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5 不機嫌な果実

 桐生洋子はひざを折り床にうずくまって、声を上げてむせび泣いた。


「哀れね。真実の正義を追い求めるが故に神域に踏み込んだ結果、自身の愚かしさにもだえ苦しみ、自ら喉を掻き切るまで死を自覚できなかった勇敢なる者の末路ね」


 追い打ちをかけるかのような辛辣な吉原先生の口撃に、もはや反撃の意思を完全に奪われた桐生先輩だった。俺は貝のように閉じこもり小さくなった少女に憐みの目を向けると同時に、この文芸部の部長として目の前の監理者モンスターに立ち向かう意思を固めた。


 しかしターゲットを俺へと向けた彼女の牽制は、俺の持つ盾で防ぎきれるものではない。彼女は俺の持つ盾と矛ごと叩き斬るごとく、襲い掛かってくる。


「現実の中に夢想を据えるのは構わないわ。だがそこに自身を反映し、あまつさえ、あたかも自身がそちら側の住人であるかのような傍若無人さをもって現実社会を侵食する。あなたを語るべきはあなたが足を踏み下ろしている世界、想像世界は夢なのよ。目を覚ましなさい」


「ちがう! 僕は真剣に思っているんです。こんな世界が来ればいい。こんな現実が実現すればいいって!」


「黙りなさい! 世界を変革する至宝はどこにも存在しない。仮にそれを求める夢想は肯定されるべきであっても、存在しない世界をいかに自己否定できるかこそがあなた達を犯す病魔の根源を絶つ唯一の手段。そう、既にあなたたちは現実に向き合い、現実を飲み下すことでしか治癒することのない重篤な患者なのよ」


 吉原先生、そこまで言うか……。

 


 ああ、そうだとも。吉原先生、あなたは現時点においては正しいのかもしれない。


 創作は所詮独りよがりの刹那的衝動。大仰な使命をかざしてみても、人が聴けば馬鹿かと誰もが鼻で笑う。


 たとえその時の自分が、評価足り得る制作を果たしたとしても、過去に鑑みれば偉業を成し遂げた者を称えるのは決まって後世に語り継がれてからだ。今の俺たちは評価されない。今を生きろ、現実を受け止めて深く深く考察しろ。内なる宇宙の深淵を垣間見ろ、そして絶望するのだ。俺たちは凡人だと。


 部員なかまは消沈してしまっている。


 もはや俺は一人で彼女に挑まねばならない。仲間とそして俺自身を守るため。俺は作家だ……俺の言葉は、俺の思いは、その原稿に全て載っているのだ。


「吉原・マドンナ・美奈子……先生。僕の原稿を読んでください――」俺は自身の原稿を差し出した。

彼女は鷹揚な態度で原稿を受け取ると、一枚目に目を通すと、後はパラパラと流し読みをした程度で、原稿を机に投げ出した。


「国重くん……あなたも随分パンパンに膨れ上がった妄想を炸発させたものね」


 吉原先生は俺の原稿を、まるで醜いものを哀れむかのような視線で舐めながら言う。俺はその言葉に愕然とし、下半身の力が抜けて両膝をついて跪いてしまった。


「先生……俺はあなたを信じて、作品を読んでもらおうと思って、自分の身の内にある全てを、さらけ出したんですよ……それがどうして! なぜ!」


 彼女はゆるりと腰をひねると背後の椅子に腰掛け、張り裂けそうになるタイトスカートの中で豊かな大腿をクロスさせた。その奥のデルタゾーンは深遠なる闇に支配されていて真実を垣間見ることはできない。


 しかし彼女はその代わりのつもりなのだろうか、ストッキングの申し訳程度のサポート機能により、かろうじて美しい流線型を保つふくらはぎをこれみよがしに俺に見せつける。


「所詮は空想世界。森を描いたとて、それが木々の集合体であることをあなたたちは勘案しない。あなたたちの物語からは生命の息吹を感じられなかったのよ」


 俺は彼女のくたびれたヒールに窮屈に収まる、荒れた踵をじっと見つめていた。彼女のその態度は明らかに高圧的だった。まるでゴミでも見るかのようなその視線。


「それが、国語教師としての見解なんですか……?」


「いいえ、違うわね。言いたいことはそんなことじゃない。人は木を知ることで森を知る、果てしなく広がる森がいかにして形成されたかを想像することよ。果実を蓄え、種子を鳥獣が運び、また新たな木を育む。そうして作られた森がまた鳥獣を育む。この壮大なる生命の連鎖の中にあなたたちもいるのよ。あなたたちだけその森から出て俯瞰することなど許されないのよ。果てしない欲望の行使、楽しければ、愉快ならば何を書いても許されるのか?」


 彼女は教師らしからぬ鮮烈な赤に彩られた唇を舌でひと舐めすると、気だるそうに首を傾げ、やや痛み気味の毛先がカールした髪を指先で弄ぶ。


 椅子にもたれ掛かけられたギターのように、美しい丸みを帯びた臀部と豊かな双丘を繋ぐ、やや膨張しかけた腰部をひねり、俺たちにはない流線型を形どってそこにいる。


 小山田が夢想するような妹はいない。木ノ下が空想するような異世界は存在しない。三条が想像する巨大ロボットは実現しない。ましてかつて部長が書きなぐったホモしかいない世界など人類が滅びる。


 そして俺の妄想は現実には起こりえないかもしれない。だがその低実現性ゆえ、その木々の枝葉からこぼれる陽光の眩しさに目を細め、手を伸ばす。頭上の遥か上の枝に取り残された、今にも空から降ってきそうな果実を。風が一度吹けばそれは枝からもげてしまうかもしれない。俺は上手く受け止めることができるだろうか、いや、落ちた勢いで潰れてしまわないだろうか。


 あるいは果実に手が届くようになるまで、一体どれほどの時間が必要なのか。掴めない果実の甘美なる希求が俺を妄想へと駆り立てる。


 法案が成立し彼女が新しい庇護者として現れてから、俺はその果実をいかに掴むかを妄想しまくったのだ。それが罪だとでもいうのか。


 理解などされなくとも構わない。俺たちのしていることなど所詮はサブカルチャー。所詮はオタクの戯言。小説などと大層な看板を掲げてはみても文壇からは鼻で笑われ、漫画やアニメの延長だ、などと一蹴される。


 だが、この俺の思いを誰かに伝えたい。力なきものに残されたただ一つの抵抗。それが想像世界の構築。


「くっ……だが現実世界から物語を生み出せなくなっているのはあなたたちの方じゃないんですか?」


 蓋を開けてみれば、彼女はただ古典ロマンに傾倒しきりの国語教師に過ぎなかった。そうだ、あなたは解ってはいない。それは大人だからだ。あなたが全てだと思い込んでいる、ある限られた、固定され、固着した世界に住まう住人であるからだ。


「何が言いたいの?」


「あなたたちが現実世界のデータベースを貪り尽くしたから物語は枯渇したんじゃないんですか?」


「ごめんなさい、あなたの言っている意味が解らないわ」


「わからない……ふっ、そうでしょう。あなたたちが経済力と権力を持つ、限られた人間だけしか活躍ができない世の中を作ったから、僕たちは異世界に行くしかなかった。あなたたちが現実世界の女性への夢を奪ってしまったから、僕たちは空想の世界で女の子を作るしかなかった。あなたたちがいつまで経っても戦争をやめないから、圧倒的な力で世界を変えて平和な世界を築こうとした。僕たちは間違いを犯したんじゃない、僕たちは追いやられたんだ! ちがいますか! 先生! 僕らは間違ってなんかいない!」


 俺は興奮のあまり、立ち上がり原稿をひっつかみ、彼女へとにじり寄る。


 糖化が進み、甘味が極限に達し酸化分解直前の果実は、指の腹ですら表面の皮を突き破ってしまいそうなほど柔らかいだろう。


 渾身の握力でそれを握りつぶしたい衝動を寸前で抑え、おもむろにナイフを手に取る。


「僕はただ! 僕はただ! あなたに僕の思いを解ってほしかった!」


 しかし、もはや均等に切り分けて皿に並べることもできないほど、その内実をさらけ出された果実は不格好だ。いくら切れ味のいいナイフとて崩れかけた果肉にまとわりつく成長しきった繊維をうまく分断することはできない。


「国重くん! やめなさい!」


 すっかり猛々しくなってしまった俺を、彼女は慌てて制止しようと両手で押さえつける。だがもう遅い、時は熟したのだ。こうなることは彼女もわかっていたはずだ。わかっていながらも俺の想いを受け流すことができなかった。


 彼女は優しい、そして強い、だがそれはあくまで対外的であり、自身の内質の脆弱さをカムフラージュするためのものでしかない。


 俺にはそれが判る。妙齢をとっくに過ぎてしまい、毎度事のたびにため息をつく日々を過ごし、気づけば中年と呼ばれる門戸の前に立っていた。この扉を開いてしまう前に誰か私をここから連れ去ってほしい。そう願っている。


 俺は意を決し口を開いてかぶりつく。食物を噛み切るための門歯が果実の皮を破り、溢れ出した果汁は切れ目からどくどくと艶かしく零れ、あるいは周囲にはじけ飛ぶ。汁は俺の服や両手をみだらに汚し、口元を摂食中の肉食獣のようなそれに変える。


 原稿を突きつける俺。座っていた椅子が倒れ、彼女はわずかに後ずさる。


「ダメよ、こんなのはダメ」口でそういいながらも彼女の抵抗する身体は弱弱しく、足元はおぼつかない。


「何が、何処がダメなのか、言ってくれないと分かりませんよ」俺は困ったような顔を作って彼女の顔をのぞき込む。


「眩暈で倒れそうだわ」彼女は悩まし気に首を傾げ、熱い吐息を吐く。


「……さあ、何がダメなんですか、声に出して言ってください」


「だ、だからあなたはまだ高校生で、私は――」


 彼女は逡巡し、俺の瞳を直視できないでいる。


 俺は描き切ったのだ、現実という名の穢れた事実を。目の前のあなたを描いたのだ。


ファンタジー規制法ガイドラインに抵触する語句は一つとしてない。


「さあっ!」


 刹那俺は、彼女の腰だめから放たれた掌底打により押し倒された。俺の手から、原稿が投げ出され、留めていたダブルクリップが外れ、一枚一枚の原稿用紙が白い鳩のように、ひらひらと幻想的に舞った。


 目を見開いたその先、吉原先生は俺の目の前に立ちはだかって俺を見下みおろしていた。舞い散る紙片の向こう側で、恍惚なる表情を見せる彼女はまるで天使のようだった。


 そう、その視線は明らかに見下みくだしていた。


 まるで汚いものでも見るかのように。


「三十半ばの女教師は独り身の寂しさと不安を抱え、淫らな妄想と熟れた体を持て余し、日々蒸れた衣服の下の不快感に、ひそかに顔を赤らめながらも、男子生徒のまっすぐな熱情を一手に浴びる快感に身をゆだねている――酷い偏見に基づいた想像創作ファンタジー文書だわ。国重君、熟女教師専門陵辱系官能小説を書くのはよしなさい」


 そう、はっきりと告げられた。その語感には沸々たる憎悪の念がこもっていたかもしれない。


 なす術なく彼女を仰ぎ見る顔面に彼女の靴底ヒールが迫り、ざらっとした埃の感触を頬にわずかに感じ、エナメル樹脂の匂いを嗅いだと同時に、俺の意識はめくるめく真っ白な空間へと昇天して逝った。


第二部、『続・ファンタジー死すべし』へと続きます。


よろしければ、重ねてお目汚しくださいませ。

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