桜の手紙
「もう一度、あなたと一緒に桜を見たいの」
そんな言葉に応じるかのように直哉は起き上がった。既に日が射している。
また夢か...。3月も終わりに差し掛かる頃、連日夢に幸子が出てきてこの言葉を浴びせてくる。桜満開シーズンが近づいてきているから無理もない。
幸子は桜が大好きだ。それがきっかけで付き合い始めたといっても過言ではない。毎年4月には必ず2人でお花見がてら長白園の綺麗な桜を鑑賞したものだ。今思えば自分の好きな桜以上にその桜を見て喜ぶ彼女の笑顔が直哉にとっての宝物だったかもしれない。
でもその宝はもう存在しない。昨年の春、幸子は病気で亡くなってしまったのだ。元々入退院を繰り返すくらい病弱な体質だとは聞いていたし、こうなることも覚悟していた。しかし大好きな桜を鑑賞している最中に倒れたのだから、ショックは大きい。大好きな桜だったはずなのに。
それ以来、直哉は殆ど外出せずに日がな1日中家に閉じこもっている。今となっては桜が嫌いだ。見たくもないし、思い出したくもない。正直の所、幸子は桜に嫌われていたのではないかとさえ思っている。無理やりなこぎつけかもしれないけど、桜を見ると彼女のことを思い出してしまうのだ。大切な人の死など思い出したくない。だから桜とは縁を切りたい。
「ピンポーン」
昼下がりになって誰かが来たようだ。重い腰を上げてドアを開けると、そこには幼馴染の香奈が立っていた。
「なおくーん、お邪魔するよー」
そう言って断りもせずに家に上がった。香奈は昔からそういう奴なのだ。人一倍元気で友達思い、事ある毎に直哉の家に遊びに来る。
「うわー、相変わらず散らかってる。カーテンも閉めっぱなしじゃん。」
直哉の部屋の惨状を見兼ねた香奈がカーテンを開けて掃除し始める。
「いいよ。そんなことしなくても」
直哉がそう言ってまたソファーに腰掛けるが、香奈は手を止めない。彼女も直哉の事情を知っている。今まで幾度となく相談に乗ってくれる程、身近な関係だったからだ。だからこそ直哉の事情については一切口に出さない。
「ねえ、なおくん」
掃除している最中に香奈が急に話し掛けてきた。
「なんだ?」
面倒臭そうに返事した。どうやら香奈の表情が輝いて見える。そんな彼女の口から驚くような言葉を聞いた。
「今度の日曜日、みんなで長白園に集まってお花見しない?」
暫くの間、沈黙が続いた。長白園...、お花見...。これらが意味するものは...。
「ごめん、無理だわ」
気付いたら、そう断っていた。
「そう...」
香奈は驚きもせず、そう呟いた。
「あっ!私、急な用事思い出しちゃった。悪いけど失礼するね!」
突然帰る香奈を特に止めなかった。
香奈が別に直哉の事情と絡めて誘ったわけではないということは分かっている。ここら辺で桜が綺麗なのは長白園しかないから、事情と重なってしまうのも偶然だ。だから香奈のことを悪く思っちゃいない。だが桜だけは勘弁してほしい。
あれから3日経ったが、香奈は全く家に来ない。直哉が断ったことを相当根に持っているのだろうか。だとしたら、いささか申し訳ない気持ちになる。
今日は何して時間を潰そうか考えていると、携帯が鳴った。幸子の母のようだ。
「もしもし」
「幸子の母です」
落ち着いた声が返ってきた。幸子の母は何度か会ったことがある。とても温厚な人だ。
「何でしょうか?」
「それが...」
直哉は幸子の家の前にいた。どうやら娘の遺品整理で一通の手紙を見つけたので受け取りに来てほしいとのことだった。
「失礼します」
家に入るとすぐに母が出迎えてくれた。
「ごめんなさい。急に呼び出したりして」
「いえ」
特に気にしていない。むしろ手紙が気になって行かないわけにはいかなかった。
「直哉さん宛ての手紙だったんです」
そう言って渡された手紙には、確かに「直哉さんへ」と書かれていた。
帰宅した直哉はコーヒーを飲んで一休みした後、改めて手紙の中身を確認した。
<直哉さんへ
この手紙を読んでいるということは、私が既にこの世を去ったということだと思います。本当なら口から伝えるべきところですが、いつ消えるかわからないこの身、このような形で伝えることをお許し下さい。
直哉さん、あなたは私が亡くなったことで恐らく相当塞ぎ込んでいることと思います。今まで毎年2人で見た桜に対する愛情も薄れつつあるでしょう...>
幸子は何もかも予想していた。直哉がショックを受けることも、桜が嫌いになることも。だから幸子は桜に嫌われているのだと確信していた。しかしそれは否定された。
<でも桜には罪はない。だから桜を責めないで...>
無論、こんな一言で直哉の気持ちがひっくり返ることはない。では何故桜は今も平然と咲いているというのだ。
<ここに書いたところで理解して頂けないことは承知しております...>
そして次の一言で直哉の心が動く。
<続きは長白園の桜の木の前で読んで下さい...>
日曜日、直哉は長白園にいた。天気も良く桜はすっかり満開している。そのせいか、花見客も多い。
本当は今でも桜を見たくないが、遠回しに来るよう幸子に言われたのだから、仕方ない。
いつも2人で見ていた大きな桜の木の前に来た。相変わらず大きい。
「パーン」
クラッカーの音に驚いて振り向くと、そこには香奈を初め、高校時代の同級生がたくさんいた。
「香奈、これは一体...」
疑問に思って聞くと香奈は、
「なおくんが来ると思って、みんなで盛大に歓迎しようってことになったの!」
どうリアクションを示せばいいのかわからなかった。
「なおくん!まずみんなで乾杯しない?」
香奈はもうノリノリだった。でもその気になれない。
「悪いが1人にさせてくれ」
周りが気まずい雰囲気になるのは当然だった。できれば言いたくなかった。
「そ、そう。じゃあ、あたし達向こうで飲んでるから、気が向いたらいつでも来てね!」
直哉の気持ちがわかっているのだろう、香奈はすぐに察して、みんなと一緒に離れていった。残念ながら、桜の木の前でドンチャン騒ぐのは性に合わない。
ようやく1人になった直哉は手紙の続きを読む。
<長白園に着いたようですね。桜は綺麗に咲いていますか?もっとも、直哉さんには綺麗に見えなくても仕方ないですよね。
でも直哉さん、桜の一生について考えてみて下さい。桜というものは毎年一斉に誕生するから、とても強大な落葉広葉樹であると思いがちです。しかしながら桜は咲いてもすぐに散ってしまいます。結局、桜1枚1枚は長く維持することはできないのです...>
大事なことを見失っていた。桜は咲いているものが全てではない。1枚1枚独立しているのだ。
<そういう”儚さ”という意味においては桜の消滅は私のような人間の死と同じ。そう思いませんか?>
そうかもしれない。今まで物事を何にでも広く見渡すことしかできなかったから、桜も大雑把にしか見れなかった。結局、桜に対して良くないイメージを持つのも、桜を見ると幸子のことを思い出してしまうから...。そう思うと自分が悲しくなるし、悔しくもなる。
<だから桜も私と同じ目で見てあげて。桜が散ったら人生をリセットして構わない。あなたもこれから先、また新しい恋人を作るかもしれないけど、全然構わないわ。あなたの人生だもの。
香奈>
手紙は終わった。リセットか...。今まで考えたことなかった。物事を浅く広く捉えてきたから、引きずるのは当然だ。しかし幸子の命はそう長続きしない”儚い”ものだから。それを踏まえて彼女と同じ仲間である桜の花を見て直哉は何を想ったのだろうか。
「短い命だけど素敵な姿を見せてくれてありがとう」
そう言い残して長白園を後にした。