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生贄の子羊

 エリアスの言によると、彼に途中で邪魔をされたウィクトルは、十分な量の血液を摂取できなかったのではないかとのこと。吸った血の量と被害者への影響力が必ずしも比例するわけではないが、やはり少なすぎると力が及びにくくなるらしい。


「俺がいち早く駆けつけて止めたからだ。ほら礼を言え」


 偉そうに胸を反らすエリアスを放っておいて、私たちは網の上の肉を引っ繰り返した。


「早く取らねーと食っちまうぞ」


 日下くさかくんが焼けたラム肉を挟んでエリアスの皿に放り込む。エリアスはむっとした表情で、肉にポン酢をかけた。かわいそうに、大蒜にんにくの入ったタレは食べられないのだ。


 例の焼肉屋である。いったんオフィスに戻ってからここで作戦会議となった。

 まだ八時前なので、お店は結構混んでいる。座敷のテーブルは埋まっていて、換気扇が必死で働いていても煙が籠っていた。注文を取る女将さんもビールを運ぶバイトくんも忙しそう。

 店内が騒がしいのはかえって都合がよかった。吸血鬼だの捕獲だのと会話していても、まず他の客には聞こえない。


 エリアスは相変わらず見事に気配を消している。存在は見えているはずなのに、誰にも気に留められていない。案外こんなふうに、多くのクラウストルムが人間の中に紛れ込んでいるのかも……。

 まあ実際のところ、エリアスのおかげでもあるのだと思う。思う様に血を啜られていては、いかに環希たまきさんといえどもウィクトルを拒めなかっただろう。傷の浅さと意志の強靭さ――二つの要因が辛うじて彼女の精神を守っているのだ。


「あれはまた来るんだね?」


 九十九里つくもりさんはカルビとロースを手早く並べながら訊く。ごく事務的な口調だが、この人、心の内をそのまま出さないことはよく知っている。エリアスは肉を飲み込んでから肯いた。

 確かにこちらにとっては僥倖だ。でも私は半信半疑だった。


「環希さんの思考が読めなくて、SCの内部情報が引き出せないとしてもだよ、待ち伏せを承知で襲ってくるかな? 私ならそんな危ない橋は渡らない」


 ウィクトルは人間の血に狂った特種害獣に成り果ててはいない。最終目的はSCの壊滅であり、環希さんを咬んだのはその手段のひとつだ。乗っ取り損ねたのならさっさと諦めて、別の線を狙うだろう。

 日下くんはうーんと唸ってウーロン茶のグラスを傾ける。今日はアルコール抜きだ。


「俺は来ると思う。あいつが環希さんを襲うのは単にハッキングのためじゃなくて、何つーか……俺たちの認識そのものに攻め込みたいんじゃねえかな」

「どういうこと?」

「あいつらにとって人間は狩りの対象だけど、俺たち捕獲員はあいつらの方こそ獲物だと思ってる。すげぇ高値がつく希少生物って意味な。その立ち位置を引っ繰り返すつもりなんだよ」

「僕たちも群れの羊の一頭にすぎない。狼の前ではただの肉」


 九十九里さんは焼き上がったハラミを挟んで、ちょっと眺めた。


「そんな無力感を植え付けて、こちらの反抗心をへし折りたいんだろうね」


 なるほど……人間社会全体への強烈なメッセージか。環希さんは格好の生贄だ。

 想像以上に大きかったウィクトルの意図に、私は戦慄した。もしあいつの企みが成就すれば、吸血鬼被害を天災の一種として受け入れていた前時代に逆戻りじゃないか。

 さすがに箸を止めた私たちを尻目に、エリアスは黙々とラム肉を食っている。無関心を絵に描いたような風情だ。けれど私にはうんざりした感情が伝わってきた。


「……深読みするのは人間の習性なのか? 何度目だよこれで」


 彼は皿にポン酢を足しながら言う。


「あいつにそんな大層な考えがあるもんか。あったとしても建前だ。本当の動機は違う」

「本当の動機って?」

「自由になりたいんだろ」


 突然、思い出した。

 ウィクトルをおびき出した夜、彼は雑居ビルの屋上でエリアスにこう告げたのだ――私は自由になる、と。あれは本人ではなく『憑依』された別個体だったわけだが、言葉を送っていたのはウィクトル自身だ。


 自由に? 何から?


「鉄の順列から……」


 私は呟いた。


「吸血鬼のヒエラルキーから自由になりたいのね。上位個体に服従する習性を洗い落として」

「洗えるのは、人間の血しかないからな」


 新しい肉が焼けるのを待って、エリアスは白米を口に運ぶ。肉体の回復を急ぐせいか、今夜はいつにも増して食欲旺盛だった。


 ああ何か……凄く腑に落ちた。

 人間の血を吸った個体が同族間でも嫌忌されるのは、理性を失くすだけでなく、上への服従心が薄れるためだという。彼らの社会の根幹を揺るがす危険因子だと、以前にエリアスが話していた。逆を言えば、反抗したければ人間の血を吸えばいいという理屈になる。ただしそれは麻薬と同じ。一度味わえば瞬く間に依存症に陥り、狂う。

 しかし、エリアスやウィクトルたち条上位個体なら――。


「自分自身が壊れてしまっては元も子もないからな。あいつ、これまでさんざん試してきたんだと思う。吸血の頻度や分量や……心身に負の影響を出さずに済むギリギリの線を探ったんだろう。越境者たちをわざと見逃して実験台にしたのかもしれない」


 エリアスは空になった茶碗を置いて、再び肉に箸を伸ばした。

 そんなに、逃げたいのか。頂点に近い位置にいて、多くの下位個体を意のままに操れるというのに、それでも満足できないのか。

 強欲だ――私はシンプルにそう感じた。


「君も逃げたくなることがあるのかい?」


 九十九里さんが興味深げに尋ねる。エリアスを見詰める眼差しに険悪さはなく、初めて労りに似たものが混じっていた。

 エリアスは即答した。


「逃げ場所なんてどこにもない。それが俺たちの『在り方』だから。逃げられたように思っても、別の何かに囚われるだけだ」


 あいつは馬鹿だ、と彼は付け足した。





 次の日、私は午後からパストラルホームを訪れた。環希さんを見舞う、というか、話し相手になるためである。

 意識が戻った彼女は、念願の入浴をすませ、ベッドで退屈そうにしていた。少し熱があるらしい。雨の筋が絶え間なく流れる窓ガラスを、物憂げに眺めていた。


「今日はよく降るわねえ……暗くて気が滅入っちゃうわ」

「休暇だと思ってのんびりして下さいよ」


 私にはそんな月並みな気休めしか言ってあげられなかった。


 午前中に来ていた九十九里さんは、ほとんど理事長室に籠りきりだったみたい。私と入れ替わりに帰る直前に病室に顔を出したが、ごく事務的なやり取りと交わしただけだった。

 何だか残念……もっとこう、ねえ?

 しかし、彼が環希さんと長い会話ができない理由も理解できる。SCの動きを知られてしまうと、彼女が負けた時にウィクトルに読まれる危険性がある。彼女もまた私たちが何をしているのか訊かなかった。


 病室の外で、九十九里さんは理事長との話し合い結果を教えてくれた。ウィクトルの再襲撃を、ここパストラルホームで迎え撃つことにしたという。

 他の患者の安全を考慮して、環希さんを別の場所に移す案もあった。だか市街地から十分に離れている、迎撃にあたって準備作業の融通が利く、などの理由からこの場所で待ち伏せる選択をしたらしい。理事長は、さっそく四十名を超える入所者の一時受け入れ先を手配している。


「理事長、環希さんを受け入れた時から覚悟をなさっていたようです。すでに伝手つてがおありのようでした」


 九十九里さんは声を潜めてから、こちらも準備を始めなければと言ってオフィスに帰って行った。

 エリアスが予想したウィクトルの再訪は一週間以内。すでに一日が過ぎている。一刻も時間を無駄にできなかった。

 なのに、あまり役に立てない自分がもどかしい。環希さんの傍にいてもらえると安心だと日下くんは言ってくれたけど、慰めるのも励ますのも私じゃ役者不足だ。


 エリーは狼の姿でベッドの脇に寝そべっていた。環希さんの手が頭を撫でる度、太い尻尾をぱたんぱたんと揺らす。電車の中ではミミズク型でバッグに収まっていたのだが、ここに着いてから化け直したのだ。より大型の形態を保てるようになったのは、体力が回復してきた証拠か。


「エリー、九十九里くんと仲良くやってる?」


 環希さんは首筋の深い毛並みに指を入れて、皮膚を揉むように撫でた。


「あの人、吸血鬼を蚊くらいにしか思ってないけど、やっぱりあなたは別なのよ。八年も一緒にいたら情が移るものでしょ。心を許してるから当たるのよ。許してあげて」


 エリーはフンと鼻を鳴らし、前脚の上に顎を乗せた。言われなくても分かってる、みたいな鬱陶しそうな表情だ。環希さんは穏やかに微笑んで見下ろしている。


「環希さんて……凄い人ですね」


 私は思わずそう言った。こんな大変な時なのに、きちんと私たちに目を配っている。自分の不在がどんな事態を引き起こすか、ちゃんと心得ているのだ。


「そう?」

「環希さんのおかげで、私たち冷静になれました。いちばん大変なのは環希さん自身なのに全然怖がってなくて……ほんとに尊敬します」


 すると彼女はクスッと噴き出して、それから自分の両腕を擦った。急に寒気を覚えたような仕草だった。


「そんな、尊敬されるような人間じゃないわ。本当はとても怖いのよ。眠ったら夢にあいつが出てくる。正直……どこまで抵抗できるか分からない」


 笑みを残しつつも表情は強張っていた。

 私はハッとする。彼女は勇敢さは本物の怖いもの知らずではなく、恐怖や不安をプライドで捻じ伏せた結果だったのだ。

 それはそうだ。環希さんは被害者の惨状をリアルに知っている。どうして恐れずに済むだろうか。凄いなんて称賛した私は、表面しか見ていなかった。

 環希さんは包帯の巻かれた首筋を撫でて、しばらく沈黙した。乱れた髪を梳く指先は少し震えていた。本当は私なんかじゃなくて、九十九里さんに傍にいてほしいんじゃないかな。

 すぐに首を振り、


「私、いままで挫折を知らずに生きてきたのね。実家はお金持ちだし、美人でモテるし、勉強だってスポーツだって苦労したことなんて一度もなかった。本当の意味での喪失を知らないの。だから強がってないと自分が保てない」


 と、彼女だからこそ嫌味にならないセリフを口にする。


「だから、私に言わせれば絹ちゃんや日下くんの方がずっと凄いわ。辛い目にあっても卑屈になったり攻撃的になったりせずに、普通に生きられてる」


 いきなり話題を向けられて、私はびっくりした。環希さんは真摯な眼差しで私を見ていて、口先だけの適当な賛辞ではないと分かった。

 普通なのかな、私……だとしたら凄く嬉しい。


「私は普通に生きなくちゃいけないんです。真っ当な人生を送って、幸せになりたい――負けないために。そう教えてくれた人がいるの」


 母方の叔母にあたる人です、と私が言うと、環希さんは細い眉を上げた。


「絹ちゃんの緊急連絡先にお名前のあった方ね。確か……写真家でいらっしゃる?」

「ええ、家族を亡くして実家を売りに出して、高校を卒業するまで一緒に暮らしていました。私、たくさん迷惑をかけて……それでも見捨てずに支えてくれた叔母です」


 エリーがのそりと立ち上がって、私の座った椅子の傍に来た。私の膝に頭を摺り寄せるのは、ちょっと心配してくれたのだろうか。私は苦笑して喉を撫でてあげた。


「私に補導歴があるの、ご存じですよね?」

「ええ、九十九里くんからチラっと聞いたわ。絹ちゃん、ヤンチャしてたようには見えないけど」

「道には迷ったけれど、道を踏み外さずに済みました」


 環希さんの瞳が控え目な好奇心に輝き始める。

 この人にならば、今ならば――他愛ないお喋りの続きに話せる気がした。

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