汝の欲するところを
扉を潜ると、病棟の廊下は薄暗かった。天井の照明器具に杭が突き刺さり、蛍光灯の破片が床に散らばっている。九十九里さんとウィクトルの死闘の結果だろう。
視界が覚束ないせいか、空気に混ざった焦げ臭さがよく分かった。何が燃えているのか、私はすでに知っている。あの感覚を思い出して、私は胸に手を当てた。
日下くんは扉から数歩の位置に倒れていた。
「く……日下くん?」
名前を呼びながら傍らに膝をつく。俯せに倒れた彼は、右手に蓋の開いたピルケースを握り締めていた。反応はないが、背中は規則正しく上下している。
よかった……エリアスと九十九里さんが時間を稼いでいる間に薬を飲んで、何とか発作を止めたようだ。
念のため仰向けにして鼓動と呼吸を確かめるも、異常はなさそうだ。傷だらけで、首に絞められた痕までつけた日下くんは、不思議と安らかに眠っていた。
あいつの言う通り、催眠症患者が捕獲員を務めるなんて本当は無謀なのだ。どれだけの硬い意志と努力を持って立ち向かっているのか、想像もできない。辛い記憶を抉られても折れなかった彼に対して、尊敬の気持ちでいっぱいだった。
「後でもうひと頑張りしてもらうかもしれない。それまで休んでて」
私は日下くんのほっぺたを軽く摘んで囁いた。
エリアスはもう少し奥にいた。
病室の引き戸に凭れて腰を下ろし、廊下に長い脚を投げ出している。まだその姿があることに、私はホッとした。俯いた横顔に白い髪が降りかかっている。右手は胸を押さえていた。
「エリアス、生きてる?」
私はしゃがみ込んで、彼の肩を叩いた。呼吸をしている気配が全然ない。灰になってないから、命は消えていないはずなんだけど……。
「……馬鹿、何で来た?」
ライトグリーンの瞳が、上目使いに私を睨んだ。続いて顔が上がる。いつもよりも蒼褪めて表情も薄く、作り物めいて美しい。強く触れたら途端に灰になって崩れそうだ。唇と下顎には乾いた血がこびりついていた。
「あんたが呼んだんでしょうが」
「呼んでない。あいつ、逃げたのか」
「環希さんを攫ってね。九十九里さんも大怪我をした」
「……最悪だな」
エリアスは咳込んだ。口から零れるのは灰ばかりである。胸の傷口は今や黒々とした大穴になり、下腹まで侵食していた。形を保っているのは皮一枚で、肉も内臓もすでに燃え尽きているのではないか――悪い想像が私の決断を促した。
「エリアス、私の血をあげる」
もう、それしかなかった。
吸血鬼の肉体を最も素早く回復させるのは、血――吸血鬼の血よりも人間の血だ。さっきのウィクトルを見て確信した。ほんの数秒血を啜っただけで腕一本が再生するのなら、もっと大量に提供すれば瀕死の体機能を救えるかもしれない。
エリアスはわずかに眉を上げただけだった。
「おまえ……正気か?」
「まだ勝負は終わってない。ここであんたを失うわけにはいかないの。ほら早く、飲んで」
私はブラウスのボタンを一つ外して、彼の前に首筋を晒した。怖くないと言えば嘘になる。でも今は他に選択肢がない。
それに――エリアスは安全なのだ。彼の体組織からはすでに抗生剤が作られている。日下くんに投与されているあれだ。咬まれて一時的に催眠症にかかったとしても、すぐに治療できる。
だから大丈夫、数時間だけ症状に耐えればいいだけのこと。環希さんや日下くんの苦痛に比べたら何てことはない――私は自分に言い聞かせた。
その理屈はエリアスも承知しているはずなのだけど、彼は目を逸らして、掠れ声で呟いた。
「やめとけ。後悔するぞ」
「やめとく方が後悔する! もうあんたしか頼れる人がいないし、それに……」
私は彼の顔を両手で挟んで、強引に自分の方へ向けた。
「今までに何度も私を助けてくれたでしょ。今度は私がエリアスを助ける番よ」
助けたい、と思った。吸血鬼だとか『厄災の声』の呪いだとか全部抜きにして。もっと言えば、貸し借りも利害も埒外に置いて。
エリアスが体を張って、私や日下くんを守ってくれたように。
吸血鬼全体のことなんて知らない。でもこれまでの付き合いで、少なくとも彼は信頼に足る存在だと分かった。良い奴も悪い奴もいる、人間と同じ。
種としては相容れなくても、個対個なら理解し合えるはずだ。
短い沈黙が落ちた。期待だか不安だか分からない気持ちで鼓動が速まったが、恐怖はもうなかった。彼を復活させなければ環希さんの奪還は叶わない。何の役にも立てなかった私の、これが唯一できることだ。
エリアスは、ミミズクの時と同じ射るような眼差しで私を凝視した。何か小さく呟く。
ありがとう、と聞こえたが、確かめる前に私は抱き寄せられていた。真冬の氷柱のような腕。首筋に触れる息も、静脈の位置を探る指先も冷たかった。
痛いのかな……痛いよね。献血の注射針は結構痛かったけど……いやあれは担当の人が下手クソな新人さんだったんだっけ。エリアスは百戦錬磨だ。心配ない……はず。
あーもう、さっさとやってくれ!
覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた時、
「おまえら勝手に何やってんだ!」
この上ないほど不機嫌な怒声が聞こえて、私はエリアスから引き剥がされていた。
二人揃って唖然と見上げると、眉間に皺を刻んだ日下くんが仁王立ちになっていた。
「日下くん……大丈夫なの?」
「おかげ様でな。ようやく頭がはっきりしてきた」
日下くんは髪をくしゃくしゃと掻き回して、苦手なコーヒーを飲んだ時みたいに顔を顰めた。
「蓮村、こんなことすんな。やめろ」
「だって他に手立てがないじゃない! あんなに駄目だと言われていたのに……私が環希さんを部屋から出してしまったからこうなったの。責任を取ってエリアスの糧になる。彼を復活させるのが私の役目よ」
「おまえの役目は他にあんだよ!」
彼は跪いて私と視線を合わせた。きつい三白眼が睨みつけてくる。
最初に出会った時、嫌な奴だと思った。でも今は、単に不器用なだけの純朴な兄ちゃんだと知っている。自分を抑えることも、他人を大事にすることもできる、優しい人だ。こんな素敵な人に出会えて、一緒に仕事ができて、私は本当にラッキーだったと思う。
切迫した状況にも拘わらず、私は何だか胸が温かくなった。今さらながら自分の人運の良さに感謝したくなる。
私がぼんやりしていると苛立ったのだろうか、日下くんは私の肩を掴んで顔を近づけた。灰と埃で汚れ、こめかみには派手に擦り傷ができている。
「確かに俺たちの最強の持ち札はエリアスだが、切り札は、蓮村、おまえなんだ。ここで離脱しちゃ駄目だ。責任を取ると言うんなら、自分にしかできないことをやれ!」
「わ、私にしかできないこと……って、でも……エリアスは……」
「人間の血なら誰のでもいいんだろ」
日下くんは手袋を取って、自分の左袖を捲り上げた。忌まわしい傷痕が四つも散らばった腕が露わになる。それをエリアスにぐいと突きだし、
「俺から吸え」
そう、言い捨てる。私はびっくりした。
「日下くん!」
「俺の体にはこいつの抗生剤が入ってる。咬まれたって何の影響もないはずだ。俺こそが適任なんだよ」
「だけど! 日下くんはあんな目に遭って……どんなに辛いか苦しいか知ってて……」
今でも悪夢にうなされ、その精神的な瑕疵が発作の引き金になるくらいだ。二度と経験したくないはず。それをどうして……。
思わず日下くんの腕を押さえた私の手に、彼の手が重なった。皮膚の冷たい、でも内側の血流を感じさせる強い手だった。
「前に言っただろ――蓮村を俺と同じ目に遭わせたくない。まだ自分で被った方がマシだ」
掌はしっかり私を捕えているのに、視線を合わせてはくれなかった。引き結んだ唇がかすかに震えている。
私はもう何も言葉が出てこなかった。かわりに喋ったのはエリアスだった。
「……早く決めてくれないか。こっちも限界だぞ」
他人事のような気軽さだが、彼の足先が崩れ始めていた。ぼろぼろの燃えかすになって灰が床に零れ落ちている。
日下くんは私を後ろに押しやった。
「俺だ。遠慮せずにギリギリまで吸え」
差し出された腕を、エリアスは見ていなかった。ためらっているのかと思ったら、そうではなかった。疲労に霞んだ表情が鋭利に研ぎ澄まされ、そして。
腕には目もくれず、いきなり日下くんの首筋に咬みついたのである。声を上げる間もない早業だった。
「ちょ……おまっ……」
日下くんは一瞬だけもがいたが、エリアスは彼の胴をしっかりと抱え込んでいる。獲物を鉤爪で掴んだミミズクそのものだ。すぐに観念したらしく、日下くんは歯を食い縛った。
私はただ見ていることしかできなかった。私の身代わりになってくれた日下くんを。彼に牙を立て、禁忌である人間の血を飲むエリアスを。
見届けなくてはいけないと思った。
ひどく長い時間に感じた。
天井を睨んでいた日下くんの焦点が徐々に合わなくなってゆく。顔色が蒼褪め、唇が薄く開く。細い吐息が切れ切れに漏れた。四肢は力を失って、エリアスに抱き留められていなければ倒れてしまいそう。
それでも、エリアスは彼を放さなかった。ごくごくと喉が鳴っている。まさか失血死するまでは吸わないだろうけど……。
「あの、もう危ないんじゃ……」
耐え切れずに声をかけた私に答えたのは、日下くんの方だった。
「まだ……大丈夫だ……続けろ……」
絞り出すように呟いて、目を閉じる。普段は罵ってばかりだが、彼はエリアスを信頼している。だからこそ、こんなふうに迷いなく血を与えられるのだ。
日下くんはぐらりと仰向けに倒れてしまったが、エリアスは覆い被さるようにして飲み続けた。
やがて――エリアスは顔を上げた。
荒い呼吸に肩を上下させながら、口元を拭う。白い頬に珍しく朱の色が浮いていた。
「……期待したほどの味じゃなかった」
「ばっか……やろ……せめて美味いと言え……」
寝そべったままの日下くんは弱々しい声で抗議した。薄目を開けてはいるが、体は動かないようだ。その左の首筋には二つの傷痕が生々しく刻まれている。
「なるほど……これは凄い」
しげしげと自分の掌を見詰めるエリアスは、今や鮮やかに回復している。焼け焦げていた胸の大穴は影も形もなく、所作は活力に満ちていた。完全復活なのだろう。
人間の血はかくも覿面に効くのだ――狂気と紙一重であるにせよ。
私はエリアスを押しのけて日下くんを覗き込み、すっかり冷たくなった顔に触れた。何とか体温を分けてあげたくて。感謝の気持ちを伝えたくて。
「日下くん……日下くん、ごめん……ありがとう……ごめん」
「……泣くなよ……俺死んでねえし。早く……ほら、行け」
「行くぞ」
エリアスは私の腕を取って立ち上がらせた。口調は冷淡でも、日下くんに向ける眼差しは柔らかい。
「冬馬、礼は言うが、まだ貸しの方が多いからな」
「みみっちい吸血鬼……」
日下くんはふっと笑って、目を閉じた。
角田さんが呼んでくれた医療班が、すぐにここにも来てくれるはず。私は無理やり日下くんから顔を背けた。
後でもう一度お礼を言うから――ウィクトルを捕えて環希さんを取り戻して、全部終わったよと報告するから。
エリアスに手を引かれて、私は廊下を駆け出した。零れた涙が渇くように、ずっと目を見開いていた。
「……で、どうしようか。まともに当たっても、人質がいるぶんあっちの方が有利だよ」
私の問いに、エリアスは振り返った。
「考えがある。チャンスは一度だ」
赤い瞳を嵌め込んだ目が、不敵に細まる。
彼は物凄く怒っているようだ。SCを蹂躙し、自分にあんな行為をさせた元友人に。
次話で第七夜終了です。




