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本領発揮

 何かが動いた気がして、私は緊急隔離室の映像に目をやった。

 ギョッとした。ベッドの環希たまきさんが半身を起こしていたのである。強い睡眠薬の効果であと八時間は目覚めないはずなのに。

 彼女は大きな目を開いて壁の一点を見詰めていた。美しい人形のようなその姿が、ふいに揺れる。華奢な体は小刻みに震え始めた。

 何か喋っているみたい。私は集音マイクをオンにした。


「……る……く……る……ここに……来る……」


 かすかな声はノイズに交じって聞き取り辛い。ボリュームを上げた途端、環希さんと目が合った。彼女が天井のカメラを睨みつけたのだ。


「あいつが来るわ! ここにいては駄目!」


 彼女は布団を跳ね除けてベッドから降りた。足元がふらついたが倒れなかった。こちらから――監視カメラから目を話さない。必死の形相だった。


きぬちゃん……絹ちゃん! ねえ、そこにいるんでしょう! 私をここから出して!」


 私は戸惑った。ウィクトルの接近につれて環希さんの状態に異変が起きるかもしれないと予想はしていた。その上で、何があっても彼女と接触してはいけないと九十九里つくもりさんに戒められている。

 音声のスイッチを切ろうとした時、環希さんは血を吐くように叫んだ。


「みんな殺されてしまう! 出して! お願い! 怖い……怖い……怖い!」


 喉元を掻き毟ると包帯が解けた。映像ではよく見えないが、青白い首には無残な傷痕があるはずだ。彼女はそこを押さえて顔を歪め、怖い怖いと繰り返す。

 絶対に追い返してやると息巻いていた女傑の名残りは微塵もない。ウィクトルから何らかの負荷を掛けられているのか、あるいはすでに乗っ取られてしまったのか――私には判断ができなかった。

 彼女はよろよろとドアまで歩いた。狂ったように叩き始める。病んだ女性とは信じられないほどの激しさ。鉄扉がドンドンと鳴り、その音は直接私の耳にも聞こえた。不吉な、心臓が掴まれるような響きだった。


「開けて……! 絹ちゃん、ここを開けて……助けて! 絹ちゃぁん……!」


 聞いちゃ駄目だ、と私は再びスイッチに指を掛けるが、オフにすることができなかった。環希さんの訴えは切なくて、息苦しいほどで、私の鼓動が激しくなってくる。


「九十九里さん……蓮村はすむらです。あの、環希さんが」


 どうしていいのか分からなくなって、私は九十九里さんに呼びかけた。


「様子が変なんです。いきなり目を覚まして、出してほしいと言っています」

「無視して下さい」


 彼の返答は短く、端的だった。氷の刃を思わせる声だ。


「錯乱症状は加害個体が近づいている証拠です。絶対に開けないで下さい」

「はい、でも……」


 私は横目で隔離室のモニターを見た。環希さんはドアを叩き続けている。


「彼女が何をしても相手にしてはいけません――もう少しの辛抱ですから」


 別のモニターで、九十九里さんが私を見詰めていた。厳しい口調に似合わず、眼差しは優しい。彼が私をここに残した理由を、その時に思い知った。

 私もまた守られている。九十九里さんはその背に環希さんと私の二人を庇っているのだ。

 足を引っ張ってはいけない――私は無理やり環希さんから視線を外した。





 日下くさかくんの方でも、始まっていた。


 外から三頭の吸血鬼が侵入した病棟南側へ、彼は素早く駆けつける。屋内はすべての照明が灯され、視界は良好だった。カメラは手前にあって、廊下の奥で彼と吸血鬼たちが対峙しているのが見えた。床でキラキラ光っているのは割れた窓ガラスだろう。

 一対三――明らかに不利な状況だ。

 日下くんは距離を取りつつ、奴らに向けてUVIを照射する。捕獲ではなく駆除が目的だ。手加減はしていないはずなのに、攪乱するように動き回る三頭にはなかなか当たらなかった。

 じりじりと押されている。攻撃しつつも、日下くんは廊下をゆっくりと後ずさっていた。

 カメラとの距離が半分ほどになった時、


「日下くん! 後ろ!」


 屋外のカメラ映像を見て、私は声を上げた。日下くんは迷いなくその場に身を屈める。

 次の瞬間、手前の窓ガラスが割れた。アルミサッシを蹴飛ばして、黒い影が二つ乱入してくる――新手だ! 日下くんの反応が一瞬でも遅ければ、体当たりを食らっていたか、窓枠の直撃を受けていただろう。


「ありがと、助かった」


 日下くんは短く礼を言ってくれたが、ピンチには変わりない。最初の三頭と飛び込んできた二頭に挟まれてしまったのだ。素早く距離を目測する彼を、合計五頭の吸血鬼たちは牙を剥いて威嚇した。

 明るい室内は外よりも映像が明瞭で、奴らの凄まじい形相がはっきりと確認できる。吊り上った目と真っ赤に裂けた口、尖った牙――人間の血の味を知っている奴だ、と私は直感した。

 ウィクトルはエリアスと同じ最高位に近い個体だから、分量を調整すれば人の血を飲んでも傷まずに済むのかもしれない。でも下っ端はやっぱり狂いかけてる。ウィクトルはきっと百も承知でこいつらを使っているのだ。自分以外はどうなろうと構わないから。使役されているこいつらは、ボスの真意に気づいたところで引き返せないのだろう。

 ほんの少し、憐れに思えた。


 私の感傷など無意味だった。

 新手の二頭は同時に床を蹴った。日下くんに向かって大きく跳躍する。奥の三頭も突進してきた。壁を伝い天井を這い、有り得ない角度から襲いかかってくる。


 日下くんは、手前の方を選んだ。左手にはすでに伸縮性の杭が握られていて、腕の動きに合わせて長く伸びる。前々から気づいていたけれど彼は両利きだ。右手のUVIで片方の吸血鬼を押し返し、もう一方に向かって杭を――しかし相手の動きが速い。刃物のような五指が日下くんの喉元を薙ぐ。

 日下くんは杭を横に構えて弾き飛ばした。ギリギリのタイミング。続く二撃目は上体を反らして躱す。不安定な姿勢は予備動作を兼ねていた。そのまま体を斜めにして、スライディングタックルの要領で足元を擦り抜けていく。前のめりになっていたそいつは防げなかった。奥から飛び掛ってきた三頭とぶつかり、吸血鬼たちは狭い廊下で団子のようになった。


 まんまと挟撃の間合いを脱出した日下くんは、立ち上がると同時に振り返ってUVIを構える。

 じっくり狙いを定めたようにも見えなかったのに、二頭が火を噴いた。一頭は心臓を貫かれたのか瞬時に灰になり、もう一頭は頭部が燃え上がった後に全身炎に包まれた。


「蓮村! 他に屋内に侵入してる奴いないか!?」


 残りの奴らが態勢を立て直す前に、日下くんは走り始めた。吸血鬼たちも後を追う。彼らは揃って映像から消えた。


「ええと……西側のトイレの所から一……二体。それと食堂の窓も割られそう」

「全部まとめて連れて行くから、道順をナビしてくれ。エリアスは?」

「まだ二階で揉めてる」

「ったく、使えねえトリだなあっ!」


 罵った日下くんの姿を、食堂前のカメラが捕らえた。彼は勢いよく引き戸を開けて、吸血鬼たちの待つ部屋へ飛び込んで行った。





 エリアスは二階で揉めていた。


 彼を取り囲む吸血鬼は、現在のところ四頭。いったん進入路が開かれると我も我もと押し寄せてくる。他にも割れた窓をめがけて壁をよじ登っている奴がいる。

 屋外でぞくぞくと捕獲報告が上がっているから、応援のオジサンたちがサボっているわけじゃない。絶対数が多すぎるのだ。これ合計で三十頭どころの騒ぎじゃないぞ。


「エリアス、数が増えてる。粘んなくていいから早く日下くんと合流して!」


 私が呼びかけた時、エリアスは一頭の喉を掴み上げていた。彼も頭に無線のインカムを着けている。


「こいつらが纏わりついてくるんだよ」


 相手の抵抗もどこ吹く風、力任せにその頭を壁に叩きつける。グジャ、と嫌な音をマイクが拾った。壁に広がった赤い花を、私は見ないように努力した。


「さっさと退けばいいでしょ」

「逃げるのはしゃくだ」

「退きなさい!」


 命令すると、彼は小さく溜息をついた。悔しげな表情である。

 彼の気持ちも分からなくはなかった。さっきから不快な雑音が耳に響いている。言葉ではない。きっとエリアスに向けられた敵意が伝わってきているのだ。人間の手先になったクラウストルムに対する恨みと憎しみと軽蔑と――あと何だこれ、気持ちの悪い……。


 別の奴が襲ってくるのを、エリアスは半歩動いただけで避けた。

 反撃はせず退却するつもり――だったのだが、その足が縫い付けられた。頭を潰されたさっきの奴が、痙攣しながらエリアスの足首を掴んでいたのだ。

 一瞬の隙を見逃さず、もう一頭が彼に掴み掛かった。

 その、腕――私はうわっと声を上げそうになった。

 黒い剛毛の生い茂った、獣の腕だった。よく見るとそいつの顔も変貌している。鼻面が長く突きだし、口は目元近くまで裂け、耳が三角形に尖った。これも部分変態なのだろうか。その姿はまるで架空のモンスター、狼男である。


 エリアスは足を止めたままそいつの攻撃を肘で弾き返す。だがそいつは怯まず、反対の手で彼の胸倉を掴んだ。雑魚よりも明らかに動きが速く、強い。

 乱杭歯の並ぶ獣の口がガバッと開き、エリアスの喉に食いつこうとした。


 血だ、血だ、クラウストルムの血だ――さっきから感じる不愉快な思考は、奴らの欲望だった。

 遥か上位の『門の番人』は、脅威であると同時に極上の獲物でもある。ヒエラルキーに逆行した吸血行為が禁忌であればこそ、堕ちた吸血鬼たちを惹きつけるのだろう。


「身の程知らずが」


 エリアスは低く吐き捨てた。両眼が赤く爛々と輝く。喉からは一滴の血も流れていなかった。両手で狼モドキの鼻面を掴んでいる。

 軽く脚を減り上げると、足首を掴んでいた死にぞこないは吹っ飛ばされ、他の奴を巻き込んで壁にぶつかった。


「だから堕ちた奴らは嫌いなんだよ。無礼で、愚かで――臭い」


 エリアスは獣の上顎と下顎をそれぞれ掴んで、上下に押し開けた。人の声と狼の唸りが混じったような悲鳴が上がる。関節がギシギシと不気味に軋む。

 大きな口は限界まで開かされ、ついにゴキンと顎が外れる音がした。たがエリアスは容赦しなかった。掌に牙が刺さるのも構わず、さらに――。


「うわっ……」


 今度こそ私は声を上げて目を背けた。耳を塞ぎたくなる絶叫とともに、狼モドキの口は引き裂かれ、上下に真っ二つになってしまった。頭部の上半分が背中に垂れ下がる様は、三角形の耳と相まってフードのように見えた。

 狼が立ったまま灰になるのには目もくれず、エリアスは手についた血を舐める。少し笑っているようでもあった。


「エリアス! てめーこら、何ぐずぐずしてやがんだ!?」


 日下くんの大声が耳を打った。私とエリアスは同時にインカムを押さえて顔を顰めた。


「早くそっちのを引き連れて下りて来い! うすのろ! トリ頭!」

「……泣かすぞクソガキ」


 エリアスは毒づいて、ようやくその場を離れた。次々と窓が割れ、新たな吸血鬼が飛び込んでくる。


「北側の階段を下りて。一階のリハビリ室で日下くんと合流よ」


 私は気を取り直してそう伝えた。





 隣室のドアが叩かれる音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 かわりに、カリカリ、ザリザリ――耳触りの悪い擦過音が伝わってきた。


 私は日下くんとエリアスの動向を気にしつつ、環希さんの映像を確認する。

 彼女はドアの前に膝をついていた。その両手は殴打を止め、縋りつくようにして金属の表面を引っ掻いていた。カリカリ、ザリザリ――。

 マイクは切っているので声は聞こえないが、口元が動いているのは分かる。私の名前を呼び、ここを開けてと訴えている。小さい女の子みたいに、今にも泣き出しそうな表情だった。


 頑張って環希さん、きっとみんなが助けてくれます、と励ましたかった。ガタガタ震える体を抱き締めて安心させてあげたかった。

 何もできないのが本当に辛い。


 再び目を逸らした先のモニターに、合流した日下くんとエリアスが映った。

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