1 ファンタジー規制法
勢いよく扉を開いて、部室に飛び込んできた部長は歯噛み、乱暴にブレザーを脱ぎ、シャツのネクタイを緩めると、どんと両手を机についた。それは普段の冷静沈着な彼女からは想像もできない荒れようだった。
「部長、どうしたんですか……!」
「みんな聞いて――今後、想像創作作品に類する書物や映像作品は十二歳以上、十八歳未満の青少年による閲覧、視聴を禁ず……くっ、ファンタジー規制法の可決よ!」
力を緩めない掌が今にも机にめり込んでゆきそうなほど、部長は激高し力の制御を見失っていた。
「落ち着いてください、一体どうしたって言うんですか? 順序立てて説明してくれないと……」という俺の襟を、突然部長は掴み、勢いのまま壁際まで押し付けられる。部長は身長一五二センチと俺よりはるかに小柄で、体力的に抵抗できないわけではなかったが、彼女の眼差しに圧倒されて声を出すことも出来なかった。
「馬鹿者……国重、君は何も知らんのか? 新聞くらい読まんか! ネットニュースでも構わん! 貴様らは解っているのか!」
そう言って部長は部室にたむろする部員達を手刀で薙ぎ斬った。彼らはその気迫に満ちた声にびくりとし、だらけた体を硬直させた。
「まさか……あんな馬鹿げた法案が?」窓際で漫画を読んでいた三条が首を伸ばし憮然とした顔を向けた。
「そう、残念ながらそのまさかなんだよ、三条」
やがて消沈する。その法案が可決するという事がどういうことなのか、皆今後の予測は容易についたのだ。わかっていないのは俺だけだった。
「議決は僅差だったそうよ。アニメ、漫画、ラノベ、ビジュアルソフト、その他の分野におけるファンタジー、SF、架空戦記、ホラー、恋愛など、現実にはあり得ない突出した荒唐無稽な妄想や空想が関わる媒体の所持閲覧を、一定対象年齢の青少年に対し一律規制する……だ」
俺は愕然とした。そんなもの、今の漫画やアニメやラノベが扱う題材のほとんどすべてじゃないか。高校受験を終え、これからは好きなだけ思い切り小説の執筆活動に打ち込めると思っていたのに。ひどい仕打ちじゃないか。
「そんなことが許されてたまるか……許されるんですか!」俺は両拳を握り締め、お門違いだとはわかっていたが、部長に詰め寄った。
「ただ、例外はある。十八歳未満の者は保護者同伴の上でならば閲覧も視聴も可能であり、所持も保護者監督下であれば許容する、と」
そう言って部長はうつむいたまま大きく息を吐いた。それが何を意味しているのかはわかる。
「そんな! それじゃ針のむしろですよ!」
悲壮感いっぱいに少し太りぎみで、おかっぱ頭の小山田が泣きそうな声で叫ぶ。小山田の性趣向は“おっぱいプリンプリンの萌え系妹に慕われる兄”である。ちなみにおっぱいプリンプリンとかいう語句は小山田が毎日のように言うので、俺もつい口から出ただけだ。
そんなものを親と一緒に観たり、当該本を預けたりできるものか。ああ、それから小山田には妹はいない。
「くっ、漫研や映研の子達も今は大騒ぎでしょうね。まさかここまでやるとは……我々はあまりに行政を甘く見ていた。舐めていたわ」
この部室で唯一の女子部員であり部長である桐生洋子は俺たちの二つ上の先輩で、今年を最後に卒業する。俺たちが今春入部するまでの間、この文芸部を廃部にすることなく、一年間ほぼ一人で活動を続けてきた敏腕部長である。
俺たちはこの高二病末期の彼氏なんて当然いない先輩を慕って、文芸部を盛り上げようと今春入部した一年生だ。それがたった七ヶ月でこんな苦境に立たされることになるなんて。
「こんな強権執行許される訳ありません! 俺らには選挙権すらないんですよ?」
「ふっ、その代わり義務も果たしていない……ちがうか? 国重」
桐生部長は鋭く俺のことを睨む。その目は諦めをまとって揺れていた。部室替わりに使っている図書準備室の一角で小山田を含む三人の部員が机に突っ伏し、その傍らで部長と俺はやり場のない視線を交わして呆然と立ち尽くしていた。
部室のドアが力なく開かれる。
桐生部長に続き、我が文芸部の顧問である松田先生が部室に訪れる。三十八歳ラノベとアニメをこよなく愛する独身男である。いつも唾を飛ばして喋るハイテンションな運動不足の脂ぎった中年だったが、今日は恰幅の良すぎる体格も一回り小さく見える。
「さっき職員会議で決まったことなんだが……」
「何ですか……? もしかしてあの法案の話ですか?」
「ああ。今後はレベルの差はあるが、当該年齢によるファンタジーやSFをはじめとする想像創作物の所持は法律で禁じられる。だからウチのような部活動内容は好ましくないって。さしあたり明確なガイドラインが示されるまでは休部にしろと……」
「先生、それは実質的には廃部宣告ではないのですか」桐生部長は入口で佇むハンプティ・ダンプティに詰め寄る。
身長一六五センチ体重一二○キロ、髪は毎日洗っているのか怪しいほど油ギッシュで、なんとかハゲデブチビのコンボを回避しているものの、到底女性に好かれるような容姿ではなく、時として『ハンプティ・ダンプティ』と形容されるに等しい。そのため生徒の間で彼は『HD先生』と隠語で呼ばれるようになっていたが、それは『ハード・デヴ』の略だとも実しやかに囁かれている。
「い、いや、そこまでは……」
俺は松田HD先生が言い終える前に叫んでいた。
「そんな性急な! こんなのは人権侵害だ! 俺たちにも表現の自由は保障されているでしょう! まだ法施行までには時間はあります、なんなら抗議運動だって……!」
しかし、桐生部長は右手をすっと水平に差し出し、冷静すぎる言葉で俺のことをたしなめ、ふっ、と息を吐いた。
「馬鹿なことを考えないことね。国会で可決され法律化される物に対して我々一般国民が今更横暴だ、違憲だと声を荒げたところで何も変わらないわよ。そんなもので世論が、政府が動いてしまえば国などすぐに滅ぶわ。時すでに遅し、タイム・ゴウズ・バイよ」
確かに部長の言う通りだ、しかし回避する方法はないのか。
「国重、君は知らないかもしれないけど、この度の法案はなにも私たちを憎し悪しで起草されたものではないのよ。問題の根はもっと深いところにある。想像創作媒体は公の秩序を乱す恐れのある媒体として認定されたのよ」部長は深い溜息とともに言った。
その傍らで、黙って俺たちのやり取りを聞いていたHD先生は、晩秋の冷え込んだ部室で滝のような汗をかいていた。いや、それは涙だったかもしれない。
『想像創作媒体規制法』、俗称ファンタジー規制法。
それは今国会で争点となった、成人年齢でありながら就職も就学もしないで家族に扶養されパラサイトする所謂ニート、あるいは家から出ることもしない引きこもり、あるいは単発的にアルバイトやパートをこなすものの、自身で生計を立てるという気概のない十八歳以上の準非生産者層の増加が発端である。
こういった“成人の一般社会への出遅れ現象”に危機感を持った超党派国会議員団の提議から打ち出された法案である。
そもそもの論拠は、社会と接することを極端に避け、人間関係を煩わしいと忌避し、自身の欲望や妄想のまま思うようになる媒体で周囲を取り囲み、その世界に没入することで生きる欲望をかりそめに満たし、よしんば自身が死ぬまでの生活が継続さえすればいいと考える反社会的かつ非生産的活動の増加拡大を危惧したもので、それを助長する一翼を担っているのが、想像世界に形どられた想像創作媒体であるという。
幼少期に夢のような世界を垣間見て、そこに自身の危うさを投影しながら社会とのすり合わせを図るという幼年層の行為は、情緒の安定と情操教育の一環として大いに推奨されるべきだが、成長過程で起きた何らかの不都合から社会接触の機会を青年期に意識的に忌避する若者が増え、就労すべき成人期に必要な社会性を獲得できていないなどによる弊害が生じ、結果自身の社会に対する不満や不安を増長させ、挙句離職や不労、あるいは犯罪へと向かう傾向にあると分析されている。
「ふっはは、まるで我々が犯罪者予備軍みたいな言われようね」部長はワンレングスにした肩口までの髪をかき上げながら不敵に嗤う。
「部長! 笑い事じゃありませんよ。別にサブカルを支えているのは俺たちだけじゃない、立派な大人だって喜々として携わっていますよ。こんなのはごく一部の話だ、差別だ!」
「そう、創作物の影響により起こされたと見られる犯罪により、創作物が規制されるのは単なる責任転嫁よ。やり場のない無能どもの苦悶が因果関係を立証することなく、外見的印象と世論の空気感による単調な規制を施すことで脆弱なる市民感情の不安感は解消されてゆくのよ」
だが、と部長は舌で唇を濡らして説明を続ける。
何より深刻な問題は、彼らは社会との能動的な接触が働き始める中学期、高校期を経てもなお、空想の世界に理想を据え続け、自身の社会的立場、役割を顧みず、異世界から現実社会を見るような傍若無人さを非としない、承認欲求だけが肥大した自我を肯定し、相反する者を排他し、さらに自身らの思考行為を昇華と称し根拠のない全能感と選民意識を芽生えさせ、中二病あるいはそれが深刻化し高二病と俗に呼ばれる『妄想性自己倒錯』を併発するに至る。
この便宜上、俗に疾病とされる精神構造は成人になっても根治解消するのに相当年数がかかることが専門機関の調べでわかってきてはいるが、いくら社会的成功をみようと婚姻出産育児を経ようとも深刻な症例になると死ぬまで治らないと言われている。また、一見治っているかのような者であっても、たまたま触れた萌えキャラの一言で再発し、深刻なアナフィラキシーショックに陥り、より重篤な患者となることもある。
この場合最も困難な広汎慢性症状が永続的に固定され、社会離反せずとも継承された気質が細々と深みのある溝を形成して、二度とふさがらない傷となる恐れがある。最悪罹患者が指導者的立場であった場合パンデミックを起こすことすらある厄介な疾病である。
そういった者たちは、通常の就学、就労をしながらも、仕事に対する向上心がほとんどなく、自身らの奉賛する想像創作媒体への関わりを効率的に持つことができる手段とし、そこに所属しているのみで、収入の多くは想像創作媒体の購入、休暇や余暇のほとんどはそれらの閲覧目的に消費されている。
この異常な傾向は一般社会として憂慮すべき現象であり、将来的に財産や資産を形成を阻み、推奨される婚姻や、それによる家庭形成、子孫の繁栄を妨げ、社会の生産効率を落とす一因となっていると主張される。ひいては年金問題の深刻化、GDPの減少、社会保障負担の増加といった、現況でもままならない社会問題を助長させる恐れがある。
これが法案起草の原点であると部長は言う。
「要するに、いい歳して異世界ファンタジーなんかに憧れてちゃいけないってことかよぉ……」
机に突っ伏した小山田の向かいに座る木ノ下は、いじけて鉛筆で原稿用紙にぐりぐりと何重にも円を描いている。
メガネで色白で不健康そうな細身の木ノ下だが、実はこう見えて意外にアクティブな男で、中学時代異世界に行くため、真夜中の校庭に忍び込んでライン引きで転移法陣を一面に描いたという経歴がある。残念ながら式の発動直前で当直の用務員に発見され遁走、やむなく中止したと本人は語っているが、真相は定かではない。
もっとも彼がどこに行こうとして、どういった理屈で転移法陣を描いたのかは全くもって不明なのだが、いまも紙に描いていたのは法陣の一種だろうか。
「じゃあなんで成人になったらいいんだよぉ!」窓際に座る三条が頭を抱えてかきむしり憤慨している。
こちらは茶髪で背も高く、割にハンサムで、なんと彼女がいるという果報者だ。しかし一度話し始めると一時間以上俺に向かってタイムマシン理論を滔々と語ってくれる頼もしいSFオタクだ。さらにタイムマシンがあれば未来に行って『選ばれし者』として巨大ロボを駆り、戦国時代に行って天下を取るのだという壮大な夢を持っている。しかしなぜわざわざ戦国時代を制覇しにゆくのかは訊いたことがない。
「三条、解釈を間違ってはいけない。この規制法は想像創作媒体を十八歳以上から許可するのではなく、要するに『十二歳から十八歳までの六年間を想像創作媒体に触れさせない』ということなのよ」
部長は人差し指で長すぎる前髪を払うと、三条の方に目を向けて言った。
「部長、それはどういう意味なんですか?」
俺は拳を握り締め、斜陽に沈みそうな部室の備品である小説の棚を睨みつけた。
「私たちのような多感な時期に想像創作媒体に触れるとすべからく没入し、将来に尾を引く不適合人格をこじらせてしまうということを言いたいのよ。政府はね、私たちをまともな社会人として、国民として社会に出したいのよ。そのために想像や空想の世界が必要か、 答えは否。わかるでしょう? 男は心血を注ぎ労働に勤しみ家庭を維持、女は健康優良な子を産み育てる――ハッ、とんだ統制社会ね」
「そんな……決めつけだ!」木ノ下は拳で机を叩いて言ったが、桐生洋子は冷静に「総務省の統計データが出ているのよ」と言いのける。
「で、データが何だって言うんだよ……」俺は思わず言葉を漏らしていた。「非リア充……つまりこの盛りの絶頂ともいう時期にクラブ活動で汗を流しパトス沸き立つ青春を謳歌することもなく、太陽の下で海辺でビキニのお姉ちゃんのナンパに勤しみ迸るリビドーをまき散らすこともなければ、清涼な山の空気を胸いっぱいに吸い込み、リグレットに縁どられた自身のちっぽけさを内省することもない。友達も必要最低限しかいなければまして異性との交流も皆無、彼女彼氏がいる者をリアルに充実しているなどと弄し、自身らの倒錯に目を背けようとする……つまり――!」
俺たちは違う、そんな枠にはハマらない、そう言うつもりだった。だが俺の口から出たのは「俺たちみたいな奴らはこの国にとっては役立たずのクズでしかないと?」だった。
俺の自虐的な言説を、部長は薄い胸で精いっぱい受け止めるかのように腰に手をあてて屹立し、「国重、自己分析は結構だが、なかなかに辛辣な物言いだ。私は君のような部員を誇りに思う」と目を細めて微笑んだ。
部長、あなたは女性だが、あなたからは一切煽情的なものは感じていない。俺はあなたのそのたくましさに惚れたのだ。女としてではなく人として。だが、今のあなたの強さがこれほど恨めしいと思ったのは初めてだ。
「だけど……そんなことをしちゃ夢がなくなりますよ、この世から……」小山田が泣きそうな声を出す。
「世界は夢でできているのではないのよ、小山田。世界は夢のその先に在るもので形成されているのよ」
「夢のその先……?」
「夢は所詮夢、若者は夢に敗れるために生きている。挫折は夢が夢だったと認識するための崇高なる儀式よ。そう、大人になるための。――この世に都合のいいものは存在すべきだという認識を改めろ、君たちがこの先生きてゆくのは現実の世界だ――とね」
「くっ、くくくっ」と俯き口を開けないで腹だけで笑う三条は、ゆらりと立ち上がり、両手を舞台役者のように広げて「書を捨てよ、街へ出よ……ですか、そんな言葉に翻弄されるなんて部長も所詮は女なんですね」と寂しそうにつぶやいた。
「何を言う、私は――!」
しかし三条は歪めた顔を部長に向け、机に両手をついて声を張り上げた。
「この現実のどこに生きる価値があるっていうんですか! 女なんて現実以外の価値を人生のおやつ程度にしか捉えてねぇ。金か? 甲斐性か? なんだその一方的に求める男らしさってのはよぉっ!」
「三条……おまえ、まさか……」部長は目を見開き、しまったとばかりに唇を噛んだ。だが三条の弁は止まらない。
「高校生の夏といえば! ――夏といえばコミケだろうが! ……だがあいつは甲子園に行っちまったんだよ!」
「――三条!」
「サンちゃん!」
「ちっ、お前ら……そんな目で俺を見るな、余計惨めじゃねぇか……」
「くそ……三条、おまえは間違ってはいない。めぐりあわせが悪かったんだ……」どう取り繕うと無駄なことは分かっていた。
三条は俺たちの希望の星だった。非リア充属性でも彼女はできる、オタク系クラブに所属していてもなんとかなる、大事なのは内面だ、人間性だ、人格だ。ファンタジー世界でも剣や魔法の使い手だけが主人公ではないように、これまでモブ属性と呼ばれたキャラも主人公となって物語を紡げる時代だ。
それは三条の得意分野で言い表すならば、一般兵士用汎用量産機で敵の最新鋭機を窮地に追い詰める手練だ。そんな主人公に俺たち劣等者はとめどないシンパシーを抱く。だが今、まさにその幻想は崩れ去った。三条は知略と謀略を駆使し、不確かな実力で成り上がった上級士官のような男だったのだ。女という敵に懐刀を抜かれ、本質を見破られたのだ。果たして夏を越せなかった三条は男になれたのだろうか、俺にはそれだけが気がかりだった。
三条はがっくりとうなだれ斜陽に溶け込みながら床に膝をつく。それは奇しくも甲子園球場で敗退した高校球児が土を拾う姿にも似ていた。
「三条! 私を見ろ!」そう言って突然、桐生洋子は三条の胸ぐらをつかんで平手打ちを食らわせた。
場の空気が一瞬止まる。
「三条! 立て! 立つんだ!」
「――わかってますよ……ぶたなくったっていいでしょう」
三条は世捨て人のような生気のない顔を背けて応える。この世の全てが信じられない、彼は目はそう語っている。だが部長はそんな三条にさらに問い詰めるのだ。
「三条、訂正しろ! 私は甲子園の男のケツを求めたりはしない――ちがうか?」
「はっ……!」
思い出したかのように目を見開き、三条は部長に向き直った。
「…………っく……」
三条は数秒部長と向き合ったのち、彼女のペラい胸へと泣き崩れた。俺たちはそれを羨むことなく、悲痛な思いで見届けるより他なく、ただ時間だけが過ぎていった。
ややあって小山田が気づいたように上体を起こした。
「そ、そうだ、でも保護監督者の下であれば可能なんじゃ? ――ってことはこの部活動内なら松田先生がいるんだから問題ないんじゃないんですか? ねえ先生!」
小山田の言葉に、皆は一瞬色めき立つ。しかしその視線を一斉に浴びた松田先生は涙をぬぐいながらも渋い顔を隠さなかった。
「すまん。俺も……先生も、それは職員会議で具申した。だがな、ダメなんだよ。俺が顧問じゃ監督にならないだろうって……奴ら俺のことを嘲笑いやがったんだよ。文芸部は妄想族の巣窟だろって……そして君は“こじらせちゃった大人”だろうって……奴ら俺のことをずっと馬鹿にしてたんだよぉ!」
たしかに松田先生の授業はヨーロッパ中世史の行だけ微に入り細を穿っている。その中でもとりわけ魔女狩りと魔女裁判の資料は豊富で、どこから持ってきたのか視覚的資料は嫌というほど見せられたと二年の先輩が言っていたのを耳にしたことがある。
あと桐生先輩が“受験にほぼ関係のない昭和近代史と兵器考察に時間割くのはやめてもらえませんか”と詰め寄っているのも目にしたし、俺たちの時など“地球がポールシフトする以前の文明分布図を考察する”とか、粗末な鉄器を渡されて“コスタリカの石球レプリカを一年かけて作る実習授業”とかは現在も継続中だが、春の遠足では『失われたアーク』を探しに四国の剣山に登らされたこともあった。
松田先生は震える拳を握り、しぼり出すような口調で言う「俺は俺なりに今までの人生において、成人男性としての嗜みはこなしていると言って良いだろう」と。
三十八年の人生を刻んだ、その萎縮し崩れそうな身を精一杯に張りつめて一歩前に出る。そして最後の力を振り絞るかのように顔面をしかめて、俺たち全員に向かってはっきりとこう言った。
「お前ら……現実を見ろ、現実と肩を組め、現実にたたきのめされろ。空想や妄想や想像や理想や希望で脳を満たしている余裕が有るなら、知識と情報を蓄えろ。使えもしない荷電粒子砲の理屈を並べるくらいなら数学の公式の一つでも覚えろ。異世界転生して現地人に勇者だと讃えられ、いいように扱われこき使われるのが望みなら、ブラック企業に就職して、社畜として生きろ。ありえない女性像に自身の劣等感を上書きしてもらうくらいなら、バイトでもして風俗に行け、金額しだいでハーレムも可能だ――つまり……そういうことだ。だが今身の内に灯った火を忘れるな、細々とでもいい、その小さな火を絶やさず大切にするんだ!」
それは一人の大人として、一人の教師として、一人の社会に生きる先輩オタクとして、厳しくも苦渋に満ちた経験に基づいた生の、最後の俺達への言葉だ。さもなくば“俺のようになってしまうぞ”という最後通告にも聞こえた。
セピア色に染まる部室で呆然と立ちすくむ部長と俺、背を向け肩を震わせる松田先生。机の三人は夕日に照らされ、頬に涙の筋を作っていた。




