おはようございます
少女、メイが目を覚ましたのは、辺境の街・ノートスにある安宿の一室だった。
軽く伸びをしてから、ぼけっと宙を見る。体は起きても、まだ意識が目覚めていない。ふわあ、とあくびをしてからたっぷり十分ほど、メイはベッドの上から動けなかった。
徐々に意識がはっきりしてくる。目に力が戻り、宙ではなく、宿の天井が見えてきた。
「んっ」
ぼうっとしていた脳みそが動き出すと、メイはのっそりとベッドから起き上がる。サイドボードに置いてあった水をガラスのコップに注いで、んくんくと飲む。そうしてやっと、意識が完全に目覚めてくれた。
また、あくびを一つ。安宿のベッドは硬く、寝心地が良くなかった。体のあちこちが痛むが、メイにはもう慣れてきた感触である。大して気にすることもなく、シーツを引きずりながら姿見の前に立った。
曇った鏡は、ぼんやりとしか、メイをうつさない。それでも、生まれて十二年の小さな体を見るには充分だった。
腰まであるブロンドの髪は寝起きでもさらりと流れ、成長途中の幼い体はまだ女性的な特徴を得ていない。エメラルド色の瞳はまだ眠たそうにしており、早く顔を洗いにいかなければまたベッドに戻りそうだった。
メイは寝間着としているワンピースを脱いだ。姿見にうつる体は、やはり、まだ肉が付いていない。下着だけの体は、理想よりも大分細い。やせっぽっちだ。
窓から見える日差しからして、夜明けから、そう時間は経っていない。まずは、身だしなみを整えよう。
サイドボードに置かれていた水を、今度は洗面器に移す。ぱしゃぱしゃと顔を洗うと、眠気がやっと引いてくれた。
顔を拭いてから、髪を梳く。くしは、髪に絡まず素直に通ってくれた。自慢の髪は、今日も調子が良いようだ。
整え終えると、姿見の脇にかけてあった、法衣を着た。酒場兼食堂で、食事をするとしよう。
「ジークー?」
ドアノブに手をかけようとして、同じ部屋で寝ているはずの相棒を思い出した。
「ジークー? ジークムントー? いないのー?」
あまり広くない部屋を見回しても、相棒の姿はなかった。
扉の鍵は閉まっている。もしいないとしたら、
「また窓から行ったのね。もう」
少しばかり開いていた窓を見て、メイはため息を吐いた。
気まぐれな相棒は、よく姿をくらます。今日も、ぷらぷらと散歩にでも行ったのかもしれない。
「ごはん、あげないからねー?」
いない相手に、わざと一言残す。それで終わり、と扉から廊下へ、廊下から食堂へと向かった。
まだそれほど早くない時間帯だったが、食堂はにぎわっていた。団体客でも来ていたのか、丸テーブルがいくつも埋まっている。行商人の一行だろうか。
そういえば、と昨日の騒がしさを思い出す。メイがねぐらにしているこの宿は、宿代が手頃だ。部屋も多い。団体で泊まるのに丁度良かったのだろう。
メイはカウンターに座った。いつもならば丸テーブルでのんびり食事をするのだが、この賑やかさでは、朝の空気を楽しめそうになかった。
「はぁい、メイ。おはよう」
少しばかりふてくされていると、顔馴染みのウェイトレスが声をかけてきた。
小麦色の肌と、三つ編みにされた黒髪。ウェイトレスとはいっても、宿屋の娘だ。質素な服で、装飾品の類は一切ない。
「あ、おはよう、ネリー」
ネリーは、挨拶もそこそこに、あちらこちらへと食事や飲み物を配っている。この宿のウェイトレスは、ネリーしかいない。今日は、のんびりおしゃべりはできそうにないようだ。
「いつものでいい?」
額の汗で忙しさを語り、たくさんの皿を抱えてネリーが聞いてくる。うなずくと、ちょっと待ってね、と厨房へ行ってしまった。
ちょっと、と言いながら、ネリーはしばらく出てこなかった。それでいて、厨房から良い香りがするものだから、メイの腹が鳴ってしまう。
「う」
年頃の少女としては、恥ずかしい。誰も聞いていないとは分かっても、はしたないと感じてしまう。
屋敷で暮らしていた頃は、腹を鳴らそうものならば母から厳しく叱られたものだ。
と、
「ううん、ダメダメ」
昔を思い出して、すぐさま否定する。もうあそこに自分の居場所はないのだ。今は、ただの冒険者、ただのメイである。
首を振って忘れようと努力していると、後ろから野太い声がかけられた。
「おおい、お嬢ちゃん、俺のメシはまだかい?」
荒っぽい声だった。思わず振り返ると、メイの倍は背がありそうな大男が立っていた。
メイを、ウェイトレスだと勘違いしたのだろう。
「あの、私はここの……」
誤解を解こうとするが、男は無遠慮にこちらの頭を叩いた。軽くやったつもりなのかもしれないが、メイの頭はぐらぐらと揺さぶられた。
「ははっ、法衣なんか着て。変わってるな、お嬢ちゃん。冒険者のつもりかい?」
「あの、だから……」
「まあいい。腹が減って仕方ないんだ。王都へ行かなきゃならないからな。ここで腹を膨らませないと、長旅で倒れちまう」
「王都へ……?」
「おう。雇い主は王都の商人様よ。かなり羽振りが良いみたいでな、朝からたんまりメシを食うだけの金ももらってる」
大男は、がはは、と気楽に笑っているが、仕事の内容からして、あまり公言して良い物とは思えないのだが。
王都、と言われ、メイは先ほどの記憶を思い出しそうになる。
第三十七代国王ユリーアスが治める、国の象徴たる大きな街。以前、自分が住んでいた場所。メイの家族が何一つ不自由なく暮らす、憧れの場所。
思い出して、涙がこぼれそうになる。そこを助けてくれたのは、ネリーだった。
「あ、ごめんなさいね、剣士さん。この子は、ウチのお客なの。ご注文は、私にお願いね?」
「あん? こんな小さい子が、客?」
「そうなの。あ、もしかしてこのお皿かしら? 牛のステーキ。朝からたくさん召し上がるのね」
「お、おお、それだそれ」
大男はあっさりとネリーに付いていった。去り際に、ネリーがこちらにウィンクを一つ送ってくる。その気遣いが、とてもありがたい。
大男のせいで、なおさら早く食事を済ませてしまいたくなった。
「ごめんね、お待たせ」
賑わっている方から戻って来たネリーが、メイの前に食事を置いてくれた。
硬いパンに、野菜たくさんのスープ、それから、
「これはオマケ」
いつもは食べられない、ハムステーキが付いていた。
「食べたら、お散歩でもしてくるといいよ。あの人たち、食事したらすぐ出発するみたいだから。ギルドのクエスト確認ついでに、ね?」
「うん。でも、いいの、これ?」
ハムステーキを指さすと、ネリーは愛嬌のある笑みでうなずいてくれた。
「あの人たち、かなりチップをはずんでくれたの」
それだけ言うと、また厨房へと戻っていった。あの大男たちのおかげで、朝食が豪華になった。
頭を叩かれたのも、まあ許してあげよう。
メイは、いつものように、パンをスープにひたして食べる。そしてサービスのハムステーキを食べ、頬を緩ませた。果物のソースが実に合う。自分の稼ぎでは、そうそう食べられない豪華な一品だ。
ゆっくりと時間をかけ味わいたかったが、男たちはメイの食事が終わっても騒いでいた。ノートスから王都まで、急いでも五日はかかる。途中には、うっそうとした森や、大きな河があるはずだ。いくら大勢だからといっても、そんな場所で野営することになったらどうするのだろう。
心配ではなく、単なる疑問として考えを思い浮かべ、すぐさま忘れることにした。自分には関係ない、と。
食器をネリーに返すと、そのままメイは外に出た。
良い天気だった。空には雲が無く、それでいてまだ陽は低い。過ごしやすい時間だ。
メイは、ネリーに勧められた通りにギルドへと向かった。ネリーの宿は、大通りに面している。ギルドもまた同じなので、歩きやすい。もう少しすれば荷馬車や人でごった返すだろうが、今はお爺さんやお婆さんが朝の散歩をしている程度。
いつもこうならいいのに、とは思うが、人の賑わいがなければ、クエストももらえない。軽いジレンマを抱えながら、とぼとぼとした足取りで歩いた。