地下室からの視線
日の入りの直前、私たちはロビーに再集合した。
最終打ち合わせが行われている間、ずっと応援メンバーからの視線を感じていた。敵意とまでは言わないものの、不審たっぷりの胡散臭げな視線。
正確には私ではなく、私の隣にいる奴に向けられているのだけれど。
「その男は信用できるんですか?」
質問のある方、という九十九里さんの問いに対して、一人が訪ねた。全員の顔がいっせいにこちらを向く。
私の隣で、人型に戻ったエリアスは眉一筋動かさなかった。動揺してないというか、もともと余所の捕獲員なんて眼中に入っていないみたい。
彼らの疑念は分かる。SC内でエリアスの存在はオープンにされていたが、敵対する害獣の同族である。容姿も身に纏う空気も異質な彼を目の当たりにして、不信感が抑えられられないのは当然だ。
「こいつなら危険はない」
意外にも、返答したのは日下くんだった。彼はどちらかというと面白くなさそうな口調で、
「俺たちは今まで何度もこいつに助けられてきた。ここにきて裏切る理由がない」
と、言い切る。エリアスはちらっと彼を見た。
「だが日下くんよ、相手は吸血鬼だぜ。いつ本性を現すか……」
「そんなのは俺がいちばんよく知ってる。あんたらの誰よりも身に染みてな。その俺が信用に足ると言ってるんだ」
吸血鬼の残虐性をリアルに体験した人間の言葉には、誰も反論できなかった。奴らを最も憎んでいるはずの彼が、エリアスを擁護したのだから。
「こちらには『厄災の声』もいます。彼のことは気にせず、各自作業に集中して下さい」
九十九里さんはあっさりと切り上げた。私についての情報もまた共有されているようだ。私に向けられる、パンダを見るような表情の意味が分かった。
まだ釈然としない雰囲気が漂っていたけれど、
「はい、みんな仕事仕事! 早い者勝ちの狩り放題だぞ。出遅れるな!」
角田さんがパンパンと手を打って、その場を閉めた。
捕獲員のオジサンたちは、しょうがねえなあと呟きながら解散する。さすがプロというか、武器を携えてロビーから出て行く横顔はみんな精悍だった。
「日下くん……」
エリアスを庇ってくれてありがとう、とお礼を言うのも変な気がして、私は言葉に迷った。日下くんは頭にインカムをつけながら鋭くエリアスを睨む。
「誤解すんなよエリアス、俺はおまえが嫌いだ。でもおまえが環希さんの……俺たちのために血を流した事実は認める。だから、その分だけは信用してやる」
「へえ、そうか。俺はおまえのその、面倒臭いところが結構好きだぞ」
「きっ……気色悪ぃこと言ってんじゃねえ! さっさと持ち場につくぞ」
エリアスが真顔でからかうものだから、日下くんは若干動揺して、そそくさと身を翻した。
あー、何と言うか……。
「今、冬馬のこと可愛いと思っただろ」
背後から耳元で囁かれて、私はギクッとした。エリアスは興味深げに私と日下くんの後ろ姿を見比べている。
「勝手に感情読まないでよ」
「そっちが垂れ流してるんだ」
「続きは後にしてもらえないかな」
九十九里さんが呆れたように口を挟んだ。吸血鬼の爪を遮る防刃ベストのファスナーを閉めてから、
「これは、エリアス、君に」
と、ある物を差し出した。エリアスは溜息混じりにそれを受け取った。
勇ましい眠り姫は、長い睫毛を静かに閉じてベッドに身を沈めていた。
「窮屈な思いをさせてすみません。もう少しで終わりますからね」
九十九里さんは優しくそう囁いて、環希さんの頬に触れた。
この場所に自らを閉じ籠めることは、むしろ彼女が積極的に望んだのだが、九十九里さんとしては悔しいだろう。
もとの病室は窓から侵入される恐れがあったため、環希さんは昼間の内に部屋を移された。事務棟の地下にある、この特別室へ。
私はぐるりと周囲を見渡す。六畳ほどの小さな部屋には窓がない。出入口はドアひとつ。ベッド以外の家具や設備もなかった。かわりに壁と床はふわふわとした布張りだった。全体が分厚いクッションで包まれているような。そして天井には監視カメラ。
緊急隔離室、と理事長は説明した。
催眠症患者は時間とともに身体活動が鈍くなっていくが、ごく稀に初期症状に似た躁状態を発症することがある。そうなった場合に、一時的に当該患者を隔離しておく場所なのだそうだ。柔らかい緩衝材で覆われているのは怪我を防ぐためだとか。壁を殴りつけたり頭突きをしたり、錯乱状態になった患者は自らを傷つけても暴れ続ける。
長閑に見えたパストラルホームの暗部を覗いた気がして私はゾッとしたのだけど、今回はその設備に救われた。地下に隠されたこの部屋ならば侵入経路が絞られ、警護が簡単だ。
それに環希さん自身の脱走も防ぎやすい。今は果敢に抵抗している彼女も、ウィクトルとの物理的距離が近くなると乗っ取られてしまうかもしれない――考えたくはないけれど。
強い睡眠薬で眠らされた環希さんは、胸の上下運動がなければ死んでいるように見える。私たちの動きを知られないための処置だったが、加害個体はもちろん、味方からも隔離された彼女の心細さを思うと、辛かった。
「環希さん、頑張って下さい。明日の朝ごはんはきっと一緒に食べられますよ」
そんなつまらない激励しか出てこなかったが、
「この近くにモーニングの美味しい店があるんです。みんなで行きましょう」
九十九里さんが賛同してくれた。
緊急隔離室を出て、分厚いドアを閉める。ロックはパスワード入力式の電子錠だ。
「じゃあ、蓮村さん、『目』の役目をよろしくお願いします。昼間テストした通りに」
「はい! お任せ下さい!」
自信なんて全然なかったけれど、他の返事は選択肢になかった。
九十九里さんは笑って――春の日差しみたいに穏やかに笑って、私の頭を撫でた。表情も仕草も落ち着いたものなのに、私はなぜか不安になった。
環希さん以外の事象すべて、自分自身にすら執着を失ってしまっているように思えて。
私は反射的にその手を握り締めていた。
「後で会いましょう九十九里さん、絶対に。誰かを犠牲にして助かっても辛いんですよ。それが大事な人ならなおさらです。環希さんに笑顔でおはようって言ってあげて下さい!」
環希さんを助けるのはもちろんだ。でも、九十九里さんが犠牲になってしまってはその勝利に何の価値もない。環希さんが誰よりも会いたいのは九十九里さんなのだから。
分かってるんだろうか、この人、そこのところ……。
私の勢いに驚いたのか、九十九里さんはちょっと口を開け、それから肯いた。頬の辺りにわずかな緊張が走ったのを見て、私は安心した。そう簡単に悟ってもらっちゃ困るんだ。
「蓮村さんも日下くんも……僕よりよっぽど強い。どんな時でも先を見据えてる」
「真っ当に歩いて来たなら、先へ続く道も間違ってはいないはずですから」
「敵わないな」
九十九里さんは軽く天井を仰ぎ、左手で首の後ろを掻いた。自嘲的な口調だったが、右手は私の手を力強く握り返してくれた。
「必ず無事で戻ります」
「おーい、こっちはスタンバイ完了なんだけどー」
わざとらしく間延びした声は日下くんのものだった。彼は地上階へ続く階段の所でこちらの様子を窺っている。エレベータは止めたので、環希さんの部屋に繋がる径路は実質この一本だけになっていた。
日下くんにも何か声を掛けたかったのだが、彼はなぜか私から目を逸らし、九十九里さんとともに階段を上がって行った。何だろう、日下くんも握手したかったのかな。
しばらくして、シャッターの閉まる音が聞こえた。
ひとり地下に残った私は、隔離室の隣にあるもう一つのドアを開けた。
隔離室よりはだいぶ広いが、机と機材を並べたので少々手狭に感じる。もともとは隣の患者の様子を監視……ではなく見守るためのスタッフ待機室だ。あの監視カメラの映像はこちらのモニターで確認できる。
だが今は、そこに十台以上のモニターがずらりと並べられていた。画面はそれぞれ四分割され、違う場所の映像を映し出している。ホーム内に設置された多数の監視カメラから送られてくる画像だった。
私はひとつ息をついて机の前に座り、頭にインカムを着けた。
「あー……皆さん聞こえますか? 管制の蓮村です。聞こえたら手を上げて下さい」
画像に移る捕獲員たちが次々に手を上げる。その中には日下くんと九十九里さんの姿もあった。日下くんは中庭を横切る渡り廊下で。九十九里さんは階段を封鎖した防火シャッターの手前で。
既存の十箇所ほどの監視カメラを五十台に増設し、その映像をすべてこの部屋で見られるようにしていた。屋内の廊下や階段に加え、屋外にも要所要所に配置されて、おそらく死角はない。もちろん照明の届かない場所は赤外線モードに切り替わっている。
私に任された仕事は、ここで全体の動きを把握すること。侵入してきた吸血鬼たちの位置と数をリアルタイムで直近の捕獲員に伝えて、効率的に作業を進めるのだ。まさに全員の『目』になる役目。
その場の判断で的確に動ける人間ばかりですから、細かく指示をしなくても大丈夫ですよ――なんて九十九里さんは言ってくれたが、やっぱり緊張する。私が誤った情報を伝えれば、それが彼らの命取りになるかもしれないのだから。
「現時点で各地点に侵入者は確認できません。そのまま警戒を続けて下さい」
と言ったつもりが、語尾が「くだしゃい」になってしまった。あちらからの通話はオフのままだったが、画面の中でオジサンたちが笑っているのが見える。角田さんが頭の上で大きく丸を作った。不覚!
でもまあ、何だか肩の力が抜けた。私は背凭れに身を預けて、強張っていた両肩を揉み解しながらモニターの監視を続けた。
始まりは、唐突だった。
外からの侵入者を見逃すまいと、私は外壁沿いのカメラ映像を見詰めていた。
パストラルホームの敷地を囲む塀はさほど高くはなく、生垣になっている場所もある。さすがにブロック塀を増築する時間的余裕はなくて、そのかわりに侵入が容易と思われる部分に重点的に人員を配置した。乗り越えてきたところを引き摺り下ろして袋叩きにする――つもりだったのだが。
「えっ……?」
私は声を上げた。
正面玄関付近、来客用駐車場の所に黒い影が立っていた。塀からは数十メートルも内側の地点だ。そんな馬鹿な!
私は慌ててその画面を拡大する。全身黒づくめの衣服と蝋のような顔色は確かに吸血鬼だ。
どのカメラにも侵入する姿は映っていなかった。屋根の上に潜んでいた? いや、広い敷地の外側から建物に飛び移るなんて芸当、いくら吸血鬼でも無理だ。地面から湧いて出たのか?
考える暇ももどかしく、私は全員に向けて通話スイッチをオンにした。
「侵入者です! 正面玄関の南側……ええと、平面図D3の駐車場!」
「何だって!? 数は?」
D区画を受け持っているグループから応答がある。一体、と答えようとして、私はまたもや声を上げた。
もう一体、別の影が現れたのである――上から。
そいつは異様な風体をしていた。人の形には間違いないのだが、両肩から伸びているのは腕ではなく、どう見ても翼――それも蝙蝠の翼だった。肘にあたる部分から細長い五指が伸び、その間の薄い皮が脇まで繋がっている。
続いてもう一体、二体……最初の奴と併せて合計四体の吸血鬼が、何もない上空から降下してきたのである。
化け物めいたそいつらの翼は、役目を終えるとはみるみる人の腕に戻った。
「……全部で四体。翼を使って空から滑空してきました。部分変態の可能な、中位以上の個体と思われます」
私は震える声を抑えて告げた。