ショー・マスト・ゴー・オン
蓮村さんの遺伝子を解析したところ、一部に吸血鬼のそれと共通の塩基配列が見られました――先日とき子理事長からそう説明された際、私は意味が分からなかった。質問できるまで数秒を要した。
「私の先祖に吸血鬼がいるということですか?」
「率直に申し上げると、その通りです。お母様方の家系ね」
「はあ……心当たりがありません……」
親戚筋の顔を思い浮かべならぼんやり言うと、理事長はクスリと笑った。
「お祖母様とか曾祖母様とか、そんな最近の話ではないわ。おそらくは二十世代以上前……」
何百年前の話だ! そんな遠い祖先に吸血鬼がいると言われても、まったくピンとこない。家系図が残っているような大層な家柄でもないし。
エリーはテーブルに跳び乗って、広げられた資料を興味深げに眺めていた。分かるんだろうか。
彼……というか吸血鬼にとっても新事実なのかもしれない。彼らに服従の呪いをかけられる存在の正体が。
「『厄災の声』は吸血鬼との混血の末裔だったってことですか?」
「他のサンプルがないから断定はできないけれど」
『厄災の声』は、人間が吸血鬼に咬みつくという特殊な状況下でなければ現認されない。遺伝子検査を行った例など皆無に等しいのではあるまいか。私、世紀の新発見になってしまったのでは……。
ようやく事態が飲み込めてきて、エアコンの効いた理事長室で変な汗を掻き始める。
「で、でも私、別に血を吸いたくなんかなりません。傷の治りは普通だし、もちろん太陽光も平気だし……あっ、大蒜も大好きです! 何かの間違いじゃないですか?」
「そういった形質は、世代を重ねるごとに失われていったのでしょう。最後に残ったのが、咬んだ相手を服従させる能力です。それも強力な。もしかすると、これこそが吸血鬼を吸血鬼足らしめている本質なのかもしれませんね」
なるほど……一世代目は陽光を怖がったり治癒能力が高かったりしたかもしれないが、その後吸血鬼の血が薄まるにつれて限りなく人間に近づいていったというわけか。だけど、人間社会ではそうとうに疎外されたんじゃないだろうか。よく現代まで子孫を残せたものだ。
時間的な隔たりがありすぎて、私はどこか他人事のように考えてしまう。とても自分に繋がっているとは実感できなかった。
「蓮村さん、お母様方にご親戚はいらっしゃる?」
尋ねられて、私は肯いた。
「可能なら、その方も検査をさせて頂きたいわ。蓮村さんの検査結果と比較すれば、さらに詳しい分析ができます」
「分かりました。今度話してみます」
これでもう叔母に現況を隠しておけなくなったこと、そしてエリアスとの腐れ縁を切る方法はどちらかの死しかないこと――二つの現実を突きつけられて、私は頭を抱えたのだった。
吸血鬼を服従させられるのは吸血鬼だけ――ごくシンプルな理である。
何百年も前の話だ。吸血鬼と人間が子を儲けた事情も、そこに係わった者たちの思いも、今となっては分からない。悲劇だったのか喜劇だったのか、今さら想像する必要もないように思う。
私自身のアイデンティティも揺らいでいない。遺伝学上の歴史よりも私個人の歴史の方がずっと重く、現実感があった。ただ――少しだけ吸血鬼への見方が変わった。
人間と吸血鬼は、必ずしも羊と狼の関係とは限らないのかもしれない。
交配ができるほど近い生物なのなら、関係性を逆転させることも、あるいは共存することも可能なのかもしれない。
「人間相手に欲情した好き物がいたというだけだ。胸クソ悪いがな」
エリアスは私の感慨をぶち壊すようなセリフを吐き捨ててから、未だに笑い続けるウィクトルに溜息をついた。
「笑いすぎだ」
「いや、あんまり皮肉でね。私たちの厄介な本能が、よりにもよって人間に受け継がれていたなんて――そんな脆弱な肉体の中に」
ライトグリーンの瞳が、明らかな軽蔑を籠めて私を射た。ウィクトルは何とか笑い止んだが、それでも肩を震わせている。
くそう……何とでも言え。私だって本当はまだ納得してないんだ。
「だから君はその人間に肩入れしてたのかい? 同族の臭いを感じ取って」
「ウィクトル、これが最後の警告だ。手を引け。血だけ残して立ち去れば見逃してやる」
エリアスは彼の揶揄を無視して言い放った。これ以上『厄災の声』について議論する気はなさそうだった。
「おまえはその馬鹿にしている人間の血を使って本能から自由になりたいんだろうが、無謀もいいところだぞ。自分が初めての反逆者だとでも思ってるのか? 過去に同じことをした奴は皆潰されるか、自滅している。おまえが求めているのはな、魚が泳ぐのを嫌って空を飛びたいと願うのと同じことだ」
ウィクトルは纏った空気をすっと変えた。暗く、冷たい声で言い返す。
「私からは最初の警告だ、エリアス。追放者の分際で知ったふうな口を叩くな。一人だけ悠々と空を飛んでおきながら、他者にはそれを許さないというのか?」
彼の表情は憎々しげで、それでいて羨ましげで――こいつは本気でエリアスの立場をそう評しているのだと分かったとたん、
「ばっかじゃないの!?」
私は思わず口を挟んでいた。もちろん日本語だったが、ウィクトルは剣呑な目つきでこちらを見る。まるで虫ケラでも鬱陶しがっているように。私は怯まなかった。
「あんた、ほんとにエリアスが気儘に生きてると思ってんの? その目は節穴? 人間の小娘に鎖をつけられて宿敵に使役されて、自由なわけないじゃない。代わってみれば?」
エリアスが止めなければ奴の前に飛び出していただろう。そのくらいの怒りが湧いていた。
現在のエリアスの在り方は決して自然なものではない。たくさんの不本意を飲み込み、譲歩して妥協して、ようやく生きられる場所を確保したのだ。
まあ私のせいなんだけど……その罪悪感のせいか、ウィクトルのやっかみが救いようもなく浅薄に思えて腹が立った。
「エリアスはただ順応しただけ。克服できることと受容することをきっちり見極めて、無駄な力を使わずに人間社会を泳いでんのよ。自分の世界ですらそれができないのなら、単にあんたが無能なのよ!」
私は一息に捲し立てた。ウィクトルが不愉快そうに牙を剥いても、不思議と怖くはない。
「逃げるだの反逆するだの、あんたの理屈に興味はない。『こちら側』に危害を加えるのなら駆除するだけよ。それが私たちの仕事だから!」
「絹……いい加減黙れ。これは俺たちの喧嘩だ」
私を背後に押しやったエリアスは、すっかり毒気を抜かれていた。疲労感さえ漂わせ、
「……だ、そうだ。どうする?」
「その小娘、『あちら側』への手土産にすればどうだ? 研究者どもが喜んで切り刻むよ。君の追放処分も解けて一石二鳥じゃないか」
タン、と床が鳴った。次の瞬間には、エリアスはウィクトルに肉迫していた。趣味の悪い煽りを受けて、説得は無理と悟ったのか。
高速で突き出される腕を往なし、反対側から跳ね上がった膝蹴りも避けて、ウィクトルは後退した。エリアスは距離を開けずに突っ込む。紙一枚の隙間を開けてウィクトルが躱せば、その体重移動を読んでいたようにエリアスが攻める。
彼らの攻防はあまりに速くて近接していて、まるで示し合わされた演武のようだった。
これで本調子じゃないなんて嘘だろ――私は半ばあきれて眺めていたが、我に返り、床からUVIを拾い上げた。
「エリアス! 避けて!」
叫びつつ、ウィクトルに向かって引き金を引く。出力の弱い護身用だから、心臓を撃ち抜かない限り致命傷は与えられないはずだ。
二人は同時に反対方向へ跳んで避けた。
床に転がってからすっくと立ち上がったエリアスは、私に向かって牙を剥いた。
「危ないだろうが!」
「頭下げて!」
もう一発! 今度は連続照射モードだ。一撃で当たらなくても、照射しながら照準を修正できる。
ウィクトルはロビーまで後退し、そこにあったテーブルを蹴り上げた。直立した薄い合板が紫外線を遮る盾となる。さらに彼はそれをこちらに向かって投げつけてきた。
いったいどんな筋力をしているのだろうか。空気抵抗も重力も無視して、テーブルがまっしぐらに飛んでくる。それを一蹴りで粉砕したエリアスも同類だけども。
私たちから距離を取ったウィクトルは、空中で何かを掴む仕草をした。彼の拳に闇が集まってくる――そう見えた。相対的に周囲は明るくなってきた。
「後日、万全の状態で改めて参上する。もてなしは不要だよ」
「杭と炎で歓迎してやる、変態」
エリアスが語尾に被せるように罵ると、彼は不敵に笑った。
集束した闇は、マントのようにウィクトルの体を覆い隠す。二、三度波打って、すうっと光に溶けてしまった。
窓から薄日が差し始めた。いつの間にか雨が上がっていたらしい。廊下の先で上がった悲鳴は、無残に壊れたテーブルを発見した看護師さんのものだろう。
隔絶されていた空間が繋がったのだ。
すでにミミズクに化けたエリーは、私の肩で羽毛を膨らませている。まだ興奮が冷めない様子だ。私もそうだった。初めて自分の手で特種害獣を撃とうとしたからだろうか、心臓が跳ね血液が全身を駆け巡り、ある種の爽快感を覚えていた。
自分自身を落ち着かせるためにエリーを撫でてやると、指先を齧られた。
「何よ? UVIを向けたこと怒ってんの?」
エリーは半目になって私を睨み、それから私の手の甲に頭を擦りつけた。さっきウィクトルに引っ掻かれたところだ。
無茶するな――言葉はなくとも伝わってくる。文句を垂れつつも、一応私を気遣ってくれているみたい。ちょっと嬉しかった。
ありがと、とお礼を言ったら、エリーはホッホウと高らかに鳴いた。これは「土産の紙袋を忘れるな」という意味だった。
オフィスに戻って一連の出来事を報告すると、九十九里さんも日下くんもまずは私の無事を喜んだ。しかし日下くんはすぐに怖い顔になって、エリーをシャーペンでつつき回した。
「おまえ何やってんだよ! 蓮村に怪我させやがって……居眠りしてたのか?」
いや、エリアスが助けてくれたことはきちんと話したんだけど……それに大した傷じゃないし……なんて言っても聞く耳持ちそうにない。エリーも負けずに日下くんの腕を蹴っ飛ばし、嘴をカチカチいわせて威嚇している。
デスク越しに睨み合う一人と一羽は放っておいて、九十九里さんはふうと息をついた。
「やはりウィクトルは全快していなかったんですね?」
「ええ……そのようです。本気で私たちを攻撃したり、環希さんの所へ押し入ろうとする素振りはありませんでした」
「それは重畳」
彼はにっこり笑った。優しげな微笑みであるが、静かに燃える闘志を感じさせる。奴の再訪が確定したのだ。待ち構えて、仕留める――狩人の腕の見せ所である。
でも勝てるだろうか……以前は、彼ら二人にエリアスを加えても、手下を巧みに操るウィクトルに翻弄された。今度だって奴が一人で来るはずがない。
私の不安が伝わったのか、九十九里さんは笑みを深くした。
「こちらも万全を期します。頼りになる応援を呼びました」
「応援?」
「日下くん、罠の方は君に任せたよ」
「ああ、明日、守さんと一緒にパストラルホームに行ってくる。現場確認して、配電に問題がなければすぐに設置できるってさ」
日下くんはエリーの首根っこを押さえつけながら答えた。
私の知らないところで準備は着々と進んでいる模様――頼もしくはあるが、さて、私が役に立てることってあるのだろうか?
そして五日後――。
私はパストラルホームで日の入りを待っていた。
雨は昼過ぎに止み、大気に籠った湿度が夕焼けをますます赤く滲ませていた。さほど暑くはないが、空気が肌に纏わりつくようだ。
「蓮村、そろそろ行くぞ」
並んで空を見上げていた日下くんが、私を促す。私は緊張を飲み込み、肯いた。肩に止まったエリーが体を解すように羽を伸ばす。
渡り廊下を通って事務棟に戻った。ロビーでは、すでに私たちを除く全員が集まっている。
中央にいる九十九里さんは、
「では、本日のプランの最終確認を行います」
全国のSC支部から応援に来た二十二名の捕獲員を前に、彼らしい淡々とした口調で告げた。
第六夜 了