惣川家の人々
電車を乗り継ぎ、降りた駅からはバスに乗って、私はパストラルホームに向かった。
一ヶ月ほど前に初めて来た時と同じく、高台に緑色の屋根が見えてきた。ベージュ色の二階建ての建物は、まるでリゾートホテルみたいに瀟洒な造りだ。長期療養患者が心安らかに過ごせるようにというコンセプトなのだろうが、終の棲家をせめて快適にしているようにも思えて複雑な気分になってしまう。
バス停から数十メートル歩くと正門だった。門は開け放たれていて、玄関口までアスファルトで舗装されている。来客のものかスタッフのものか、数台の自動車が停まっていた。
事務棟入口の守衛室に声をかける前に、ロビーに九十九里さんが姿を現した。バスに乗る前にメールを送っていたので、到着時刻を予想して出迎えてくれたのだろう。
「遠いところをありがとうございます、蓮村さん。昨夜は家に帰れましたか?」
「あ、はい……昨夜じゃなくて今朝ですけど」
「大変な目に遭わせてしまいましたね」
表情を曇らせる九十九里さんは、驚くほど普通に見えた。シャワーを浴びたらしく顔や頭髪はさっぱりしていて、返り血で汚れた作業用のハイネックは白い綿シャツに着替えられている。わずかな目の充血を除けば、まったくいつもの九十九里さんだ。
やはり経験豊かな大人はセルフコントロールが巧みだ。でもなぜか私は安心できなかった。九十九里さんにとって私は、SCでいちばん弱く庇わなければならない人間だ。そうそう本心なんて見せてくれないと思える。
やや遅れて惣川とき子理事長が出てきた。
銀髪ショートカットのお婆ちゃんは、臙脂のブラウスを着て背筋を伸ばしている。環希さんによく似た顔立ちは少し疲れているようにも見えたが、気丈な微笑みを浮かべていた。
私が挨拶をすると、
「よく来てくれました。お疲れでしょうに」
「いえ、私は何も。環希さんのご容体は?」
「今は落ち着いているわ。見舞ってやってちょうだい。こっちよ」
そう言って、踵を返した。
理事長は私に話があるという。それも気になったが、今はまず環希さんの顔が見たくて、私は彼女の後を追った。九十九里さんも続く。
理事長はさりげなく私の肩を引き寄せて、
「栄さん、全然寝てないのよ」
と、苦い口調で囁いた。
渡り廊下を通って病棟に向かう途中、中庭の様子が見えた。芝生と植栽の美しい庭には、梅雨の晴れ間だからか、ちらほらと患者らしき人たちがいる。車椅子に乗って、それぞれ介護士さんに付き添われていた。
若い人もお年寄りもいたが、みんな同じ顔に思えた。表情が薄く、茫洋と見えるからかもしれない。それでも、こうやって庭に出て来られるのは症状の軽い患者さんたちなのだろう。催眠症は進行すると昏睡状態に陥ると聞いている。
本当に申し訳ないけれど――環希さんがあんなふうになるなんて耐えられなかった。
ウィクトルの第二接触はあるだろうか。あいつ、そこまで血に溺れているようには見えなかった。もし情報収集のために環希さんを襲ったのだとしたら、危険を冒してまで再訪はしないかもしれない。やって来なければ捕獲もできない。
だんだん気持ちが重くなってきた私の肩で、ボストンバッグがもそりと揺れた。ファスナーの隙間から黒い頭が出てくる。
「あら、あなたは」
理事長が気づいてにっこり笑った。彼女はエリーの事情を熟知しているみたいなのだ。
「ごめんなさい、連れてきちゃいました」
「そこは狭いでしょう。外に出してあげたら?」
ファスナーを開けてやってもエリーは出てこなかった、首だけ突き出して辺りの様子を窺っている。気後れなんてする奴じゃないし、自力で私の肩に止まるのがまだ辛いのか。
案内されたのは病棟二階の東端の部屋だった。軽いノックの後、理事長はスライドドアを開けた。
十二畳はありそうな広い部屋。長期間暮らす患者のためか、病室というよりホテルの一室みたいな作りだ。壁に作り付けの棚とクローゼットがあり、冷蔵庫やテレビや簡単なテーブルセットまで。
しかし視線を巡らせた先、藍色のカーテンが揺れる窓辺のベッドだけは、病院でよく見る介護ベッドだった――環希さんはそこに横たわっている。
環希さんの横顔が見えたが、私はまず彼女に付き添う女性に頭を下げた。
ベッド脇の椅子から立ち上がったその人は、五十代半ばくらいの小母様。ふっくらとした美人だ。束ねた黒髪といい品のいいベージュのワンピーススーツといい、お母さん役のよく似合う女優さんみたい。
「侑美さん、こちらシェパーズ・クルークの蓮村さん。環希のお見舞いにみえたのよ」
理事長が私をそう紹介すると、その女性は優しげな笑みを浮かべて丁寧にお辞儀をした。
「わざわざありがとうございます。環希の母です。娘がいつもお世話になって」
「そんな、お世話になっているのはこちらの方です」
私は恐縮して首を振った。
実は、名乗る前からきっと環希さんのお母さんなんだろうと思っていた。とてもよく似ているのだ。とき子理事長とはまた別の意味で……環希さんの人形めいた甘い美しさに、この侑美さんの血を感じる。
侑美さんが場所を開けてくれたので、私はベッドに近寄った。
環希さんは仰向けで静かに目を閉じていた。お化粧を落としているせいか、寝顔はいつもより幼く見える。少し開いた唇から規則正しい寝息が聞こえてきて、薬で強制されたものであれ、眠りは安らかなのだと分かった。
でも――華奢な首に巻かれた包帯が、彼女の置かれた状況を如実に示している。呪わしい傷痕を、ここにいる人たちはどんな気持ちで見ただろう。
とんでもないことになったのだと、私は改めて実感した。そしてそれ以上に、傷ついた彼女が痛々しくて堪らなかった。
どんなに苦しかったか、屈辱だったかと想像するだけで、胸が潰れそうだった。強くて明るくてかっこいい環希さんが、こんな魂の抜けた姿になるなんて……。
無意識に強く奥歯を噛み締めていた。鼻孔が熱くなって、視界がぼやける。
悔しい、悔しい、悔しい。
背中に温かい手が触れた。九十九里さんは私の強張った肩を撫で、環希さんを見下ろしている。彼の横顔は穏やかに見えたが、その掌は少し震えていた。
九十九里さんも同じ思いなんだ――。
理事長が何か言おうとした時、ドアがノックされた。
覗いた丸い顔は塚田所長。太めの体型にボウタイとサスペンダー姿の、愛嬌のあるオジサンである。デフォルメされたキャラクターみたい。でもその表情は少し緊張していた。
「理事長、あの、社長が……惣川社長がおみえになりました」
すぐにドアが大きくスライドし、スーツ姿の男性が部屋に入ってきた。年は還暦の少し手前といったところか。眉は太く鼻筋は通って、端整だが厳めしい顔立ちだった。白髪の交じった髪は短く刈り込まれている。
病室ではもう少し遠慮してもよさそうなものなのに、彼は大股で一直線にベッドへ歩み寄った。他の人間なんかいっさい目に入っていないみたい。その存在感に気圧されて、私は場所を空けた。理事長と侑美さんが困ったように顔を見合わせる。
惣川社長……つまり環希さんのお父さんか。なるほど、この遠慮のなさは近しい空気を感じる。大企業のトップだけあって、彼女よりはだいぶ尊大そうだけど。
社長はベッドを覗き込み、眠る環希さんをまじまじと見詰めると、険しい顔をさらに強張らせた。皺の寄った眉間を摘んで目を伏せる仕草は、激しい頭痛を堪えているように見えた。
「……放蕩娘め」
独白なのに明瞭に聞こえるのは声に張りがあるからだ。普段から人前で話し慣れている人間の声だった。
「リスクは覚悟で立ち上げた事業のはずだ。油断したおまえが悪い――だが」
環希さんに向けた叱責の最後で、彼は振り返った。
「責任転嫁を承知で言う。こんな事態を避けるために君に託したんだぞ。娘を守ると約束したはずだな」
鋭い視線は九十九里さんを捕えていた。
九十九里さんは目を逸らさなかった。反論も萎縮もせず、かわりにすっと膝を折った。
「申し訳ございません。僕の力不足が招いた結果です。どのようなお叱りも償いも覚悟しております」
床に手をついて深々と頭を下げる。私は息を飲んだ。
九十九里さんだけのせいじゃない、と言いたかった。だけど、一言の弁解もなく平伏する姿は彼らの間にある厳しい約定のようなものを感じさせた。
社長は冷ややかに九十九里さんを見下ろしているが、その口元は苦しげに歪んでいた。
張り詰めた空気を、場違いなほどのんびりした声が破った。
「子供っぽい八つ当たりはやめてちょうだいな、パパ」
窘めたのは侑美さんだった。社長は太い眉を寄せる。表情に人間らしい隙ができた。
「こ、ここでその呼び方はよしなさい」
「環希が聞いたら怒るわ。この子だってもう三十路目前なのよ。そんないい大人を捕まえて、託すも守るもないでしょう。自分で始めたことには最後まで自分で責任を持たなくちゃいけない――そう育てたはずよね、パパ。それに栄さんも」
侑美さんは九十九里さんの手を取って、若干強引に立ち上がらせた。
「あなたは環希の保護者じゃなくて対等なパートナーでしょ。私たちに気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、いつまでもあの子を子供扱いしないで」
「侑美さんの言う通りよ。まったくあなたたちはいつまで経っても……久嗣、まずはこちらに自己紹介なさい」
とき子理事長が初めて口を挟んだ。どうやらここまで成り行きを見守っていたみたい。出しゃばらないけれど仕切る時は仕切る。惣川家の長老はまだまだ矍鑠としている。
「『厄災の声』をお持ちのお嬢さんよ」
「ああ、これはお見苦しいところを」
社長はそこでようやく私の存在に気づいたようで、ぱっと笑顔になった。愛想笑いとは思えない、人懐こい表情である。凄い変わり身というか……この程度の切り替えができないと社長なんて務まらないのかな。
「環希の父です。蓮村さんだね。話は伺っています。素晴らしい才能をお持ちだ。君にはぜひ一度当社の研究施設にお越し願いたい。もちろん君の同意が得られればの話だが、私はね、特種害獣への新たな対抗策にもなり得ると考えているんだよ。より多くのデータを取って、今回の検査では除外した角度からも分析を……」
大きな掌で握手をされ、立て板に水の調子で勧誘され、私は面食らった。グイグイ来られて酸欠になりそう……。
「久嗣」
理事長は呆れた様子で遮って、それから部屋の入口の方へ目をやった。
眼鏡をかけた、ひょろりと細身の男性が立っている。社長の存在感のせいで今まで気づかなかった。
「樹希、あなたも突っ立ってないで入ってらっしゃい」
祖母のとき子さん、父の久嗣さん、母の侑美さん、そして弟の樹希さん――私は奇しくも病室で環希さんの家族全員と対面を果たしたのだった。
「騒がしい家族で驚いたでしょう。恥ずかしいわ」
とき子理事長は綺麗な銀色の前髪を撫でつけた。皺深い指には金色の指輪が嵌っている。
正確には騒がしかったのは久嗣社長一人であったが、私は笑って首を振った。
「私には羨ましいです」
「あなたは苦労なさってるのだったわね」
優しい声音に労りは感じられても、同情や申し訳なさは含まれていなくて、私は嬉しかった。妬ましいのではなく、本心からいい家族だなと思えたのだ。環希さんのように伸びやかな女性が育ったのも納得できる。
彼らを病室に残し、私ひとりが理事長室へ案内されていた。私を呼び出した理由を話してもらえるのだろう。
ソファの足元に置いたバッグからエリーが顔を覗かせたので、出してやると私の肩に上って来た。
「彼を同席させてもいいのね?」
「どうせ隠し事はできませんから」
理事長は肯いて、自分の執務机から分厚いファイルを持って来た。
「蓮村さんの『厄災の声』、こちらで検査した結果が出ました。今日お呼びしたのは、その報告をするためです」