深夜の職場見学
十時過ぎのバスは混んでいて、シートは全部埋まっていた。
私たちは並んで吊革に掴まった。窓の外では道路を自動車のテールランプがのろのろと進んで行く。歩道を歩く人の方が速いくらいで、この渋滞では三十分では到着しないかもしれない。
「……何喋っていいか分かんねえな」
岳大は私と同じく窓へ目をやって、苦笑交じりに呟いた。
「とりあえず、ずっと連絡しなくてごめん」
「それは私もだよ。何か、うやむやなままほったらかしにしちゃってて……ごめんなさい」
私たちの会話は小声だった。前のシートの男性はこっくりこっくり舟を漕いでいるし、隣に立った女性は耳にイヤホンを突っ込んでいるので聞かれる心配はなさそうだ。
岳大は少し緊張が解れたみたいで、ぐるりと首を回した。
「絹が早々に第一志望から内定貰ってさ、でも俺の方はなかなか決まらなくて、イラついてだいぶ酷いこと言ったよな。愛想尽かされても仕方がない」
「謝んないで。私も岳大を責めることばかり言った。努力が足りないとか自己責任だとか……岳大の気持ちを理解することができなかったのね。結局、私は自分の方が大事だったんだよ」
「あの時はあれで正解だったと思う。俺に付き合って絹まで暗い気持ちで過ごすなんて意味ねえし、俺だってあのままじゃきっと絹に当たりまくってた」
強めのブレーキが掛かった。お立ちのお客様はご注意下さい、のアナウンスと同時に体が前方へ傾く。岳大の胸元に顔がぶつかってしまったが、彼は体重を支えてくれた。痩せているように見えて、しっかり筋肉のついた身体つきは変わっていない。
「ほんとはさ、絹にもっと頼ってほしかったんだよ。頼られる男になりたかった。でも絹はすげえしっかりしてて、真面目に将来考えてて……何つーか、隙がなかった」
「そ、そうかな……」
「それに比べて俺はフワフワしてただろ? 何社受けても駄目で、もう情けなくて不甲斐なくて、とても絹に合わせる顔がなかった。そんなふうに卑屈になってる自分も嫌だったからさ、ようやく内定取れてもおまえに話しかけられなかったんだ。現金な奴だと思われたくなくて」
私は体を離して、彼を見た。
「今は逆だね。私の方がフワフワしてる。自分がこれからどうすればいいのか、実はよく分かってないの」
「だったらさ」
彼は言葉を切って、眼鏡のフレームを鼻の上に押し上げた。少しだけ頬が赤い。
「今度こそ、俺に頼ってくれよ。まだ新入社員で偉そうなことは言えないけど、相談くらいには乗れる。悩んでること大変なこと、何でも話してほしいんだ」
「私は岳大が悩んでた時に支えてあげられなかったんだよ?」
「だからそれは俺が甘えすぎてたからだろ。絹は……いいんだよ、もっと他人に甘えても」
岳大はそれきり視線を逸らしてしまった。
目的の停留所までは、結局四十分ほどかかった。何人かの乗客とともに下車すると、夜の空気はひどく冷たく感じられた。
比較的新しい住宅街といった場所である。バス停はマンションやアパートに囲まれていて、一戸建て住宅は見当たらない。歩道には等間隔で街灯が設置されていた。
「五分くらい歩くよ――こっち」
岳大はごく自然に私の手を握った。その温もりは掌が覚えていた。
私は――動かなかった。
「……やっぱり帰るわ」
「絹……」
「気にしてくれてありがとう、岳大。でも、今あなたの気持ちに甘えたら、私いっぺんに駄目になる。今回だけじゃなく、次やその次や……永久にあなたに頼るようになりそう。それじゃいけないと思う。私の問題だから、私が解決したい」
バスの中でずっと考えていたことだった。頼ってほしいという気持ちは嬉しい。でもたぶん、今は駄目なんだ。誰かに寄りかかるのではなく、自分の足で立っていられる自信がつくまでは。
私は本当は弱くて甘ったれだから――楽な道は選ばない。これは自分で決めたルール。だって人間は最後には一人なんだから。
「永久に頼ってくれても……俺はいいんだけど」
「私は嫌なの」
「変わんねえなあ」
岳大は微笑んだ。街灯に照らされたその笑顔は、懐かしげでそして寂しげだった。
「じゃあ……そっか、これで終わりだな」
「うん……終わりだね」
「一緒にバスを待つよ」
「大丈夫、大通りまで出てタクシー拾うわ。もう行って」
彼は心配そうな顔をしたが、私は首を振った。キスもハグもしなかった。
私の手はぎゅっと強く握り締められ、頑張れよの言葉とともに解かれた。
岳大の姿が建物の陰に消えていくと、私は大きく息を吐いた。
寂しさとか悲しさは湧いてこなかった。ずっと気にかかっていた問題が意外と簡単に解決したような、少し拍子抜けした気分だった。楽にはなったけれど、どこか物足りないような。
私、隙がないのか――彼の言葉を反芻すると苦笑いが浮かぶ。
一人でしっかり生きるんだと心掛けているうちに、周囲からそんなふうに思われていたとは複雑な気持ちになる。まあ確かにその通りかもしれない。
岳大が家に誘ってきた時、いや本当は今夜の集まりに彼も来ると聞いた時に、こんな展開になると予想はついていた。そして、自分が雰囲気に流されてしまうんじゃないかということも。
岳大は社会人らしくはなっていたけれど、表情や仕草は変わっていなかった。二人で過ごした時間が次々に思い出されて、あの頃に戻りたいなあなんて望んでしまったのだ。
たぶんそれは恋愛感情ではなく、ただの代償行為だ。立ち位置が不安だから、足場を彼に求めているだけ。
「よかった、安全装置かけといて」
私は声に出して呟いた。何とか理性で押し止められたのは、ポリシーに照らして客観的に判断できたわけではなく、単にその『安全装置』のせい。
つまり、私は本日、死んでも見られたくないクソだっさいパンツを穿いている。
付き合っていた頃は意識的に可愛い下着を揃えていたので、岳大をドン引きさせること間違いなし。彼に対する恋心はもうなくなってしまったけれど、それを恥ずかしいと思うくらいのデリカシーは残っていた。
自分の行動パターンが読めすぎるのが悲しいが、結果オーライだ。私は気持ちを切り替えて、バッグからスマホを取り出した。
ここまでついて来てしまったのは、雰囲気に流されただけではない。岳大の住所を聞いた時、昼間SCのオフィスで目にした資料を思い出した。吸血鬼被害があったというお宅、この近くだったはず。理由の半分は、そっちに興味を惹かれたからだ。
岳大ごめん、と私は心の中で詫びた。
確か近くに郵便局があって……私は街灯の下でスマホの地図アプリをスクロールする。私が行ったところで何もできないのだが、みんながどんなことをやっているのか、こっそり見学できないかと企んでしまった。
お酒に弱い方ではなかった。でも、その時の私は少し酔っていたのかもしれない。街灯は明るいし、帰宅途中らしい人通りもぱらぱらとあったので、あまり不安は感じなかった。
場所の目星がつくと、私は小走りにそこへ向かった。
深夜の住宅街にガシャンという派手な破壊音が響いた。
街灯の灯りで街区表示板を確認していた私は、反射的に身を竦めた。音の方を見ると、すぐ目の前のアパートからガラス片が降り注いだ。三階の部屋から、窓枠と一緒に黒い影が飛び出してくる。
捻じ曲がったアルミサッシが落下してきて、私は慌てて飛びのいた。対照的にその影は音もなく着地する。すっと立ち上がった姿は確かに人間だった。
五メートルは離れていたが、灰色の長い髪と真っ白い顔が街灯に照らし出された。そいつはまるで引き寄せられるみたいに私の方を見る。私は動けなかった。
これが特種害獣――吸血鬼。
体つきからして雌だろうか。ワンピースなのか襤褸布なのか分からない物を痩躯に纏い、長い灰色の髪を振り乱していた。奇妙に赤い唇の端が捲れ上がって、二本の長い犬歯が剥き出しになる。
ごく平凡な日常風景の中で、いきなり遭遇してしまった異物。恐怖よりも違和感を覚え、ただただ茫然としてしまう。怖がればいいのか、逃げるべきなのか、それすらも分からない。
そいつがこちらへ向けて一歩踏み出そうとした時、足元で小さな閃光が弾けた。
同じ窓から二つ目の影が降りてくるところだった。それはアパートを取り囲むブロック塀をステップにして、ガラス片の散らばる路面にすとんと降り立った。
姿勢を戻すと同時に、右手に構えた拳銃のようなものをこちらに向ける――日下くんだった。
顔の半分は暗視ゴーグルに覆われているが、毎日一緒に仕事をしている私にはすぐに分かった。昼間と同じ格好で、腰の後ろに銀色のロープの束を吊るしていた。構えているのはUVIか。
彼もまた私に気づいて、明らかな動揺を見せた。
「おまっ……蓮村!? 何でこんなとこに……」
一瞬緊張が緩んだ隙に、そいつが日下くんに向かって突進した。
日下くんには動揺も躊躇もなかった。構えたままのUVIの引き金を引く。
そいつが直前でジャンプしたので、火を噴いたのはそいつの爪先だけだった。黒い煙を吹き出しながら、そいつは軽々と日下くんを跳び越えた。
日下くんは素早く身体の向きを変えてさらに発砲しようとしたが、そいつはブロック塀から電信柱、隣のアパートのベランダ、屋根へと飛び移り、人間ではとても追えない軌跡で逃げた。
「しくじった。獲物は西側のアパート屋上だ」
日下くんは耳に引っ掛けたインカムに告げた。たぶん九十九里さんへの連絡だ。
吸血鬼の黒い影が、アパートの屋根の上にちらりと見えた。あの運動能力なら、あっという間に屋根伝いに逃げてしまう。
その時、夜空から真っ逆さまに降りてきたものがある。
黒い塊にしか見えなかったが、月の光がその大きな翼を美しく艶めかせた。月が出ていたことに、私はその時初めて気づいた。
大きな鳥のシルエット――黒ミミズクだ。エリー?
夜の森に君臨する美しい生き物は、屋根の上の吸血鬼を攻撃しているようだった。頑丈な爪でそいつの頭を掴み、羽音も立てずに羽ばたいて体勢を変えては、鋭い嘴でそいつの喉元を突き刺す。
吸血鬼は腕を振り回して薙ぎ払おうとするが、ミミズクは巧みに距離を取り、鋭角に旋回して何度も襲った。
「くっそ……エリー、まだかよ……」
日下くんは焦りの混じった呟きを漏らした。
「え……何が?」
「さっさとここから離れろ。仕事の邪魔だ!」
彼は私の問いには答えず、険しい顔で叱咤する。ゴーグルの向こうでは、きっと三白眼が睨みつけているのだ。
キイーッという鳴き声がして、見ると、エリーが吸血鬼の後頭部を蹴り飛ばしたところだった。こんな声でも鳴くんだ、などと感心する暇もなく、吸血鬼は足元を踏み外して屋根から落下した。
落ちたのは建物の向こう側だ。日下くんはすかさず駆け出したが、
「ついてくんなよ! マジで危ないから!」
と、ちょっと怖いくらい厳しい口調で言い残していった。
だから、それ以上深入りするのを諦めたのに――。
――なのに、この有り様である。
太い道を外れて路地に入り込んだ私は、逃げ道をフェンスに阻まれた。向こう側は大規模マンションの敷地である。
もうよじ登るしかない。そいつはすぐそこに迫っている。スカートの裾なんか気にしている余裕はなかった。