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見えない印

 高校一年生の頃、私は暗い沼の中を一人で彷徨っていた。家族を喪って二年、最初の絶望からは何とか抜け出したものの、気持ちの回復には程遠い時期だった。

 ただ、表面上はごく平穏な生活を送っていた。

 一緒に暮らし始めた安奈あんな叔母さんはもちろん、学校の友達も先生たちも皆私の事情を分かっていて、だから過剰なほど私を気遣ってくれていた。今考えればそれは彼らの優しさであり、感謝こそすれ迷惑に思うべきものでは決してなかったはずだ。けれど当時の私は、周囲の生温なまぬるい厚意が息苦しくて堪らなかった。 

 土台が崩れて元に戻らないのに、外壁だけ取り繕っているよう。優しい真綿の中で行き場を見失って、私は悪いものをどんどん内側に溜め込んでいた。


 世間の人々の中で、私にだけ目に見えない印が付いている気がした。

 あんな悲劇を経験した私は、二度と普通の日常には戻れない。戻っちゃいけないんだと思い込んでいた。

 生活そのものに興味を失っていたせいで、成績は下降の一途、陸上部の活動にも参加しなくなった。叔母さんは何度も話し合おうとしてくれたが、私は生返事で聞く耳を持たなかった。


 ネットの掲示板を使って援交してる子がいるらしいよ、という噂を聞いたのはその頃である。

 当時流行っていた、いわゆる『出会い系』という奴。私の通っていた私立の中高一貫校は偏差値がそこそこ高く、表立って問題行動を起こす生徒はほとんどいなかったが、陰で危ない遊びをしている子はやはりいたらしい。

 その掲示板にアクセスしてみたのは、偽物の平穏さから逃げたかったからだ。私の事情を知らない他人と話がしてみたかった。

 何人かの男性と携帯メールでやり取りして、すぐにそのうちの一人と直接会うことになった。

 待ち合わせのカフェにやって来たのは、拍子抜けするほど普通のサラリーマン。まだ二十代だっただろうと思う。制服姿を可愛いと褒めてくれた。


「あー……そういうマトモそうな人の方が危ないのよ。隠すのが上手いか、後ろめたいと思ってないか、どっちかだもの」


 環希たまきさんは枕に凭れた姿勢で腕組みした。こんな話引かれるかと危惧したが、真剣に聞いてくれている。


 高校生には少し敷居の高いレストランで食事をして、いろいろ話をした。

 私の他愛ない話に、彼は愛想よく相槌を打ってくれた。門限はあるのかと問われ、ないと答えると、もう少し落ち着いた所に行こうと誘われた。二万とか三万とか、お金の話も出たような気がする。もちろん相手の意図が分からないほど子供ではなかった。

 まあいいやと軽く考えた。周囲の知らない秘密を抱え込むことに、暗い満足感さえ覚えた。

 しかし――繁華街の一角、友達同士ではまず立ち入らない通りに連れて行かれて、私は急に怖くなったのだった。

 入口の分かり辛いホテルの前で、やっぱり帰るとゴネた私を彼は引き止めた。

 とりあえず中入ろうよ、嫌だったら何もしないからさ――見え透いた嘘は滑稽だったけれど、私の腕を掴む力は恐ろしく強かった。

 私が泣きそうになった時、彼の肩が後ろから叩かれた。険しい顔をした男性だった。同時に数人の大人が集まってくる。

 彼らは私服警官だった。未成年を買春し、さらに写真をネタに恐喝するという悪質な犯罪が、この近辺で頻発していたらしい。


「その男が被疑者で、内定捜査中だったんだそうです。後で聞いてゾッとしました」

「酷い話……きぬちゃん、ラッキーだったわね」


 かくして、私は警察に補導された。

 警察署にやって来た叔母さんは、まず私を張り飛ばして、それから力いっぱい抱き締めてくれた。


 ――家に押し入った犯人が、どうしてあんたの帰りを待たずに見逃したか分かる? それはね、一人生き残ったあんたが道を踏み外すことを期待したからよ。蓮村はすむら家の人間を一人残らずめちゃくちゃにしたかったのよ。汚い思惑に嵌ってどうするの! 不幸になんかなったらあいつの思うツボよ。絹は真っ当に生きて、普通に幸せにならなきゃ駄目!


 亡くなった家族の分までという類の励ましはさんざん受けた。でも自分のために、自分が負けないために真面目に生きろと言われたのは初めてだった。

 その後、これは完全に警察側のミスだと思うのだが、連れ立って帰ろうとした私たちは署内で例の援交男と鉢合わせした。取調室を移る途中だったらしい。叔母さんは周囲が止める間もなく――。


「そいつをぶん殴った?」


 環希さんの表情は明らかにワクワクしている。


「はい、グーで」

「叔母様とはいいお酒が飲めそうだわ」


 割って入った警察官の肩越しに、叔母さんは激しく彼を罵った。こんな子供をたぶらかしやがって変態野郎! アソコが腐ってもげちまえ!

 私はびっくりするやら可笑しいやら――そして情けなくもなった。

 恐喝はさておき、買春も売春も成人同士であれば同罪である。私が罪に問われないのは、まだ罰せられる資格もないからだ。判断力が鈍く思慮が浅く、凡庸な子供そのものじゃないか。印なんてどこにもついていなかった。

 庇われていてはいけない。私は闘わなければ。


 それをきっかけに、私は日常を受け入れた。疎かになっていた勉強に力を入れ、部活にも戻った。上辺だけだと冷笑していた友人関係を見詰め直し、彼らの善意に応えようとした。そうやって毎日を丁寧に送ることが、私の闘いなのだと分かってきた。

 闘っていることを忘れた時に、私は勝ったと言えるのだろう。


「素敵な方なのね。ずっと絹ちゃんを見守ってくれてるんだ」


 環希さんは優しく笑ってくれた。


「でも……実はまだ話してないんですよ、内定先の銀行に入れなかったこと。叔母は今南米で仕事をしてるんですけど、心配させるといけないから……」


 私はモゴモゴと言ったが、それが建前だということは自分で分かっていた。叔母さんに話せなかったのは、私自身が納得していなかったから。目指した将来とは大きく異なる現状に、口惜しい思いを抱えていたから。だから、素直に言えなかった。

 けれど、今は違う。私はSCがとても好きだ。そこで働く人たちが大事だ。ある意味自分の才能を活かせる、運命的な職場だと胸を張って言える。


「絹ちゃん、こんなにしっかり暮らしているんだもの、叔母様は喜んでくれるはずよ。吸血鬼を追い回す仕事をしててもね」


 励まさなければならない環希さんに背中を押されてしまった。まったくその通りだ。

 帰国してからなどと言わず、なるべく早く叔母さんに話そう――ようやく決心がついた。それに今は、現状の他に、もうひとつ打ち明けておかなければならないことがあった。

  




 しばらく話し込んでいるうちに、環希さんは眠ってしまった。

 どれだけ気丈でも精神力だけで症状は抑えられない。平穏な寝顔に見えても、その下で彼女は果敢に闘っている。


「絶対にあいつをお縄にしてやりますからね」


 私にできるのは、耳元で強気の言葉を囁くことだけだった。

 ちょうどお母さんの侑美ゆみさんがやって来たので、私は付き添いを交代した。侑美さんは上品な笑顔で私に頭を下げ、娘がご迷惑をおかけしますと菓子折りまでくれた。良家の奥方らしいおっとりした所作だったが、やはり顔には心労の陰が濃かった。


 さて――九十九里さんには直帰していいと言われているけれど、少なからず残務がある。いったんオフィスに戻ろう。私はいとまを告げるために理事長室に向かった。


 エリーは私と並んで廊下を歩きながら、お菓子の紙袋をフンフンと嗅いでいる。包装からすると有名パティスリーの焼き菓子っぽい。いい匂いがするのは分かるけど、意地汚いったら。ていうか早くミミズクに戻れ。

 私が睨むと、エリーは悪い表情になって見返してくる。二人で食っちまおうぜ、とそそのかしているのだ。


「後であげるからお行儀よくしてなさい!」


 擦れ違う看護師さんたちの目を気にして、私はエリーをたしなめた。

 その、時である。


 視界が陰った。もともと雨天で日差しはなく、屋内は薄暗かったのだが、さらに明度が落ちた。一瞬、自分が貧血でも起こしたのかと思ったほど。

 でもそうではなかった。たった今行き違った看護師さんの姿が消えている。日常から切り離されたような沈黙が、辺りに落ちていた。雨音さえ聞こえない。


 この感じ、以前にも覚えがある。踵から背筋を遡って、びりびりとした寒気が頭頂まで駆け上がってきた。

 後ろだ――!


 迷いが湧く前に、私は思い切って振り向いた。紙袋を手放し、ショルダーバッグの外ポケットからUVIを引き抜く。

 昨日、日下くさかくんに渡された対吸血鬼用武器である。小型軽量モデルで、射程は短いし出力も小さい。だが護身用には十分だった。

 危険を感じたら即撃て――日下くんは私に操作方法をレクチャーしながらそう言った。人間に当たったって痛くも痒くもないんだ、遠慮すんな。


 廊下の先、ロビーとの境くらいの位置に、男が立っていた。暗く沈んだ視界の中で、そこだけ闇が凝縮しているように見えた。誰なんて訊くまでもないだろう。


 ホールドスイッチをオフに、構えは胸の高さで、腕は真っ直ぐ伸ばす。日下くんの言葉を頭の中で再生しながら、私は引き金を引いた――が、奴はもうそこにはいなかった。

 斜め上で影が動く。冗談のような身体能力で床を蹴り、壁面を駆け上がって天井から襲ってきたのだと気づいたのは、奴の手が私のUVIを叩き落としてからだった。


 ウィクトル!

 白い髪も緑色の瞳もエリアスと同じだが、その顔立ちはまったく違う。違う、と、今なら認識できる。


 別の腕が後ろから私の頭を抱えて、引き寄せた。私はバランスを崩して仰け反るような姿勢になったが、おかげで凶器そのものの指と爪から逃れられた。

 勢いでよろよろと後ずさる私の背後から、新たな闇色の男が飛び出した。人型に戻ったエリアスである。彼は素早くウィクトルの懐に踏み込もうとしたが、奴もまた後退して距離を取った。


 『イクリプス』と呼ばれる仕掛が作った夜の中、二体の吸血鬼は動きを止めた。

 触れれば切れそうな緊張感である。最初に口を開いたのはウィクトルの方だった。


「……そうピリピリするな。今日はただの下見だ。あの女、ここに匿われているだろ?」


 発せられたのは彼らの言語だが、心なしか声に張りがない。こいつもまだ回復しきってないんだ、と、私はエリアスの見立てが正しかったことを知る。

 彼の指先は赤く濡れていた。私の右手の甲がズキズキ疼いている。さっき打たれた時に爪で引っ掻かれたのだ。傷は浅いが血が滲んでいた。


「相変わらず息が合ってるね、君たちは。種の壁を超えた気にでもなっているのかな。気味の悪い錯覚だ」


 そう言いながら、彼は指を唇に含んだ。ライトグリーンの瞳に浮かんだのは紛れもない恍惚で、私は生理的なおぞましさを覚えた。

 だが、その淫靡な色はたちまち消え失せた。


「……おまえ……まさか……」


 舌先に残る味を探るように、ウィクトルは眉を顰める。次の瞬間、弾かれたみたいに笑い出した。


「そうか、『厄災の声』の正体はこれだったのか……! ああ馬鹿馬鹿しい! エリアス、君は知っていたのかい?」

「別に馬鹿馬鹿しくない。ただの事実だ」


 エリアスの苦々しい返答に、ウィクトルはますます笑った。狂気すら感じる哄笑である。


「絹……とかいったな。おまえ、私たちの同族だな!?」


 私は黙って彼を睨みつけた。それが答えだった。

 ほんの数滴舐めただけで、彼らには識別できるのだろう――同族の血の味を。

次話で第六夜終了です。

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