二
昼下がりの電車に揺られながら、私はぼんやりしていた。
ようやく戻って来た日常――なのに何だろう、この胸に穴が開いたような気分は。厄介な繋がりを絶ちたかったはずなのに。
あれ以来、まだエリアスは戻らない。
故郷の居心地がやっぱり良くて、気が変わったのか。そういう事情ならば、挨拶くらいしに来いよとは思うものの、安心なのだが……。
帰って来たくても来られない状況だとしたら。人間に囚われ、手先となって同胞を狩り、あまつさえ人間の血を啜ったエリアスが、その罪により断罪されているとしたら。
「……あいつはそう簡単にくたばるタマじゃねえよ」
私はよっぽど暗い顔をしていたのだろうか。気持ちを見透かしたように、シートの隣に座った日下くんが呟いた。てっきり居眠りしていると思っていたから、少し驚いた。
ウィクトルの体組織を素に作られた抗生剤は、当然ながら日下くんにも投与された。残念ながら、今回は彼には効果は見られなかったようだ。エリアスの抗生剤が日下くんにしか効かなかったように、上位吸血鬼が素材だからといって誰にでも合うわけではないらしい。
でも日下くんに落胆の気配はなかった。自分に効かなくても、他に救われる患者は必ずいるからだ。
「おまえと繋がってるんだ。図々しく帰って来るさ」
彼はそう言って窓の外に目をやった。
目的の駅で電車を降りると、外はもう真夏の日差しだった。梅雨が明けたのは確か一昨日だったか。名実ともに新しい季節が到来したのだ。
ガラス張りのビルからの照り返しに目を細めつつ、私と日下くんは夏の都会を歩き始めた。日傘を持って来ればよかったな、とチラリと思った。
途中、コンビニでゼリーやプリンを買い込んだ。汗を掻き掻き十分ほど歩いて到着したのは、とある大学附属病院。都心にあるのに敷地には緑が多く、気の早い蝉の声が聞こえていた。
九十九里さんはここに入院しているのだった。
背中に杭が刺さった状態で搬送され、緊急手術を受けた。杭は脇腹へ貫通していたが、奇跡的に内臓や太い血管を傷つけずに逸れていたらしい。不幸中の幸いだった。環希さんがウィクトルの命令に必死に抵抗し、狙いを体の中心から外したんじゃないか……と考えるのは話が綺麗すぎるかしら。
とはいえ、重傷であることには間違いない。傷が塞がるまで一ヶ月の入院は必須。衰えた筋力のリハビリ期間を入れると、不自由な暮らしはもっと長く続くだろう。私にできるのは、気兼ねなく治療に専念してもらえるよう仕事を頑張るくらいだ。
外科の受付で面会の申し込みをし、首に吊るす許可証を借りた。
お見舞いに来るのは二回目なので勝手は分かっている。前回は九十九里さんが意識を取り戻した直後で、痛々しい姿でベッドから動けない状態だった。枕元で大泣きしてしまった自分が恥ずかしい。今はだいぶ回復し、車椅子で院内を動き回れるようになったと聞いている。
入院患者や看護師さんたちと擦れ違いながら、六階の病室へ向かう。個室だったはずだ。
今日お見舞いに行くことは九十九里さんに伝えているが、何時とは連絡していない。
「怪我人なんだから部屋にいるよ」
日下くんはのんびりしてるけど、着替えしてたり回診受けてたりしたらまずいなあ。
私の悪い予感は、当たった。病室のスライドドアをノックしようとすると、中から話し声が聞こえてきたのだ。先客がいたらしい。
私と日下くんは顔を見合わせた。その声は環希さんのものだったからだ。
遠慮することなんか何もない。笑って入って行けばいいのに――私はなぜかためらった。日下くんもそれは同じだったらしいけど、行動は違った。そろそろとドアを引いて、隙間に顔を近づけたのである。
「ちょっと、日下くんっ……」
シッと言った日下くんは、不届きな行為に悪びれるふうもない。
私は迷ったあげく、結局彼に並んで中の様子を窺った。病室のドアに二人して張りついてるなんて完全に不審者だ。病院スタッフに見咎められる前に止めないと……。
環希さんはベッドの脇にいた。パイプ椅子はあるが、赤いタイトスカートの後ろ姿は立ったままだった。横顔はどことなく沈んでいて――職場では見せない表情に、私はドキリとした。
そんな彼女を、ベッドで半身を起こした九十九里さんが見上げている。こちらは以前よりずっと血色が良くなって、元気そう。
「……君にお詫びは言わないわ」
環希さんは辛そうに、でも毅然とした声で告げた。やっぱり自分のしたことを悔やんでいるのだ。もしかしてようやく気持ちの整理がついて、九十九里さんに話せるようになったのかも。
九十九里さんはゆっくりと首を振る。髪が少し乱れていて、こちらも仕事中には覗かせない素顔が晒されているような気がする。
「環希さんには何の責任もありません。よく頑張ってくれました。あなたでなければ、とてもあそこまでは……」
「そう、そうやって私を責めないのが分かってるもの。私が詫びれば詫びるほど、九十九里くんは辛い。だから謝らないことにする」
気遣いに溢れた彼の返答を、環希さんは予想していたようだった。淡々と言い放ち、
「でも、私が九十九里くんを傷つけた事実は変わらないの。この……手で。どんな償いでもするわ」
そう付け足した。痛々しく震える声が彼女の自責の念を伝えている。
九十九里さんは苦い笑いを浮かべた。深い溜息とともに――。
「環希さんは知らないんですね。僕がどれだけたくさんのものをあなたから貰ったか――こんな傷、百回負ったって返し切れないほどだ」
「違う! 助けてもらってるのは私! 私の方こそ……」
「僕はね、環希さんがいるから迷わずに進んで行けるんです。環希さんが正しい方向を指し示してくれるから、僕は真っ当な人間でいられるんですよ。だから一生、傍にいるつもりです」
真っ直ぐな言葉だった。感謝と敬意と――紛れもない愛情の籠った眼差しを、彼は環希さんに向けた。
ああ、一生に一度でもいい。好きな人からこんな目で見詰められたらどんなに幸せだろう。私は感激してちょっと泣きそうになってしまった。
環希さんは両眉を上げて、焦ったようにそっぽを向いた。
「今そんなこと言うの……反則でしょ」
「いつでも何度でも言いますよ。本当のことですから」
九十九里さんは堂々としていた。しきりと自分の頬を擦っている環希さんとは対照的だ。
見ているこっちが照れるような沈黙の後、九十九里さんは腕組みをした。肩を竦める仕草は若干芝居がかっている。
「でも、そうだな、環希さんが償いに何でもしてくれるっていうのなら……」
環希さんの腕を掴み、耳元で何事か囁く。思い切り耳を澄ませたが、私には聞こえなかった。
環希さんは、至近距離で九十九里さんを睨んだ。
「……馬鹿!」
「駄目ですか?」
「だ、駄目じゃ……ないけど……まあ……」
「じゃ、早く治さないと」
うわ! 私は声を上げそうになった。
九十九里さんがさらに環希さんを引き寄せて、いきなりキスしたからである。ベッドの端に腰掛ける姿勢になった環希さんは、一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに彼の肩に手を添えた。
怪我を労わって優しく抱き合い、長い口づけを交わす彼らの姿を、私はそっとドアで遮った。
「……しばらく時間置くか」
日下くんの提案に異存はなかった。
歓談室の外はテラスになっていた。二階ではあるが、他の病棟がない方向に向かって突き出しているので、解放感は申し分なかった。緑地の向こうに都会の街並みが見える。
日差しは相変わらずきつかったけれど、私は構わず外に出て大きく伸びをした。
「やっぱり九十九里さんと環希さんは両想いだったんだねえ……」
決定的な場面を目撃してしまっては、もう疑いようもなかった。日下くんはペットボトルの水を飲みながら妙な表情をしている。やっぱり気づいてなかったな!
「そうじゃないかと思ってたの。今だから言っちゃうけど、私ちょっと九十九里さんに憧れてたんだよね。でも環希さんとなら、うん、凄く納得。お似合いだよ」
私はテラスの手摺りに凭れた。
「今回のことはさんざんだったけどさ、これをきっかけに二人が上手くいくといいよね。怪我の功名ってこういう時に使うんだっけ?」
「え……と、ごめん、蓮村、おまえ何言ってんの?」
本気で不審げな日下くんの反応に、急に不安になった。私もまた怪訝そうな顔をしていたのだろう。日下くんは首を傾げ、それからハッと目を見開いた。
「まっ、まさか知らなかったのか? あの二人……結婚してるぞ」
――はい?
私はぽかんと口を開けた。耳から入ってきた情報を脳が処理するのに数秒を要した。日下くんは畳みかける。
「いや、だから、夫婦なの。籍入れてんの。環希さんの本名は九十九里環希。旧姓の惣川は仕事上で使ってるだけ」
じわじわと意味が分かってくる。私はうろたえた。
「うううう嘘だ」
「ほんとだよ。SC立ち上げてすぐの話。俺、式に出たもん。あー……蓮村には言ってなかったか……法人登記とか見て知ってるもんだと思ってた」
「だって指輪してないし……」
「環希さん、金属アレルギーなんだって。メタルのアクセサリー着けてたことねえだろ?」
「だってあの二人、呼び方は他人行儀だし、九十九里さんなんか敬語だし……」
「知らねえよ。夫婦間のプレイ的な?」
比喩ではなく、私は膝から崩れ落ちた。驚きと混乱と、それから恥ずかしさ――誰か教えておいてよ、そんな大事なこと……事情を知らなかったせいで、これまでさんざん馬鹿なことを言ったし訊いたし考えてしまった。穴があったら入りたい。
恋人ではない、と睨んだ私の直感は当たっていた。それどころの話じゃなかった!
日下くんはそんな私を気遣わしげに見下ろした。
「残念……だったな。蓮村、九十九里さんのこと好きだったんだ」
「いや、何と言うか……」
九十九里さんとどうにかなりたいなんて気持ちは、とっくの昔に消えていた。むしろ彼と環希さんがくっつくところを見たかったのだ。恋愛ドラマのメインカップルを眺めるのに似ていた。立場上なかなか接近できない二人の態度にやきもきし、よしこうなったら私が一肌脱いで……などとお節介まで焼く気になっていた。
そういう心理を日下くんに説明するのは骨が折れそうで、私は口籠った。
すると落ち込んでいると思われたのか、日下くんは私の前にしゃがみこんだ。鋭い三白眼は普段通りだが、頬が少し強張っている。
「あのな……こういう時に言うのはめちゃくちゃ卑怯だと思うんだけど……」
「え……うん」
「ええと……九十九里さんと比べたら物足りないのは分かってる。でも、あの、蓮村、俺はさ……」
たどたどしく、歯切れが悪く、日下くんが何事かを口走りかけた時――。
私は立ち上がった。
彼の肩越し、夏の青空に黒い影が見えたからだ。
はっきりと形が分かる距離まで近づく前に、私にはそれが何だか分かった。頭皮が引っ張られるような、あの独特な感覚――懐かしい。
夜の闇を切り取ったような、黒い鳥。翼を大きく広げ、風に乗って滑り降りてくる。その丸い目が何色をしているか、確かめるまでもない。
颯爽と美しい姿に、私はただ見惚れた。
鳥は私の頭上を通り過ぎて、テラスの上を横切った。日下くんも立ち上がって見上げる。
「あいつ……やっぱり図々しい」
苦々しい口調だったが、口元は笑っていた。
それは――彼は上空で大きく旋回し、真っしぐらに下降してくる。私に向かって。翼の向こうに傾きかけた太陽が見えた。
私は思い切り両腕を伸ばして、肩に着地しようとした彼を抱き締めた。
ふかふかの丸い体が胸の中で暴れる。翼が私の顔をはたく。苦しい離せと抗議してるみたい。ギャアギャア騒ぐ彼に、私は頬ずりしてやった。
二週間前、別れの言葉は思いつかなかった。でも、今何を言うべきかは分かる。
約束を守ってくれた彼に。
「おかえり――エリアス!」
私は 私の相棒の帰還を、彼がいちばん望んでいる言葉で迎えた。