も話さないし、何をしてくるでもない。授業が全て終わったら、すぐに家へ帰ってしまう。まるで、告白した事実なんて最初からなかったように。
あれは夢か幻だったのではないだろうか。日を重ねるに連れて、そう疑ってしまう。
「カタリナさん」
そんなことばかり考えているせいか、声をかけられるまで、すぐ後ろに人がいると気づけなかった。
滅多に聞くことのない声だけれど、それはカタリナの記憶に深く焼き付いている。それこそ、もう二度と忘れられないくらいには。
「リューゼンさん……!」
振り返ってみれば、そこにいるのはやはりリューゼンだった。
頭の中が真っ白になる。話しかけてきた理由を考えることすら、ままならない。
「一緒に食事でもと思ったんだけど、空いてる日を教えてくれないか?」
それは、デートの誘いであった。
リューゼンとの交際は、紛れもなく現実のことであるのだと思い知らされるのであった。
†
カタリナは今、ソルド王国でも名所の1つとして知られている噴水広場にいる。
建物の屋根まで届くほど高く上がる水の柱は、気候や時間にもよるが、美しい七色の虹を生み出す。
人工物と自然が見事に調和したその景色は、この街で最も美しい場所と称されている。
噴水広場は、恋人たちの待ち合わせ場所として親しまれている。リューゼンはこの場所を、デートの待ち合わせ場所に指定した。
そう、今日はデートの日なのだ。
幸運なことに、噴水広場の上空には虹がかかっている。それがこのデートの幸先を表しているかは、まったくもって不明だが。
リューゼンが来るのをひたすら待つ。
誤解のないように言っておくと、リューゼンが約束の時刻に遅れているのではなく、万が一にもリューゼンを待たせないよう、約束の時刻よりもかなり早く来ているのだ。
カタリナが着ている、青を基調としたドレス。その艶やかな青色は、舞い上がる飛沫の色の中に溶け込んでしまいそうである。
このドレスは、今日という日のため両親に買ってもらった。リンネバーグ家の財力をもってしても、おいそれと買える値段ではない。
カタリナ個人というより、リンネバーグ家がこのデートに全身全霊をかけて臨んでいる。
ふと、雪崩のような馬の足音が聞こえてきた。
一台の馬車が噴水広場の前で止まる。大型かつ洗練されたフォルムの馬車で、それを牽引する馬の頭数も並外れて多い。まるで戦車のような迫力だ。
こんな馬車に乗れるような人間は限られている。だからこそ、誰なのか自然と見当がついた。
「早いじゃないか、カタリナさん。待たせてしまって申し訳ないな」
やはり、馬車の扉の向こうから聞こえたのはリューゼンの声だった。
「いえ、私もたった今到着したところですの。気にしないでくださいまし」
「そうか、それは良かった」
馬車の扉が開いた瞬間、カタリナは愕然とした。
いや、カタリナだけでなく、偶然周りに居合わせた人々もそうだった。
「っっっ……!!??」
喉から出かかった声をどうにか抑える。
リューゼンの服装に特大の問題があった。
黒を基調とした外套だが、至る部分に髑髏を模したアクセサリーや鎖が施され、両肩には謎の突起が生えている。御伽噺に出てくる魔王が着ていそうだ。
強面な男がその服装に身を包んでいれば、まだ様になるのだろう。
しかし、リューゼンの顔つきは強面から程遠い。今にも壊れてしまいそうな繊細さを感じさせる、そんな顔つきである。
率直に言ってしまえば、壊滅的に似合っていない。首から上だけを切り貼りしたみたいだ。アンバランスを通り越して、その姿は最早異様である。
「とても似合ってるよ、その服。ソルドレイユ学院で見る君とは違って、大人っぽい雰囲気だ。思わず見惚れてしまったよ。ところで俺も張り切ってお洒落してみたんだけど、どうかな」
「…………えっ、ええ! リューゼンさんの衣装もお似合いですわ! 特にその…… えっと、髑髏のアクセサリーがお洒落ですわ!」
馬鹿正直な感想など言えるはずもない。
初デートの開口一番で相手の服装にケチをつける人間など、嫌われて当然である。
欠片も理解できないセンスだが、もう褒めるしかなかった。
「ありがとう」
リューゼンはほんの少しだけ口元を緩める。
しかしそれは、服装を褒められたからではない。
カタリナの顔に「こいつの服装ヤバすぎるだろ」という感想が書いてあるのを確認し、安心したからだ。
これでもし本心から「かっこいいですわ!」などと言われたら、密かに頭を悩ませるところだった。次の計画に支障が出てしまう。
「実は、君を連れて行きたいレストランがこの近くにあるんだ。だから、す こ し 歩 こ う か」
「」
カタリナの心を挫くには十分な提案だった。
今から歩くの? こんな服装の男と一緒に?
まず間違いなく、周囲から注目を浴びるだろう。それも悪い意味で。
もしも相手が格下の家の男であれば、噴水広場の時点で家に帰っていた。しかし、現実は非情である。そんな無礼を犯せば、きっと明日からソルド王国にいられなくなる。
リューゼンが連れて行きたいというレストランまで足を運ぶ。肩で風を切って歩くリューゼンとは対照的に、カタリナの足取りは重い。
隣を歩くリューゼンから、ジャラジャラと金属の擦れ合う音がする。人間が歩くときに出す音ではない。衣装もそうだが、音まで悪目立ちしている。
道行く人々は目を見開いた後、最初から何も見ていないと言わんばかりに目を逸らす。関わってはいけないと、本能が叫んでいるのだ。
(ああ、羞恥に耐える顔もいいなぁ……)
リューゼンは、この服装が絶望的にダサいことを自覚している。その上で、カタリナとの初デートに相応しい衣装として選んだのだ。
リューゼンだって、今の自分のような衣装を着た男を街中で見かけたら、「そんな服を着て恥ずかしくないのかよ」と軽蔑する。隣を歩かれたら、きっとこっちが恥ずかしくなる。
だからこそ、リューゼンは思い至ったのだ。見ていて恥ずかしくなるような服装で隣を歩けば、カタリナも同じ気持ちになるのではないかと。
やる以外の選択肢はなかった。カタリナが屈辱に悶える姿を見るためなら、自分でも軽蔑するような衣装に身を包み、往来の真ん中を歩くことになっても構わない。むしろ喜んで受け入れよう。
実際にそうしたら、カタリナは最高の表情を披露してくれた。絶対に自分も変人に見られていると、そう思っているに違いない。
これが上品なやり方と言われれば、大多数は首をかしげるに違いない。しかし、少なくともリューゼンにとっては、これこそが上品なやり方なのである。
「見えてきた、あれだ」
少し歩いた先にある、レヴァノンという名前のレストラン。道沿いに建ち並ぶ煉瓦造りの建造物の中でも、比較的小ぢんまりとしている。
しかし、侮ることなかれ。料理は当然、従業員の礼遇も最高ランクの、超一流のレストランだ。
本来、注文してから何ヶ月も待たなくてはならないのだが、その時間を圧倒的に短縮できる裏技が一つだけ存在する。
それは、最高級のコース料理を注文することだ。
あまりにも高額なため、注文できる客が極端に少ない。しかし、注文さえしてしまえば、何日か待つだけで順番が回って来る。
リューゼンはこの裏技を使って、記念すべき初デートの日にレヴァノンの席を押さえたのだ。
それがどれだけ大変なことなのかを、カタリナは誰に言われるまでもなく理解している。
「……驚きました。まさか、レヴァノンに連れてってくださるなんて。私、感激しておりますわ」
悪い気はしなかった。他でもない自分のため、リューゼンがそんな苦労をしたという事実が、カタリナの心を揺さぶった。
ただ、彼女にはたった一つの誤算がある。
リューゼンの行動の根底にあるのは、確かにカタリナへ恋慕だが、それは世間一般で言う概念と大きく異なっていると見抜けなかったことだ。
しかし、それを責めるのはあまりに酷だろう。
リューゼンのポーカーフェイスは一級品だ。見抜けるのは人の心を読める超能力者くらいである。
「お待ちしておりました、リューゼン様」
玄関の前で足を止めていると、一人のウェイターが扉を開けて現れた。
「どうぞこちらへ、席までご案内します」
「ああ」
ドレスコードに真っ正面から喧嘩を売ってるようなリューゼンの服装を目の当たりにしても、ウェイターは眉一つ動かさない。
その一点で、カタリナは彼が只者ではないことを理解した。
「っ、失礼しました」
が、一歩目で蹴躓いた。
どうやら彼も人の子で、内心でしっかりと動揺していたらしい。カタリナはそんな彼の様子を見て、無理もないと思った。
玄関の扉を越えた先の空間は、大理石で囲まれていた。そこからは、現実から切り離されたような神秘的雰囲気を感じる。きっと、大理石の純白さがそうさせるのだろう。
一目で上流階級と判断されるような客が席について食事をし、少数の従業員たちが店内をテキパキと行き来している。
客や従業員は一瞬だけ扉の方を見て、すぐに食事や業務に戻った。見て見ぬ振りを決め込んだのだろう。賢明な判断である。
リューゼンたちはウェイターに案内されるまま、奥へ、奥へと足を進める。ウェイターが足を止める様子は、まだない。
金属の擦れる音が異様に目立つ。外では多種多様な音が掻き消してくれたから、まだ耐えられた。しかし、控え目な音楽だけが流れるレヴァノンではそうもいかない。
リューゼンは気にならないのだろうか。そう思って視線を向けるも、微笑みを返されるだけだった。
気を悪くするのも覚悟の上で、「その鎖がジャラジャラとうるさいんです」と切り出してしまおうか。
半ば本気でそう考えたとき、やっとウェイターの足が止まった。
足を止めた場所には、両開きの大きな扉があった。
「どうぞこちらへ」
ウェイターが扉を開ける。
部屋に入るよう促す所作は芝居がかっているが、そうと感じさせないほど洗練されている。
部屋に足を踏み入れる。
天窓から陽の光が差し込んでいる。意匠の凝った内装を照らし出す。広い部屋だが、あるのはテーブル、そして2つの椅子だけだ。人影もない。
寂しさよりも、無駄な機能を削ぎ落としたような、ある種の洗練された美しさがある。
完全なる個室だ。ここがレヴァノンの特等室なのは言うまでもない。
「ごゆるりとお寛ぎください」
それだけ言い残し、ウェイターは扉を閉めた。
リューゼンは椅子に座り、カタリナもテーブルを挟んで向かい側にある椅子に座る。
「家族以外とここに来るのは、君が初めてだ。レヴァノンの料理は本当に美味しくて、舌が蕩けそうになるんだ。いつか恋人ができたら、真っ先に食べさせたいと思ってた」
「そうでしたの。私が初めてのお相手なんて、光栄ですわ」
和やかな空気が流れる。人目がない今は、リューゼンの服装も気にしないで済んだ。それどころか、よくよく見れば悪くないとさえ思ってきた。
しかし、忘れてはいけない。
リューゼンはカタリナの笑顔を歪ませることに、全力を注いでいることを。
ウェイターがワゴンを押して、部屋に入ってきた。
「本日の前菜、アカメウオのカルパッチョとなります」
テーブルに差し出された皿の上には、透き通るような魚の切り身が並び、鮮やかなドレッシングが衣装か何かのようにかかっている。
カタリナは目を見開いた。
芸術的とも言える盛り合わせに心を奪われた── のではなく、魚料理が出されたという事実に動揺したのだ。
カタリナの嫌いな食べ物は、ずばり魚だ。もしも外食先で魚が出ようものなら、迷わず床に投げ捨てるほどである。
食べれないというわけではないのだが、口に入れた途端、どうしようもない嫌悪感が走るのだ。
それが今、目の前にある。
(な、なんで今日この場所に限って……!)
背中に冷や汗が流れた。
口をつけないのはつまり、リューゼンの想いを踏み躙るのと同じである。それだけは絶対にやってはいけないことだ。
この場を切り抜けるには、喜んだふりを完璧に演じなくてはいけない。
「基本的にどの料理も美味しいけれど、レヴァノンでは魚料理が特に絶品なんだ。そうでしょう、ウェイターさん?」
「ええ、お客様の舌を一層喜ばせるものだと自負しております」
リューゼンの問いかけに対して、ウェイターは肯定の言葉を返す。
レヴァノンで最も美味しいのが魚料理なのは、紛れもない事実だ。
それがカタリナの魚嫌いと一致したことは、偶然などではない。事前に取巻きからリサーチして、敢えて魚料理のコースを選んだのである。
カタリナがどれだけ完璧に演じようと、リューゼンには彼女の心境などお見通しである。それもそのはず。カタリナが演者だとすれば、脚本の書き手はリューゼンだ。
「では、いただこうか」
「……え、ええ。そうですね」
やるしかない。カタリナは覚悟を固めた。
震える手で、アカメウオの切り身を乗せたフォークを口へと運んだ。
「………………お、美味しいですわ!」
味が良いのは、分かる。それでも、口の中に広がる嫌悪感は止められない。
しかし、それはおくびにも出してはいけない。細心の注意を払い、あたかも心の底から浮かべたような笑顔を貼り付ける。
本当は、今すぐにでも吐き出したい。しかし、一度口に入れてしまったのだ。誰の前であろうと、そんなはしたないことはできない。
内心では悶え苦しんでいるであろうカタリナを、リューゼンは穏やかな表情で見つめる。リューゼンの関心は料理ではなく、本心をひた隠して料理を食べるカタリナに向けられていた。
この表情、いつまでも見ていられる。リューゼンはそう思った。
「まだ前菜なのに、そんなに喜んでくれて嬉しいよ。まだまだ食べられるから、楽しみにしてくれ」
この後も、続々と魚料理が出されるのだ。リューゼンの言葉を理解して、カタリナの表情筋が石のように固まった。
後日、リューゼンは埋め合わせとしてカタリナの大好物である肉料理のコースを再度頼み、カタリナに心の底からの笑みを浮かべさせたという。
†
クロウス家の豪邸には、当然ながらリューゼンの個室がある。
高級品が揃っている以外は、これと言って特徴のない部屋である。
リューゼンはある一冊の本を片手に、椅子に座っていた。表紙の傷み具合からして、それなりに年季が入っている。しかし、同時に丁寧な扱いを受けているとわかる。
この本には、カタリナと付き合った日から、今日までの出来事が書き連ねている。
忌憚なき言い方をすれば、好意という皮を被った嫌がらせである。いや、あくまで好意から生まれる嫌がらせであり、皮を被ったという表現は正確ではないのかもしれない。
当時の情景を鮮明に思い出せるよう、些細な部分まで描写している。読み返すと、脳裏のそのときの情景が浮かぶのだ。
紅茶をお供に、過去の自分が書き連ねたページを遡る。
最も胸がときめいたのは、ニーアとウェイドのデートに偶然を装って乱入し、なし崩し的にWデートを移行したときだろう。
一言では言い表せない複雑な感情が滲み出たその表情は、リューゼンによると芸術の領域であったらしい。そう語られたアビーは、当然ながら理解できなかった。
これを機にニーア、そしてウェイドと親交を深めていくことになるのだが、後々やることの下準備である。実を結ぶのはずっと先のことだ。
カタリナは、リューゼンの所業を額面どおり、つまり純粋な好意として受け取ってきた。何か不都合があれば、運が悪かったのだと納得した。リューゼンの無駄なく洗練された無駄な手腕が成せる業である。
だからカタリナは、リューゼンの愛が歪んでいることに気づくことはなかった。それが幸か不幸か、それこそ神のみぞ知ることである。
歪んだ愛から行われる嫌がらせの積み重ねは、カタリナに愛という感情を懐かせるまでに至った。それはリューゼンが知る由もない。
「リューゼン様、大変です!」
慌てた様子の、年配の男性が部屋に訪れた。生まれた頃からリューゼンに使えている、古参の使用人だ。
「どうした?」
彼がこんなに慌てているのは初めてだ。
本を閉じ、飲みかけの紅茶を口に運ぶ。
「カタリナ様がソルドレイユ学院の屋上から飛び降り自殺をしようとしています!」
次の瞬間、リューゼンは口に含んでいた紅茶を吹き出した。
テーブルと床を汚してしまったが、そんなことは最早意識の外である。
床に撒き散らされた紅茶の滴りを踏み、勢いよく立ち上がる。
普段の無表情はかなぐり捨てて、今までしたこともないような切羽詰まった表情を浮かべている。
「と、飛び降り自殺!? カタリナさんがか!?」
「はい!」
何かの冗談だと思いたいが、彼はこんな悪辣な冗談なぞ絶対に言わない。
「ソルドレイユ学院に向かう! 車を出せ!」
そこからの行動は迅速だった。まさに雷光のような速さで、ソルドレイユ学院に駆けつけた。
「カタリナさん……!」
ソルドレイユ学院の校門からでも確認できた。
校舎の屋上に人影がある。それも、一歩でも足を踏み出せば地表に落下してしまうような場所に立っている。多分あれがカタリナだ。
リンネバーグ家の令嬢が飛び降り自殺を図っているとなり、多くの野次馬が集まっている。
リューゼンは野次馬の海を進む。ただならぬ雰囲気を感じたのか、野次馬たちは自然とリューゼンの進む道を開ける。
誰かの「下手に刺激しないでください!」という忠告を無視して、屋上に繋がる階段を登る。止めるのは無理だと判断したのか、使用人は何も言わずにリューゼンに付き従う。
階段と屋上を隔てるドアの前に着いた。
どうか飛び降りていないでいてくれ。そう願いながら、ドアを開ける。
「カタリナさん!」
扉を開けた先にはカタリナがいた。
全身の力が抜けるような安堵を感じ、地面に座り込みそうになったけれど、折れそうになった両の足でどうにか踏ん張る。
「リューゼンさん……」
振り返ったカタリナの顔には、とても哀しく、痛々しい微笑みがあった。
常日頃から、どうやってカタリナの笑顔を歪ませるかばかり考えていた。
だけど、こんな表情は見たくなかった。求めていたものとは違うと、断言できる。
慎重な足取りでカタリナとの距離を詰める。
「すまない。自殺を考えるほど思い詰める悩みがあるのに、俺は気づけなかった。だけど、今からでも俺に話してくれないか? きっと力になってみせるから」
「……」
カタリナは何も言わない。生気のない虚ろな目でリューゼンを見つめるだけである。
リューゼンは異様な重圧を感じ取り、足を止める。もう一歩進めば飛び降りるという、不思議な確信があった。
「……リューゼンさんは、私を愛してくれていますか?」
「ああ、当然じゃないか!」
リューゼンは無理にでも表情を綻ばせた。胸の内にある膨大な愛が、少しでも多く伝わるように。
しかし、カタリナの傷ついた笑みは変わらない。それどころか、より深く刻まれる。
「私に向けてくれるその微笑みは、私だけのものだと思っていました。だから私は、その言葉を信じることができました。だけど知ってしまったんです。その相手は私だけではないことを」
「そ、そんな相手が他にいるわけ──」
「私の友人、アビーさんと楽しくお喋りしていたそうじゃないですか。私に隠れるようにして、何度も何度も……」
「あっ」
間抜けな声が口から漏れた。
アビーと浮気していると思われている。
カタリナに秘密で、何度もアビーに会っていた。それも2人きりで。時にはカタリナの誘いを断ってまで、アビーと会っていた。
リューゼンがいない場所で、カタリナがどんな反応をしていたのか。それを聞き出すためなのだが、浮気と疑われても仕方なかった。
今思うと、そういう配慮は何もしていなかった。完全に油断していた。
「あなたのしてくれたことが嘘だったら、もう私はこの世の誰も信じることができませんわ!」
(アビーィィィィィィ!!!!!)
胸中で発したその怒号がアビーに届いたとすれば、「お門違いの怒りですよ、それ!」と彼女は言い返すだろう。事実、リューゼンもそのとおりだと自覚している。
ただ、リューゼンは既に何をすべきか、何を伝えるべきかを直感していた。
「今すぐだ。今すぐアビーを呼んでこい。速やかに来なければ、俺の怒りを買うと伝えておけ」
リューゼンは振り返ることなく、背後に控える使用人にそう告げる。
独り言のようなその言葉は、一切の慈悲がない凶悪犯のような冷たさを帯びていた。
「は、はい!」
使用人は弾かれるように階段を降りた。
さあ、ここからが勝負だ。一世一代の、絶対に勝たなくてはいけない勝負の節目だ。
彼女の誤解を解くまで、なんとしてでもこの世界に留めなくては。
「落ち着いてくれ、カタリナさん。まずは俺の話を聞いてくれ」
薄氷を渡るような緊張感が場を支配する。
歩く場所を少しでも間違えれば、容易く砕ける。
「今からここに、アビーさんを呼ぶ」
「!」
間違いなく今、空気が軋んだ。
口の中が急速に渇くが、言葉を途切れさせるわけにはいかない。
「君の誤解を解くためなんだ。頼む、早まった真似はやめてくれ」
「……誤解? 誤解って、何ですか?」
彼女が飛び降りる気配は、未だに濃厚だ。
保証がほしかった。彼女が飛び降りないでくれる、もっと確固たる保証が。
リューゼンは一度、大きく息を吐いた。
「──君が飛び降りたら、俺も一緒に飛び降りる。何があろうと絶対に」
「っ……!」
駆け引きでも何でもない、本心からの言葉だ。
カタリナを救うためなら、己の命を天秤にかけようと構わない。そもそも、カタリナのいない世界になど未練はない。
カタリナの表情に動揺が走った。少なくとも、今すぐ飛び降りるような気配は消え失せた。
リューゼンを死なせたら、残された家族とクロウス家の間に確執ができてしまうからか。それとも愛する人を死なせたくなかったからなのか。どちらが理由なのかはわからないが、効果は絶大だった。
風の吹きすさぶ音だけが聞こえる。
膠着状態であった。
奇妙な感覚だった。時間の流れが一瞬にも、永久にも思える。
「連れて来ました!」
扉の開く音が、静寂を打ち破った。
使用人の開けたドアの先には、図らずもこの騒動の中心人物の1人にされてしまったアビーがいた。
「あの、リューゼンさん…… ど、どうして私を呼んだんです……?」
その言葉は震えていた。
明らかに動揺している。こんな修羅場に連行されたのだから、そうなるのも無理はない。
アビーには申し訳ないと思う。だが、今このとき、この場所で、彼女に告げなければならない言葉があるのだ。是が非でも、引きずってでも、この場所に来てもらうしかなかった。
「アビーさん、俺は君のことを友人だと思っている。何度も食事をしたし、俺たち2人だけの秘密の話題もあるよな。だけど、君を異性として見たことはただの一度もない。俺にはカタリナさんという愛する女性がいる。もし俺に恋心を抱いているとしたら、諦めてくれ」
台本をなぞるように淡々と告げる。
アビーは一瞬だけ目を丸くした後、ひどく怪訝な表情を浮かべた。あまりにも無意味としか思えない質問だからだ。
アビーはこれまで、リューゼンの歪んだ愛の行動に散々付き合わされてきた。
男女の意味でリューゼンを好きになる要素なんて一欠片もないし、リューゼンだってそれを理解しているはずだ。
そもそも、友人という関係さえも疑問符を浮かべざるを得ないのに。
「そ、そんなことを伝えるために呼んだんですか!? そもそも私、リューゼンさんに恋心なんてないんですけど! 好きでもない人にふられるなんて、そんなことあります!?」
「ああ、知ってる。知ってるけど、カタリナさんがアビーさんと浮気してると思ってるから、その誤解を解きたかったんだ。巻き込んでしまって本当に申し訳ない」
「えええええええ!!??」
リューゼンは動揺するアビーを無視して、未だに飛び降りれる場所で佇むカタリナに目を向ける。
「裏切られてしまったという感情が拭えないのなら、もう言い訳はしない。できない。大事なのは事実なんかじゃなくて、君がどう思ったかだ」
どれだけ愛していても、言葉にしなければ、伝わらなければ意味がない。
それと同じだ。
どれだけ事実を並べたところで、カタリナが負った心の傷を治せなければ意味がない。
「だけど、わかってほしい。これが俺に示せる最大の誠意だ。他の誰でもない、これからもずっとカタリナさんと一緒にいたいって意思表示なんだ。お願いだ。俺を見捨てないでくれ、カタリナさん」
今このときだけは、風の音が止まった。まるで世界そのものがリューゼンの言葉を聞き入るように、静寂が流れる。
カタリナは俯いているので、リューゼンの言葉をどう受け取ったのか、その表情から伺うことはできない。
今まさに判決を下されようとする罪人のように、リューゼンはカタリナの反応を待つ。
やれることは全部やった。赦されるのを、神に祈るしかない。
「信じて、いいんですか……?」
静寂を破ったのは、カタリナの縋るような言葉であった。それは、救い求めて伸ばされた手だ。
「──ああ、信じてくれ」
間髪入れずに、リューゼンは断言した。歪んでいようと関係ない。少しでもこの愛が伝わるように。その手を離さないように。
やがて、カタリナは弱々しい足取りで、リューゼンに向かって歩き出した。
リューゼンは安堵の表情を浮かべる同時に、ガラス細工を扱うような丁寧さでカタリナの肩を抱く。
今になって、死の実感がカタリナの精神を蝕んだのだろう。カタリナの体は小刻みに震え、顔も青白くなってきた。
「ごめんなさい、リューゼンさん……! 私、どうかしていました。あなたを疑って、こんな馬鹿なことをしてしまって……!」
「いいんだよ、カタリナさん。誤解を招くようなことをした俺が悪かったんだ」
啜り泣く声がソルドレイユ学院の屋上に響く。
「……あっ、私はもうお邪魔ですね。退散します」
ある意味かませ犬より酷い扱いを受けたアビーは、疲れきった顔で屋上を後にするのだった。
ただ、アビーを見送った使用人の話によると、彼女の表情はどこか安心したようにも見えたという。
†
ソルド王国で最も荘厳であると評判の教会、ソルドゴーン教会。何百年も前の名匠が建築し、建築当時とほぼ同じ状態で現存しているという。
このソルドゴーン教会の礼堂に続く扉の前に、リューゼンとカタリナはいた。
互いに腕を組み、目の前の扉が開く瞬間を今か今かと待ちわびている。
「そういえば、アビーさんとの秘密って何だったんですか?」
「今聞くのか、それ」
リューゼンは苦笑を浮かべる。
あの事件は自分の迂闊さが招いてしまった、あまり思い出したくない過去なのだ。
ちなみにだが、アビーは未だに、リューゼンの歪んだ愛の行動に巻き込まれている。そして、それを知っているのもアビーだけだ。
「ごめんなさい、ふと気になってしまいまして。勿論、無理に答えなくてもいいんですよ」
カタリナの言葉には余裕があった。
その秘密はきっと、自分を裏切るようなものではないと信じているのだ。
「……別に答えても構わないが、情けない話だぞ? デートの後にカタリナさんがどんな反応をしていたのか、聞いていたんだ」
嘘ではない。物は言い様である。本当の秘密は墓場まで持っていくつもりだ。
ただ、カタリナに語ったのは、今となっては暴露してもいい部分である。
「あら、そうでしたの」
カタリナは目を丸くした後、愛おしそうに笑った。
「……あのときは紛らわしいことをして、本当に悪かったと思ってる」
「私こそ、あんな馬鹿なことをして申し訳ないと思ってますわ」
リューゼンは黒いタキシードに身を包んでいる。
カタリナはそんなタキシードとは対照的に、純白のドレスに身を包んでいる。そして、そのか細い腕でドレスと同じ純白のブーケを抱えてる。
ソルドゴーン教会で、リューゼンとカタリナの結婚式が行われるのだ。
リューゼンは宝石のように煌めいていた日々を振り返る。この日を迎えるまで、色々なことがあったというか、色々なことをしてきた。
これからもきっと、そんな日々が続くのだ。隣にカタリナがいる限り。
それを肯定するように、ゆっくりと扉が開いた。
「行こうか、カタリナさん」
「ええ、リューゼンさん」
真紅のカーペットの上を歩く。その先には、祭壇の前に立ち、聖書を片手に佇む神父が待っている。
見知った顔が拍手を送っている。
右側の長椅子にはクロウス家の親族が、左側の長椅子にはリンネバーグ家の親族が座っている。
リューゼンには1つだけ、楽しみにしていることがあった。それは、カタリナの知らないことだった。
今回の結婚式には、最高にして最大の、とっておきのサプライズを用意しているのだ。最前列の長椅子を通り過ぎたとき、カタリナは気付いてくれるだろう。
きっと期待どおりの…… いや、期待以上の反応を示してくれるはずだ。
「!!!!???」
最前列を通り過ぎた瞬間、幸福な笑みを浮かべていたカタリナの表情が一気に固まる。
彼女は今、どうしてお前らがここにいるんだと、そう思っているに違いない。
「おめでとう、カタリナさん、リューゼンさん!」
「おめでとう、2人とも!!」
式場の最前列に、ニーアとウェイドがいる。どちらも惜しみない拍手を送っている。
(最高だ…… 最高だ、カタリナさん……!!)
気配だけでわかる。きっと困惑の絶頂にいる。今すぐ顔を拝見したいが、我慢しなくては。
リューゼンは軽く微笑んでいるだけだが、もしも率直に感情を表していれば、泣く子も失神する壮絶なゲス顔を見せていただろう。
親族でもないこの2人を最前列に招待したのは、当然ながらリューゼンの仕業だ。この状況を作り上げるために、ウェイド、そしてニーアと親交を続けていたと言っても過言ではない。
かつての想い人、そして恋敵の前で口づけを交わす気分は、どんなものなのだろうか。
これがリューゼンの用意した、最高にして最大のサプライズである。なお、カタリナを喜ばせるものとは一言も言っていない。
ちなみに、その席は友人枠として確保しているので、ニーアの隣にはアビーもいる。彼女だけは何の打算もなく、純粋に友人として呼んだ。
アビーは事情を知っているが故に、カタリナに同情した表情を浮かべている。
「汝、この女性をいかなる時も愛し合い、敬い、なぐさめ、助けることを、神の前で誓いますか?」
「はい、誓います」
呆然としていたカタリナは、今が結婚式の途中であることに気づく。
混乱の極みにいても、時は決してカタリナを待ってはくれないのだ。
「汝、この男性をいかなる時も愛し合い、敬い、なぐさめ、助けることを、神の前で誓いますか?」
「は、はい! 誓います」
神父は満足そうに頷き、聖書を閉じる。
「神の御心の元に、新たな夫婦が誕生をここに祝福します。それでは、誓いのキスを」
ベールを上げると、幸福と困惑が混ざり合ったカタリナの表情が露わになった。この表情を知るのは、世界で自分だけ。心の中に、しっかりと刻み込む。
リューゼンは今この瞬間、自分が何を求めていたのかを正確に理解した。
幸福の真っ只中にいる彼女に、自分の手で困惑というエッセンスを加えたかったのだ。あくまで、その幸福を際立たせるエッセンスを。
(なら、カタリナさんをもっと幸せにしてやらないとな)
リューゼンは自分の唇を、そっとカタリナの唇に重ねた。
カタリナは一瞬だけ目を見開いた後、幸せそうな表情でその唇を受け入れた。
2人を祝福する、割れんばかりの拍手がソルドゴーン教会に響き渡った。