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怒れるお姫様

 翌日、私が定時に出社すると、九十九里つくもりさんはすでにデスクに着いていた。


「おはようございます」


 パリッとしたシャツ、すっきり整えた髪、穏やかな笑顔――普段通りの九十九里さんに心底ホッとする。表面だけ取り繕っているわけではなさそうだ、と思えたのは、彼のパソコンの前にエリーが陣取っていたからである。

 黒ミミズクはくちばしと足を器用に使って、キーボードをカタンカタンと叩いていた。


「何やってるんですか?」

「取り急ぎ訊いておきたいことがあって、起きてもらいました」


 エリーは眠たげな半目で、何となく動きが緩慢だった。

 まさか九十九里さん、またUVIを突きつけて叩き起こしたんじゃないだろうな……なんて一瞬不安になったが、デスクの上にはタッパーのラム肉があった。餌でご機嫌を取りつつ話を聞いていたらしい。

 私はパソコンの画面を覗き込んだ。立ち上がった文書ソフトには、大きめの文字で筆談の履歴が残っている。


『おれとおなじくらいのけがをしてる』

『かいふくにはすうじつかかる』

『それまではうごけないはず』

「……これもしかして、ウィクトルについてですか?」


 私が問うと、九十九里さんは肯き、エリーはホウと鳴いた。


「真っ向からぶつかったのなら、向こうも深手を負っているのではないかと思って」

「そっか、治癒の速度が同程度だとすると……エリアスが回復するまでは、ウィクトルも襲ってこられないということですね」

「ええ、けれど……ウィクトルの負傷はエリアスよりも軽いでしょうね」


 抗議するように、エリーがギャッと声を上げた。九十九里さんはその嘴にラム肉を突っ込んで、


「君の方には生け捕りのハンデがあっただろ。無意識に手加減してたはずだ。それに向こうにはいくらでも生餌がいる。回復だって早いよ」


 とフォローした。わざとなのか何なのか、ずいぶん雑な給餌だ。エリーは釈然としない表情で口を動かしている。この二人、仲直りしたのかしら。


「その分を差し引くと、次の襲撃までどのくらいでしょうか?」


 私の質問にはエリーが答えた。


『ながくていっしゅうかん おそってくるとしてだが』


 二言目はシビアな現実だった。ウィクトルの目的が環希たまきさんの精神の乗っ取りだとしたら、待ち伏せされる危険を冒して再襲撃する必要はないのだ。

 九十九里さんは黙って考え込んだ。もっとくれ、と彼の袖口を引っ張ったエリーは、ぱちんと指で弾かれた。


「九十九里さん、餌やり代わります。その前にコーヒー淹れますね」


 私はキッチンへ行って、お湯を沸かしながら大きく溜息をついた。まさに八方塞がりって感じ……もうSC自体が襲撃を受けるまで待つしかないのか。


 始業時刻ギリギリに日下くさかくんが出勤してきた。昨日は早めに帰宅したはずなのに、かなり眠そう。彼の場合、睡眠時間の長短に拘わらず常に眠気を背負って歩いているみたい。


「ちょっとは休めたみたいだな」


 日下くんは九十九里さんを見てのんびりと言った。


「おかげさまで」

「三十路越えたら徹夜は禁物だってさ。ばーちゃんが言ってた」

「肝に銘じるよ。君にはもう少し早起きを勧めたいけどね」


 昨日の揉め事などなかったかのように軽口を叩き合う二人を、私は感心して眺めた。さすが、切り替えが早くて頼もしい限りだ。

 日下くんは九十九里さんから連絡を受けて、昨日の午後オフィスを出る前にSC各支部に注意喚起を発信しておいたらしい。代表理事が上位個体による被害を受け、組織全体の構成や所在地などの機密が盗まれた可能性があると。各々警戒してもらえるとよいのだが。

 九十九里さんは、今朝エリーから収集した情報を日下くんにも伝えた。ウィクトルの復活は一週間以内――だが、必ずしも環希さんを再訪するとは限らないと説明すると、


「それ、直接本人に確かめてみれば?」


 と、彼は腕時計を見た。


「もうすぐ咬まれてから三十六時間が過ぎる。錯乱状態が治まれば鎮静剤の投与も終わるから、意識が戻るだろ」

「環希さんと話して、ウィクトルが来るかどうか分かるの?」

「いや、環希さんじゃなくて……」

「引っ張り出すわけだね?」


 九十九里さんが口を挟んで、私にもようやく意図が理解できた。環希さんを通じてウィクトルと接触すると言っているのだ。以前に被害者の寝室で見た現象を思い出す。あの時、加害個体の吸血鬼は被害者を操り、エリアスの問いかけに答えていた。

 でもそう上手くいくだろうか。呼んだところでウィクトルが出て来るかどうか疑問だし、企みをペラペラ喋るとは思えない。それに……。


「嫌だよ。環希さんをあいつに操らせるなんて」


 つい言ってしまった。すでに意識を乗っ取られているとしても、環希さんの声をあいつに使わせるなんて、五感をみすみす盗ませるなんて、嫌悪感しか湧かなかった。


「俺だって嫌だよ。他に方法があればいいけどさ……」


 日下くんは気まずげに九十九里さんを窺った。九十九里さんは渋い顔で一点を見詰めていたが、やがて、


「……可能性はすべて試したい。パストラルホームに連絡をしておこう」


 受話器を手に取った。


 彼が是とするなら、もう私に否定はできなかった。環希さんを誰より大事に思っている人が覚悟を決めたのだ。誰が逆らえるだろう。

 ていうか――やっぱり九十九里さんは環希さんが好きなんだなあと思い知る。切ないような、安心したような、複雑な気持ちである。


 そうと決まれば話は早かった。

 午前、午後と黙々と業務をこなし、早い時間にオフィスを閉めた。社用車に乗り合わせてパストラルホームへ出発する。もちろん私も一緒だった。電話やメールは九十九里さんのスマホに転送される設定だから、留守番がいなくても何とかなるはずだ。

 出発が夕暮れ時になったのはちょうどよかった。向こうに到着した頃、エリーが人型に戻れる。ウィクトルに接触するのに彼の存在は欠かせない。重要な任務を課せられたエリーは、ボストンバッグに収まって眠っていた。


 この事態を打開したい。でも、ウィクトルを環希さんの意識上に呼び出すのは恐ろしい――九十九里さんが運転するミニバンの後部座席で、私は嫌な予感に胸を騒がせた。

 魂の抜けた人形のようになった環希さんは、たやすくあいつの玩具になってしまうだろう。彼女の尊厳だけは何があっても守らなければ。

 郊外へ向かう道路の先では、重い雲が血色の夕日を照り返していた。





 ベッドに横たわった環希さんは、昨日と同じ穏やかな寝顔だった。安眠を絵に描いたような、無防備な表情。悪夢の影はない。

 左腕に点滴の針が刺されているが、これは脱水症状を防止するためのものだ。鎮静剤の効果はもう切れかかっているらしい。その針を、念のために抜いてもらった。


「じゃあ、後はお任せするわね」


 とき子理事長は看護師さんとともに部屋を出た。施設の責任者として許可してくれた彼女には、感謝しかない。


 部屋に残されたのは私たちSCの三人と、一羽。その一羽はバッグから飛び出し、ベッドの脇で姿を変えた。カーテンに覆われた窓の向こうは、すっかり夜になっている。


「……よろしく頼むよ」


 胸中穏やかではないだろうが、九十九里さんはエリアスにその先を一任した。横顔が緊張している。日下くんはスマホを構えて動画の撮影を始めた。


「暴れたら取り押さえろ」


 エリアスは不吉な指示を残して、環希さんの枕元に膝をついた。

 包帯の上から首の傷痕に触れ、その耳元にそっと口を寄せる。


「環希」


 囁かれる名前は呪文のようだった。眠れるお姫様をさらなる深い淵に招くような、あるいは背徳的な夢へと導くような――私の背中がぞくりとする。

 悔しいけれどかなり魅惑的だった。こいつほんと、その気になれば人間なんていっくらでも狩れる。こうやって誘惑すれば獲物の方からフラフラやってくるはずだ。

 ウィクトルも同じだろう。上位個体が本格的に人間の血を漁り始めたらどうなるか、私は改めてその危うさを認識した。


「環希……聞こえるか?」


 エリアスの白い指が環希さんの髪を撫でる。額の際を優しく梳いて、毛先をもてあそぶ。唇は耳朶に触れそうな距離だった。

 はぁ、と環希さんが細い息を吐いた。

 安らかだった顔つきが強張り、細い眉根が寄せられた。苦しげな表情ではあるのだけど、一方でとても艶めいて見える、そんなふうに感じてしまう自分が後ろめたい。

 反応があったと見て、エリアスは環希さんの上半身にのしかかった。蒼褪めた頬を両手で挟み、正面から顔を覗き込む。


「ウィクトルを出せ。おまえの体を明け渡して、奴と話をさせろ」

「ん……はあ……んっ、うぅ……」


 環希さんは喘ぎながら身を仰け反らせた。両腕で自分の胸を掻きむしる仕草をする。点滴を外しておいて本当によかったけど……でも……。

 痙攣を起こしたように震え、呻き、寝間着の胸元を大きくはだけた彼女をもう見ていられなくなって、私はせめて布団を掛けてあげようとした。しかし、九十九里さんに引き止められる。


「もう少し我慢して下さい」

「ウィクトル、聞こえるか? 出てこい!」


 エリアスの呼びかけは彼らの言語に変わっていた。まるでウィクトル本人がそこにいるみたいに、環希さんの肩を乱暴に揺する。

 環希さんは意味をなさない声を上げ、浅く早い呼吸を繰り返して、やがて――。


「う……う……うるっさいっ……!」


 掠れた声で、それでもはっきりと叫んだ。両目がカッと開く。


「ごちゃごちゃうるさいのよ! 気が散る!」


 いきなり覚醒した環希さんは、エリアスをぐいっと押しのけた。

 絶句する私たちを見渡して、頭痛を堪えるみたいにこめかみを押さえる。


「た、環希?」

「あいつがここに入り込もうとしてるの、必死で止めてるんだからね。これ以上好き勝手されて堪るもんか。絶対に追い返してやる……!」


 丸二日近く眠っていた人間とは思えぬほどしっかりした物言いであり、闘志に満ちた眼差しだった。

 私はただただびっくりする。ウィクトルに侵入されてないのか? 彼女の意志は外からの支配を毅然と跳ね返しているのか?

 本当か、とエリアスは訊こうとしたみたいだが、その前に九十九里さんがベッドに駆け寄った。

 身を屈めて覗き込む彼に、環希さんは優しく尋ねた。


「ちゃんと寝た? くよくよ悩んでちゃ駄目よ」

「まったく……あなたという人は……」

「何とかしてくれるんでしょ? 私もできるだけのことはするわ」


 ベッドのフレームを握った九十九里さんの右手を、環希さんの手が撫でた。その上から九十九里さんの左手が重なる。二人はそれ以上言葉を交わさなかったが、視線だけで気持ちを全部伝え合っているように見えた。

 環希さんは、それから私たちの方へ顔を向けた。彼女らしい、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。


「君たちもしっかりやんなさいね。あ、でも私の傍で重要な話はしないで。万一乗っ取られたら、あいつに筒抜けになっちゃうから……そのくらい分かってるわよね?」

「は、はい……」

「よし。じゃあ私は少し寝ます。まだ……眠くて……ああお風呂入りたい……」


 その辺が限界だったらしい。環希さんは再び瞼を閉じて、すうすうと寝息を立て始めた。

 九十九里さんは握った手を離さなかった。彼女の体温を確かめるように――とても苦しそうではあったけど、迷いの翳りはもうなかった。


「大したもんだよな……」


 日下くんの呟きには心からの尊敬が籠められていた。同じ目に遭った彼には分かるのだ。この状況で意志を保つのがどれほど困難か。


 環希さんを失ったと決めつけた私は、何て浅はかだったんだろう。魂が抜けただなんてひどい見縊みくびりだった。


 彼女は闘ってたんだ――私たちが右往左往しているその時に、たったひとりで。


 私は泣きそうになって、鼻を啜り上げた。

 環希さんが示してくれたのは紛れもない希望だ。頼もしくて誇らしくて、胸が痛かった。勝手に不安になっていた自分が情けない。本人が一歩も引いてないのに、周囲がうろたえてどうするんだ。


 ひとり納得のいかない様子で腕を組んでいたエリアスは、ぽつりと口にする。


「吸血が十分じゃなかったんだ……」


 私たちの視線が集まった先で、彼は込み上げる笑いを抑えるように背を丸めた。ライトグリーンの瞳がギラギラと輝き始める。


「僥倖だ。あいつ、また来るぞ」

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