平穏なる牧羊生活
現場での荒事は私の管轄外だった。私は単に内勤のアルバイトで、事の顛末を報告書に纏めるのが仕事のはず――なのに。
いったいこの状況は何なんだ!?
私は眼前に迫ったその生き物を呆然と見返した。
遠目に見れば人間と変わらない形と大きさだが、近づくとその異質さが際立つ。黒い服だか布だか分からないものを纏っていて、そこから覗く腕や首は目に焼きつくほど白い。生まれてから一度も日に当たったことがないみたいだ。その表情は、眉も目も口角も顔中の線が全部吊り上っているにも拘わらず、何ら感情を感じさせなかった。獲物を捕らえた肉食動物が笑わないのと同じ。
ただその目が――私の体は恐怖で凍りつく。
そいつの目は、石榴の実のように真っ赤だった。敵意でも殺意でもなく、もっと原始的な欲求のためにギラギラと燃えている。
飢えている――私は直感した。
あ、私の人生これで詰んだ。
新生活はまずまず順調と言えた。
私のSCでの勤務時間は九時から十六時まで。だいたい八時四十分頃にはオフィスに到着する。
「おはようございます、蓮村さん」
「おはようございます!」
九十九里さんはすでに出勤して、デスクでコーヒーを飲みながら新聞を広げている。丁寧に挨拶してくれる笑顔は本当に爽やか。身だしなみに隙はないし、眠そうにしていた例もない。パソコンやスマホではなく紙の新聞を持ち込んで読んでいるところが、何となく余裕のある感じ。職場で朝イチに顔を合わせるのがこの人で幸せだなあと思う。
九十九里さんてどこ住みだろう。今度訊いてみよう。
私がキッチンで台拭きを洗ってデスク周りを拭こうとすると、彼は苦笑した。
「あ、いいですよ、定時になってからで」
「さっぱりした机で仕事を始めたいですから。時給は請求しませんよ」
「すみませんね……蓮村さん、きちんとしてらっしゃるんですね。整理整頓が上手いし、書類の分類も丁寧だ」
「まだ言われた通りにやるのが精一杯です。せめて身の周りくらいは綺麗にしておかないと」
独り暮らしが長いせいか、掃除や整頓はちゃんとやらないと気が済まない性格になってしまった。自分でやらないと誰もフォローしてくれないのだから仕方がない。一度サボると際限なく汚くなってしまいそうで嫌なのだ。
ついでにキャビネットの上も拭き終わった頃、ありがとうの言葉とともに九十九里さんがコーヒーを出してくれる。お客様用のレギュラーコーヒーをこっそりと。彼が淹れるコーヒーは神がかって美味しい。日下くんの雑な淹れ方とは大違いだ。
「そうだ、今度蓮村さんの歓迎会を企画したいんですが――ご迷惑ではありませんか?」
問われて、私は少し驚いた。
「嬉しいですけど……そんな気を遣わなくていいですよ。私、アルバイトだし」
「いえいえ、アルバイトでも職場の親睦は大切です。あ、無理にアルコールを勧めたり余興を強要するようなことはありませんので、ご安心下さい。もちろん不都合があれば断って頂いて構いません。勤務評価には一切影響しないと保証します」
九十九里さんがあまりに慎重な言い回しをするので、私は思わず笑ってしまった。最近は新人を飲み会に誘うのも結構大変そうだ。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて」
「よかった。実はね、環希さんに早く開催しろとせっ突かれてたんですよ。あの人、若い人とお酒飲むの大好きだから。いつがいいですか? 苦手な食べ物はあります?」
こんな感じで、始業前は九十九里さんとまったりするのが普通だった。
この日は歓迎会の話題が上ったけれど、彼は基本的に会話を押しつけない。かと言っていたたまれない沈黙が続くわけでもなく、他人との距離の取り方が上手なんだなあと思う。要するに世間慣れした大人なのだ。
たまに彼が朝から出先に直行する日もあり、その場合は私が一番乗りになる。玄関の鍵と機械警備のカードキーは貸与されていた。コーヒーを飲んだり、日によってはコンビニで買ってきた朝ごはんのパンを齧ったり、契約時間になるまでは自由に過ごしているのだが、ひとつだけ頼まれている作業があった。
それは奥の役員室の窓を開けること。
ブラインドを引き上げて、掃き出し窓のアルミサッシを開くと、ベランダではあいつが待っている。エアコンの室外機に偉そうに止まっているのは、黒ミミズクのエリーである。
どうやら夜間は外へ出されているらしく、夜の散歩を終えてご帰還してくるわけだ。慣れたもので、窓を開けると同時にためらいなく室内へ飛び込んで、いつもの場所、ポールの止り木に戻る。
指示されたままにやっているけれど、これいいのかなあと、私は不安になった。鳥といっても猛禽類、都会で放し飼いにするなんて保健所にバレたらまずいんじゃないだろうか。エリーが事故に遭ったら可哀想だし、誰かに怪我をさせたらもっと困る。
通報されたら知らなかったと言おう――そう決心する私を眺めて、エリーはホッホウと馬鹿にするように鳴いた後、ライトグリーンの目を閉じた。
もう一人の社員、日下くんが出勤してくるのは九時の始業時刻間際。たまにちょっと遅れることもあった。
たいていTシャツの上にブルゾンを羽織り足元はスニーカーという格好で、大きめのメッセンジャーバッグを背負って駆け込んでくる。自転車通勤らしい。
遅刻に関して九十九里さんが彼を注意するのを見たことはないので、容認されているのかもしれない。まあ日下くんの本職は夜間専門らしいから、昼間の仕事はオマケみたいなものか。
日下くんと私は席が隣り合っており、何かと行動が目に入る。
彼は基本、暇そうなのだが、細かい文字の詰まったレポートのようなものを作成してメール送信しているのをよく見かけた。反対に外部から送られてきた文書を読んだり、それに返信したり――あれはたぶん他の支部と情報交換をしているのだと思う。たまに英語の文面でのメールを読んでいるので、海外の同業者とも付き合いがあるのだろう。分厚い専門書なんかもコピーしてファイリングしていて、まあ、研究熱心な奴ではある。
ただ、ちょっと手が空くとすぐ眠るのはやめてほしい。デスクに突っ伏してスヤスヤ寝息を立てられると、気が散って仕方がないのだ。
「日下くん、コーヒー飲む? 目が覚めるよ」
見兼ねてそう声をかけると、
「俺、コーヒー嫌いなんだわ。冷蔵庫に野菜ジュースが入ってるからそれ取って」
と、覇気がないくせに図々しい返事が返ってくる。傲慢な草食動物め。
ボスの環希さんの登場は日によってまちまちだ。始業時刻に合わせて出勤することも、お昼近くになることも、夕方にちょこっと顔を出すだけのこともある。外出や直帰が多く、個室でじっとしている方が珍しかった。
代表理事の仕事はデスクワークではなく、外部との折衝なのだろう。捕獲した個体を『納品』している研究機関をはじめ、警察署、自治体などなど、環希さんの行動範囲は広そうだった。
彼女はファッションには手を抜かない人で、いつもハイブランドのワンピースやスーツでキメている。何も考えずに着るとかえって野暮ったく見えそうなものだが、それが無茶苦茶似合っている。自分の容姿を引き立たせるデザインをよく知っているのだ。
第一印象でも感じたけれど、かなりいい所のお嬢様なんじゃないかと私は睨んでいる。
「絹ちゃんはもっと鮮やかな色の方が似合うと思うわ」
環希さんは私のことをなぜか『絹ちゃん』呼びする。そしてずけずけとファッションチェックしてくる。パステルピンクのブラウスを着ていた私は、慌てて自分の服装を見下ろした。
「そ、そうですか?」
「小顔で細身で全体的にミニマムだから、明るめの原色でも着こなせるわよ。口紅もね、ベージュ系より赤の方がいい」
彼女は屈託なく微笑んで、私の持って行った書類にポンと押印してくれた。四月も下旬になると杉花粉の飛散が落ち着き、だいぶ症状が治まったみたいだ。
全体的にミニマム……地味ってことだな。まったく悪気がないのは分かるけれど、ちょっと凹む。
私が変な顔をしていたからか、環希さんは、
「第一印象って大事よ。どんなに才能があって優秀な人でも、パッと見で他の人間と差別化できなければ損でしょ? 就職活動でも使えるわよ」
と、付け足した。いちおう私の今後を慮ってのアドバイスらしい。
慣れれば居心地のいい職場ではあるのだが、環希さんの言う通り、私にはまだ次がある。ぬるま湯に甘んじることなく、真面目に再就職を考えないと――私は自分を叱咤して、仕事が終わってからハローワークに行ったり正社員の求人情報を探したり、地道な就活を続けていた。
「ここ、名前と生年月日がズレてんぞ」
日下くんは私の作ったリストに赤ペンでチェックを入れて返してきた。うちの支部が管轄する地域の患者名簿である。月に一度更新される抗生体のデータベースと照合させるため、ファイルから引っ張り出して加工しているところだった。
九十九里さんに指示された作業だったが、彼が外出しているので確認を日下くんに頼んだ。大雑把に見えて、本気を出せば細かい仕事のできる人間みたいだ。
「あー、ここから下全部そうだ。どっかで計算式間違えたんだろ」
「ほんとだ。ごめんなさい、すぐに直すよ。えーと……」
私はパソコン画面を覗き込んで、カーソルの先を見直し始めた。日下くんは眉根を寄せる。
「おまえさあ、何で俺に対してはタメ口なの?」
不愉快そうな表情が、癖のある眼差しのせいで強化されている。私はだいぶ慣れたが、環希さんの言葉を借りれば第一印象で損する典型だと思う。
「同い年でしょ。いいじゃん別に」
「年は同じでも俺の方が五年も先輩だ。高校生の頃からここで働いてんだからな」
「あーそれは失礼しましたね、日下センパイ。でも、だったらセンパイも私に謝って下さいよ。初対面で私を押し倒したこと」
たっぷり嫌味を込めて言ってやると、日下くんは渋い顔をしてそっぽを向いた。
「根に持つなぁ……あれはもう謝ったのに。不意打ちを食らうと体が反応するんだ。仕方ないだろ」
なんて、剣豪のようなことを嘯く。実際に彼の仕事風景を見たことはないけれど、相手は血に飢えた獣なのだ、そのハードさは想像がついた。
「そういうふうに動けないと務まらない稼業なんだよ、捕獲員ってのは。あいつら……吸血鬼と渡り合う時は、一瞬でも隙を見せたらやられる」
日下くんは鋭い眼差しをさらに鋭くして、じっと自分のパソコンを睨んだ。画面にはやけに古めかしい図画が映し出されている。黒い猿のような体に人間の顔、長く伸びた牙と爪、両腕に二人ずつ子供を抱えて空を駆けている――妖怪じみたその姿は江戸時代に描かれた吸血鬼だ。
彼の視線には捕獲対象に向ける以上の敵意――憎しみにも似たものが籠められていて、私は一瞬息を詰めた。だけど、すぐに我に返った。
「私と吸血鬼を間違えたっていうの!?」
「寝起きだぞ、間違えるだろ」
「職場で寝てんのがおかしいでしょうが、そもそも!」
いつか言ってやろうと思っていたことをぶちまけると、日下くんの表情から険しさが消えて、代わりに困惑が現れた。顔のパーツが繊細なだけに、緊張が緩むと急に子供っぽく見える。
何だか私が言い掛かりをつけて困らせてるみたいじゃないか。
「……ほんとはもう怒ってないから。どうぞ昼間はのんびりして下さい」
結局私はそこまでにして、最後にぼそっと付け足した。
「私に言わせれば、吸血鬼よりも人間の方がずーっと恐ろしいけどね」
言葉尻は、ピンポーンという電子音に重なった。私は席を立って、キャビネットの上に設置されたインターフォンを取る。
モニターの向こうで深々と頭を下げているのは、作業着姿の小父さんだった。