冷たい太陽
病棟一階の北側を占めるその部屋は、リハビリ室と呼ばれていた。
比較的症状の軽い患者が、衰えた身体機能を回復、維持するために訓練する場所である。広いスペースには普段、歩行練習用の平行棒から筋トレマシンまで様々な器具が並んでいた。専門の療法士がサポートしているらしい。
しかし今はすべての器具が片付けられ、ガランとした空き部屋になっている。蛍光灯に照らされたクリーム色の床が、何だか寒々しい風情だ。
そこに日下くんと、少し遅れてエリアスがやって来るのを、私は入口上部のカメラを通して眺めていた。
二人とも厄介なお土産を持っている。ざっと数えて日下くんは九体、エリアスは十二体、吸血鬼たちを引き連れて来たのだ。屋内に侵入した個体はこれで全部のはず。彼らはわざと奴らの立ち塞がるルートを回って挑発し、追われた――いや、囮になった。
「ずいぶん多いじゃねえか。もっと減らせなかったのか、この役立たず」
日下くんは肩で息をしながら悪態をついた。
彼はここに来るまで数頭を仕留めている。数を減らすとともに、怒り狂った敵を引きつける作戦でもあったのだが、その代償に彼自身も少なからず負傷していた。激しい衝突であちこちに打撲を負っているはずだし、左の二の腕は服が裂けて血が滲んでいた。胸の辺りも破れていて。防刃ベストを着ていなければ正直危なかったと思う。伸縮性の杭はすでに折れてしまったため、途中で手放した。
「無駄な労力は使いたくない。血の臭いがすれば、こいつら絶対に追ってくる」
エリアスは涼しい顔で応えて、自分の手を舐めた。さっき狼の牙で傷ついた皮膚があっという間に再生した。言い分を信じるならば、意図的に治癒を遅らせて血の臭いを撒き散らしてきたのか。
二人が連れてきた合計二十一頭の吸血鬼は、示し合わせたわけでもなかろうに一塊になって彼らを包囲した。雄も雌も土気色の顔をして、目だけがギラギラ光っている。大きく開けた口から涎を垂らしている奴もいた。まさに化け物の群れである。
血を寄越せ――その欲望だけが伝わってきて、私の皮膚がピリピリした。エリアスの感覚を共有しているのだろうか。とにかく気持ちが悪い。
日下くんも、エリアスほど明瞭には分からないまでも、焼けつくような飢餓感を感じたらしい。嫌悪感に陰った声で、
「こいつら何がしたいんだ?」
「こちらの戦力を削げと命じられてるんだろうな」
「人間の血を啜ったら、命令を聞かなくなるんじゃなかったのかよ?」
「命令と本能の方向性が見事に一致している。とにかく血が吸いたいだけの駒だ。ウィクトルの奴、使い方を心得ている」
エリアスは本心から称賛しているみたいだった。
彼らは背中合わせの立ち位置で身構えた。包囲網はじわじわと狭まってくる。
「どうだ、この中にウィクトルはいるか?」
「いない、と思う」
「断言しろよ。うっかり殺しちまったら元も子もないぜ」
「大丈夫だ。あいつはそんなヘマはやらない」
「分かった、おまえ責任取れよ――蓮村、もう他に取り零しはないか?」
訊かれて、私は屋内の監視カメラ映像を確認した。外ではまだ乱闘が続いているけれど、建物の中には入っていなかった。
「……現時点では確認できません」
「よし、始める」
日下くんは短く言った。
その言葉を解したかのように、一頭が跳躍した。踊りかかってくるそいつをエリアスが一蹴する。床に叩きつけられた仲間を乗り越え、さらに次の奴が――。
日下くんは自分の左手首を見たまま動かない。彼のぶんまで四方からの波状攻撃を防ぎつつ、エリアスは急き立てた。
「さっさとやれ!」
「あ……これちょっとヤバいな」
焦ったような呟きが私の耳にも届いた。日下くんが弄っているのは腕時計ではない。左手首に巻かれているのは、リモコンだった。
「どうしたの日下くん、トラブル!?」
「反応しないんだ。さっきやり合った時にぶつけて壊したか……」
「えええっ」
そんな初歩的なミステイク! 日下くんは小さなスイッチを何度も押すが、ウンともスンとも言わない。かわりにエリアスが怒鳴った。
「調子に乗って暴れるからだ! おまえはいっつも詰めが甘いんだよ、まぬけ!」
「うるせえ。直接点けるから道空けろ」
日下くんの切り替えは早かった。立ち塞がる吸血鬼たちをUVIで牽制しつつ、出入口の扉へと駆けて行く。
紫外線を照射されて奴らは怯んだが、すぐに隙を狙って襲いかかってくる。エリアスが素早くフォローに入った。体当たりで押し止める様は、興奮したファンからアイドルを守る警備員のよう。ただしその腕力は凄まじく、押された体は天井近くまで吹っ飛び、掴まれた腕はたやすく砕けた。それでもすぐに立ち上がって向かってくるのだから、お互いに化け物である。
血生臭い騒乱の中、日下くんは機敏に身を躱しながら扉まで進んだ。
目指しているのは、壁に取り付けられたパネル――照明のスイッチだ。
手が届く瞬間、彼は勢いよく床に転がった。瞬きをする間もなく、降下してきた吸血鬼の脚が壁に大穴を開ける。両腕が蝙蝠の翼に変態している奴だった。
「くっそ……!」
片膝をついてUVIを構える日下くんへ、
「ほっとけ! 早く!」
エリアスは叱咤してから、蝙蝠の胴を抱えて引き摺り下ろした。他の奴らがわらわらとのし掛かってくる。彼の姿は群れの中に飲み込まれた。
日下くんは壁のスイッチに手を伸ばした。一頭が目聡く見つけて飛び掛かってくる。長く湾曲した爪が喉元を薙ぐ。
「焼け死ぬなよエリアス! 三、二――」
際どく躱した日下くんは、大声で叫んだ。二撃目が振り上げられるが動こうとはしない。
「一!」
カウントと同時に、日下くんの拳がスイッチを叩いた。
蛍光灯の無機質な明かりが、一瞬、点滅した。肉眼で捕えられた変化はただそれだけ。
しかし、奴らは激変した。
眼前で炎が爆ぜ、日下くんは腕で顔を庇った。
彼に肉迫していた吸血鬼の全身から発火したのだ。獣の咆哮を上げながらそいつは黒焦げになっていく。
他の奴らも同じだった。突如、いっせいに、一頭残らず、身の内から激しい炎を噴き上げた。
二十体以上の吸血鬼が燃え上がる様子は、まさに壮観。人型のトーチに照らされて、モニターの中のリハビリ室は真昼のような明るさだった。
天井一面に設置された、紫外線照射パネルの効果である。
パストラルホームで迎え撃つことが決まった時、日下くんがこのえげつない罠を提案した。ほんの数日で器具の準備と設置工事をやってのけたのは、SCの無茶ブリに慣れたヤマムロ・テクノロジー。卒なく仕切ってくれた守さんには感謝の気持ちしかない。
ちなみに、費用を負担したのは惣川製薬である。監視カメラの増設を含め、施設の改修名目で面倒を見てくれた。
病棟の天井全体にパネルを貼り付けるのが理想的だったのだが、さすがにそんな大工事をしている時間はなく、いかに効率よく獲物を罠に誘い込めるかがキモだった。その点ではほぼ満点と言えたのだけど――。
「おい、無事か?」
吸血鬼たちの灰が空気に充満している。日下くんは咳込みつつ、スイッチをオフにした。計画通りリモコンで点灯できていたら、エリアスの退避もしくは変身を待つだけの余裕があったはずだ。日下くんの表情に、作戦成功の安堵感はない。
私もモニターに顔を近づけた。部屋の中央に、炭化した吸血鬼たちが山積みになっている。エリアスはその中にいるはずだ。
「エリアス、返事して! 生きてるんでしょ!?」
祈るような気持ちでマイクに呼びかける。そんな簡単にくたばる奴じゃないと信じてはいても、灰色の不安が胸に広がった。
日下くんは気味の悪い人型の消炭を掻き分けた。強く掴むとあっという間に形が崩れてしまう。煙がもうもうと立ち込めた。
その時、濁った空気の中から黒い塊が飛び出した。力強く羽ばたく翼はミミズクエリーのものだ。
「……もう……脅かさないでよ……」
エリーは天井付近をぐるりと旋回して、お気に入りの場所、日下くんの頭に着地した。黒い羽は灰を被ってほとんど鼠色だ。吸い込んでしまったのかゲッフンと変な咳をして、その拍子に足を滑らせた。
鳥らしからぬトロさで転がり落ちたエリーを見て、日下くんはぷっと噴き出した。そのまま腹を抱えて笑う。鈍臭い相棒を嘲っているのではなく、安心したのだと思う。
死の静寂が落ちた部屋の中で、夏の日差しみたいに明るい笑い声だった。こんなに屈託なく笑う日下くん、初めて見たかもしれない。
「笑いすぎだ。変身があと一秒遅ければ死んでたぞ」
ミミズクから人型に戻ったエリアスは、不愉快そうに体の灰を払った。それから足元の燃えかすを蹴散らし、ああこれは駄目だ、と変形したインカムを拾い上げた。乱闘の最中、外れて壊れてしまったらしい。
「絹、道具なしでもだいたい伝わるな?」
振り返ったエリアスとカメラ越しに目が合う。そういえば、さっきから無線を介さず彼の声が聞こえてきている。
ああ嫌だ……ナチュラルにこんな筒抜けじゃ、プライバシーも何もあったもんじゃない。彼が意図的に繋げているのだと信じたい。
「日下くん、首尾は?」
九十九里さんの声が問いかけた。日下くんはようやく笑うのを止めて呼吸を整える。
「こっちは成功。二十一頭燃やした。片付けが大変そうだ」
「お疲れ様。でも浮かれてる暇はないよ。ウィクトルはまだ現れてないんだろう?」
「ああ……この中にはいなかった」
「近くに来ているのは間違いない。探すぞ」
エリアスはさっさと出口に向かう。九十九里さんは、
「二人で動くんだ。ここからは単独行動は慎むように。蓮村さん、映像に異常があったらすぐに知らせて下さい」
と、指示した。
二人が病棟を探索する間、私もあちこちの映像をチェックした。が、いっこうにウィクトルらしき姿は現れなかった。
屋外の捕り物はだいぶ落ち着いただろうか。角田さんたちに応援を頼んでもよい頃合いかもしれない。
映像を拡大するためマウスをクリックしようとした私は、ふいにその手に鋭い痛みを感じた。
「つっ……」
私はマウスを離した。右手の甲から血が垂れている。もうほとんど消えかけていた傷が、なぜか突然悪化したのである。
あの時の傷だ。環希さんのお見舞いに来て、ウィクトルと遭遇した時の――。
たった今引っ掻かれたみたいに生々しい傷口を、私は呆然と眺める。一呼吸の後、とてつもなく不吉な予感に引っ張られて、隣室のモニターを見た。
環希さんはベッドの上でもがいていた。
悪夢にうなされているとか、そんな生易しいものではない。仰臥した状態で両腕が激しく空を掻いている。肩ごと激しく首が揺れ、脚もジタバタと跳ね上がった。ワンピースタイプの寝間着の裾が捲れて、白々とした太腿まで露わになっている。何度も身を起こしかけるが、その度に叩きつけるような激しさでマットレスに沈み込んだ。
まるで――まるで、見えない何かに必死に抵抗しているみたいた。
ぐーっと環希さんの上半身が起き上がる。自律的な起床ではなく、首を掴まれて引っ張られたように不自然な動きだった。喉を反らせた姿勢で、彼女は苦しげにカメラを見た。
たすけて、と唇が動いた。
私は立ち上がり、椅子が倒れるのも構わずに部屋を飛び出した。
来ている――あいつはもう来ている! とっくに環希さんの元に忍び込んでいるじゃないか!
私が行って何ができるのかとか、九十九里さんに知らせるのが先だとか、そんな冷静な思考はぶっ飛んでしまっていた。とにかくいちばん近くにいる私が動かないと、環希さんは今度こそ――。
大事な人の危機を救えないのは、もうたくさんだ!
廊下に出た私は、躊躇なく隔離室の電子錠にパスワードを入力した。開錠の音を待つのももどかしく、それでも護身用のUVIだけは構えて、夢中でドアを開ける。
「環希さ……!」
私の声は途切れた。
ぞっとするほど端整な顔立ちの中で、赤い瞳が燃えている。私は、自分の胸を貫く黒い腕を見下ろした。




