二
日下冬馬は消えた蛍光灯をぼんやりと見上げていた。
今夜は月が出ているらしい。部屋の中よりも外の方が明るく、カーテンの隙間から差し込む青い光がベッドから床まで伸びていた。闇は、天井に近づくほど濃い。
療養施設の一室とはいえ、家具や壁紙はごく普通の男子中学生の部屋にあるようなものばかりだった。学習机の上には教科書と一緒に漫画雑誌が積み重ねられている。冬馬にとって、ここはすでに家だった。
唯一ベッドだけが、彼の身体的なハンデを示すように、医療用の電動式になっていた。
なかなか寝付けなかった。昼間、不本意な睡眠を取ってしまったからかもしれない。彼にとってはもう日常茶飯事だったが、覚醒と睡眠を自分でコントロールできない不安にはいつまで経っても慣れなかった。
溜息とともに寝返りを打つ。無理やり目を閉じてもピリピリと神経が逆立って、体のあちこちが疼いた。全身にちらばった、忌まわしい咬み傷が。
痛みはたやすく辛い記憶を呼び覚ます。
五年経っていても、あの最悪の夜のすべては鮮明に脳裏に刻まれたままだ。痛みや苦しみだけでなく、当時感じた恐怖も薄れることなく留まっている。それが悲鳴となって喉から溢れそうになって、冬馬は必死で唇を噛み締めた。
今日の出来事を――彼は思考を切り替えようとした。心が過去に遡らぬよう、新しい記憶で上書きをする。眠れない夜は、いつもそうやって切り抜けてきた。
今日は、夕方に九十九里がやってきた。五年前の台風災害の夜、冬馬に群がった吸血鬼どもを一掃してくれた恩人である。
ただ九十九里自身は加害個体を捕獲できなかったことを悔やんでいるらしく、催眠症を患った冬馬を頻繁に見舞ってくれていた。
あの人が気に病むことなど何もないのに――冬馬は本心からそう思っている。しかし、償いのためとはいえ自分を気にしてくれるのは嬉しく、家族を失った彼は兄を得たような心持ちになっていた。
珍しく、九十九里には同行者がいた。いや、どちらかというとその人物が主で、九十九里の方が付き添いだったのかもしれない。惣川環希――この療養施設を運営する惣川製薬の令嬢である。
冬馬は何度か面識があったが、実は少し苦手な相手だった。テレビに出ているモデルやアイドルよりもずっと美人で華やかで、それだけ迫力がある。自分を否定する者などいるはずがないという自信に満ちており、鬱屈した十五歳の少年には輝きが強すぎるのだった。
この環希と九十九里はなぜか親しい。冬馬は薄く目を開けて、三段カラーボックスの上に置かれた花瓶を眺めた。可愛らしいガーベラが数本生けられている。焼き菓子と一緒に環希が差し入れたものだ。
といっても、二人が訪れた時、冬馬は強制的な眠りの中にいた。
「……我慢することないのに」
目覚めて最初に見たのは、心配そうな環希の顔だった。その後ろで九十九里がほっとした表情を浮かべている。
「苦しくなったら逆らわずに寝ればいいのよ。この施設の中ならすぐに誰か来てくれるわ。そのためにコールボタン持ってるんでしょ」
彼女の指摘通り、冬馬は常に手首にコードレスの呼び出しボタンを着けている。催眠症の発作で意識を失いそうになった時に押せば、看護師が駆けつけるはずだ。
今日の午前中、冬馬はまさにその発作を起こしたのだが、眠りもせず助けを呼びもせず耐え続けた。症状としての眠気に抵抗すると凄まじい頭痛や動悸に襲われる。廊下の隅に倒れて呻いていた彼を施設のスタッフが見つけて、慌てて病室に運んだ。
薬剤がもたらした眠りは、発作によるそれよりも質が悪い。冬馬はぼうっと視線を彷徨わせ、
「目が覚めるかどうか……分かんないじゃん」
と、呟いた。ちょっと眠くなった――そう言って眠ったきり、二度と目覚めなかった友達の顔が視界にチラついた。ひとつ間違えば、あれは自分だった。そして自分の未来の姿になり得るかもしれない。
深い溜息が聞こえて、九十九里が身を乗り出した。大きくて温かい手が冬馬の額を撫でる。
「心配しなくても、君の体は順調に回復してる。発作の回数だって減ってきてるだろ? 必ず覚醒できるから、余計なことは考えるな」
「それは分かってるけど……」
情けなくて気恥ずかしくて、彼の手を振り払った時、冬馬はもう一対の眼差しが自分を見下ろしていることに気づいた。
二つの宝石のような、丸い目――色はライトグリーンだ。
頭の真上だった。一羽の黒い鳥がベッドのヘッドボードにとまり、じっと冬馬を凝視している。ふくふくした羽毛に覆われた体つきは、図鑑で見知った生き物だった。
「何このミミズク」
「可愛いでしょう。エリーというの」
環希はミミズクの足を掴んだ。鉤爪を備えた両足には銀色のアンクレットが嵌められていて、長いリードに繋がっている。ミミズクはちょっとぎこちない動作で環希の肩に乗った。
冬馬は特に奇異には感じなかった。ミミズクは珍しいが、これまでも施設には様々な動物がやって来た。いわゆるアニマルセラピーという奴で、小動物との触れ合いで意識障害が緩和された例もあるのだった。
「冬馬くんを助けてくれるかもしれない子よ」
環希の言葉は大袈裟だと思ったが、ミミズクの丸っこい輪郭は思わず触りたくなる。身を起こして手を伸ばした冬馬に対し、しかしミミズクは翼を広げて威嚇のポーズを取った。
「かっわいくねえ鳥」
冬馬は憎まれ口を叩いて、ふいと背を向けた。
つらつらと思い出しているうちに眠気がやってきた。
冬馬は寝返りを打ち、体を丸めて瞼を閉じる。大丈夫これは普通の眠りだ、朝になればちゃんと目が覚める。あの洞窟には二度と連れ戻されない――毎晩の習慣で自分に暗示をかけながら、彼は意識を手放そうとした。
ふわっと冷たい空気が鼻先を掠めた。植栽の香りを含んだ、乾いた十二月の夜気である。続いて瞼の上にわずかな光を感じる。
カーテンが開いて月明かりが差し込んだんだな、と半分眠りながら気づいた冬馬は、次の瞬間大きく目を見開いた。
部屋の気温が下がっている。何かの気配が、ベッドと窓の間を移動している。音もなく、空気だけを動かして――冬馬の心臓が激しく打ち始め、うなじに鳥肌が立った。
生き物なのか亡霊なのか分からない気配には覚えがあった。悍ましい記憶と傷に直結している。
動悸とともに耳鳴りがして、頭の中を内側から叩かれるようだった。発作の時とそっくりな、だがそれは恐怖がもたらしたものだった。全身の毛穴が冷たい汗を吹き出す。
そいつの手が――生っ白い石みたいな手が、彼の肩に――。
冬馬はギリギリまで耐えて、一気に布団を跳ね上げた。そいつのいる逆側、ドアの方へと体を捻ってベッドから飛び降りる。
しかしその勢いは、黒いものにぶつかって削がれた。パジャマの胸をドンと突かれる。冬馬は背中をカラーボックスにぶつけて尻餅をついた。ガーベラの花瓶が床で派手に割れた。
侵入者はいつの間にか窓側からドア側に移動していた。まるで冬馬の動きを読んでいたかのように行く手を塞いだのだ。
そいつの手が冬馬の胸倉を掴み、放り投げるようにベッドへ突き飛ばした。
「食い残しの割には活きのいいガキだ」
冬馬にのしかかってきたのは、背の高い黒衣の男だった。
白い髪の降りかかる顔立ちは非常に美しく、気味が悪いほど。その薄緑色の目に冬馬は見覚えがある気がしたが、それよりも口元から覗く牙が正体を決定的にした。
冬馬は恐怖に駆られて滅茶苦茶に暴れた。だが男はやすやすと彼の腕を捻り上げて抑え、体重をかけて動きを封じる。腕をもぎ取られそうなほど凄まじい力で、冬馬は悲鳴を上げた。男はうるさそうに顔を顰めて、それから無遠慮に冬馬のパジャマの裾を捲り上げた。
中に着ていたTシャツまで一緒に捲られて、薄い胸と腹が視線に空気に晒される。
そこに刻まれた三十箇所以上の傷も。
男の冷たい目が、汚らわしいものを見るように細まった。同情や痛ましさの類はいっさいない。
「ふん、これだけやられてよく正気を保てたなおまえ」
呼気も指も氷のようだった。男は冬馬の傷をざっと眺めて、さらに俯せにしようとした。
ケダモノにつけられた痕を同じケダモノに嘲弄されている――常に滾っていた冬馬の怒りが、一気に沸き立った。
一瞬腕の力が弱まった隙を見逃さず、彼は右手を大きく振り抜いた。その拳は避けられたが、握り締めたガラス片が男の頬を掠めた。さっき床に倒れた時、割れた花瓶の欠片をとっさに隠し持ったのだった。
男の白い左頬に朱の線が走る。それはみるみる盛り上がって、すっと顎まで流れ落ちた。冬馬は自由になった右手をもう一度突き出したが、あっさりと捉えられて捻じ伏せられた。
輝きを増す緑色の瞳は、むしろ楽しげだった。ようやくつけた薄い傷は、あっという間に消え失せる。
「もう一つ傷を増やしてやろうか、クソガキ」
「やってみろよ、化け物っ……!」
二度とあんな思いはしたくない。抵抗ひとつできず、化け物に蹂躙されたあの夜の轍は踏まない。
たとえ敵わなくても死ぬまで抵抗してやる!
高揚のあまり血走った冬馬の三白眼が、真正面から男を睨みつけた。恐怖も不安も怒りで捻じ伏せた『食い残し』の少年に対峙して、男の表情に、ほう、という感嘆に似た色が流れた。
突然、部屋が明るくなった、息を吹き返した蛍光灯の光に冬馬の目が眩む。
カツカツという靴音の後、ぺちんと少々間の抜けた音が響いた。
「手を離しなさいこの下等生物!」
男が頭を押さえて冬馬から離れる。開けた視界の中で仁王立ちになっていたのは、環希だった。彼女は手にしたスリッパで、ぺちんぺちんと男を殴った。
「こんな子供を怖がらせて何がしたいのよあなたは!」
「いった……俺はただ傷の程度を確かめたくて……こらやめろ、痛い! こいつ怖がってないだろ!」
男は抗議するが、環希は打擲を止めない。冬馬はベッドから飛び降りて壁際に避難した。パジャマの上着は腹まで捲れ上がったままだ。
「寝込みを襲われて服を脱がされたら怖いに決まってるでしょ! 馬鹿なのエリアス!?」
「脱がせてない! 捲っただけだ」
「おんなじよ!」
環希はひときわ激しくぺちんといわせてから、戻れと命じた。
男はいまいましげに彼女を睨み、冬馬にも一瞥をくれてから、いきなりその姿を変えた。
冬馬は夢でも見ているのかと思った――黒衣の男は黒い霧に変わり、数秒の後、黒いミミズクの形を取って環希の肩に止まったのだった。
ドアの所では、九十九里と、この施設の理事長である惣川とき子が立っていた。九十九里は腰に据えたUVIに手を掛けてはいるが、環希が収めてしまったので出る幕がなかったらしい。
「ごめんね冬馬くん、君の治療のことで理事長と話し込んでいる間に、こいつ勝手に君の様子を見に来たみたい。怖かったでしょう。本当にごめんなさい」
環希に肩を撫でられて、冬馬は大丈夫だと答えようとした。しかしなぜか言葉は出て来なかった。
かわりに喉が痙攣して鼻の奥が痛くなって――。
気が付くと、彼はわあわあと声を上げて泣いていた。
なぜ泣いているのか自分でも理解できないのに、涙が溢れて嗚咽が止まらなかった。
四年前、家族を失い病を得た時でさえ、こんなにはならなかった。心が凍りついたみたいに、驚くほど平静だった。それが今になって――怖かったのか、悔しかったのか、何かが壊れたのか、分からない。さっぱり分からない。
環希が優しく冬馬を引き寄せた。肩のミミズクは舞い上がって学習机の端に止まる。冬馬は彼女にしがみついて泣きじゃくった。
その先何年も、この時の自分の様を思い出す度、彼は頭を抱えて床を転げ回りたくなるのだが――。