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羊飼いのセレネイド ~狼と狩人は闇夜に踊る~  作者: 橘 塔子
閑話 彼の嫌いなチョコレート
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 翡翠の色をした二つの瞳が、妖しく輝きながら揺れている。

 熱を帯びた視線はある範囲を行き来し、動きを止めては、また別の部分へ移る――そんなことを飽くことなく繰り返していた。さながら好みの獲物を見定める猛禽類のようで、彼の種族を熟知している者なら戦慄したかもしれない。


「ねえ……早く……」


 焦れた声は、きぬのものである。もどかしげな響きに釣られて、エリアスは顔を上げた。


「早く決めなさいよ、優柔不断!」


 向かいの席の絹は、呆れた様子で罵った。エリアスはふんと鼻を鳴らして、再びメニューに視線を落とす。絹は溜息をついた。


 甘い物を食わせろと要求し、ファミレスにやってきたエリアスは、デザートメニューを前にかれこれ五分も悩んでいる。スイーツの品数に定評がある店とはいえ、唸ってばかりでさっぱり決まらない彼の態度に絹は苛立っていた。彼女自身はこういった局面での決断が早いタイプである。


「だいたい吸血鬼に味なんて分かるの? 砂糖が入ってれば何でもいいんでしょ」


 嫌味を無視して、エリアスはメニューを吟味した。

 昼間、彼の同僚が彼らの前に現れ、『厄災の声』である絹を排除すると宣言した。そのことについて絹は話を聞きたがっているが、今は空腹を満たすのが先決だった。

 夕食時を迎えたファミレスは、平日とはいえ多くの客で賑わっている。内緒話をするには適度な喧騒だった。今のエリアスは意識的に気配を殺しているので、際立った容姿や異様な雰囲気を人間に気づかれることはない。


「ケーキセットか……期間限定は押さえておきたいが……あんみつも捨てがたい……」

「あーっ、もう私が決めたげる! これねチョコパフェ、チョコパフェでいいよね。決まり決まり」


 業を煮やした絹がメニューを奪い取って、いちばん目立つデコレーションのパフェを指差す。エリアスは露骨に顔を顰めた。


「チョコレートは嫌いだ」

「えっ、あんた好き嫌いなんてあるの?」

「嫌なことを思い出す」


 メニューを取り返した彼が注文を決めたのは、さらに五分が経過した後だった。





 八年前――絹の『厄災の声』に囚われたエリアスが環希たまきと遭遇し、九十九里つくもりによって返り討ちに遭わされて後のことである。


 負傷したエリアスは昏々と眠り続けていた。

 眠りはひどく不快なものだった。深く意識が沈んでいるはずなのに、すぐ近くで誰かの悲鳴が聞こえていた。失ったものを嘆いて泣き喚き、自分を憐れみ、他人を呪う――激しい感情の渦に翻弄され続けていた。流れ込んでくる闇のイメージは彼の暮らす世界よりなお暗く、底が見通せなかった。

 あまりの嫌悪感に時折目覚めたが、体はミミズクのままだった。薄暗い部屋の中で毛布に包まれている。鉤爪のついた脚には金属のリードが結ばれていた。捕えられたらしいと分かったが、心身は弱り切っており、体力が戻るまでは何をしても無駄だと開き直って再び目を閉じる。その繰り返しだった。


 誰かの手がくちばしの中に水を垂らすので、とりあえずそれを飲んで渇きを癒した。糖分が混ざっているらしく、ひどく甘い水だった。

 空腹よりも眠気が勝る。数日間、エリアスはほぼ活動を停止していた。


 それでも、深夜になると呪縛が消える時間が長くなった。『厄災の声』が眠っているのだろう。あの癇に障る叫びも聞こえない。

 ああ生き返った――エリアスは人の形を取り戻し、久方ぶりに手足の感覚を噛み締めた。が、心地よい解放感は凄まじい痛みで断ち切られる。足につけられたリードは銀製だったらしい。本来の姿に戻ると同時に、それは彼の皮膚をぎりぎりと締め付け、触れた皮膚を焼け爛れさせた。


「ごめんね、痛いでしょ」


 環希は頻繁に様子を見にやって来た。その後ろには必ず九十九里が同行していて、黒い銃口をエリアスに向けていた。あの銛撃ち銃ではなく、片手で扱えるUVIである。

 カバーの掛けられた家具と、ラベルのついた木箱が並ぶ、殺風景な小部屋だった。窓はなく、蛍光灯が一つあるだけで自然光は入ってこない。地下の物置か何かだろうとエリアスは推察した。一応マットと毛布は敷かれているが、あまり居心地のいい場所ではなかった。


「これを外せ」


 銀で腐食した足首を指差して言うと、環希は痛々しげに首を振る。


「外したら九十九里くんがあなたを撃つって。この人、吸血鬼を見たら反射的に殺しちゃうの。職業病ね」

「いつまで俺を閉じ籠めておくつもりだ?」

「保護してるのよ。元気になるまでね」


 縛られた足以外、エリアスの体に傷はなかった。矢で射抜かれた骨も肉も内臓も、すでに元に戻っている。しかし皮肉なことに、その急速な再生が、ただでさえ消耗した体力をさらに削り取っていた。

 何を食べさせたらいいのかしらねえと、環希は拾ってきた犬を見るように呟いた。





 惣川そうかわ環希、とその女は名乗った。惣川家現当主の娘であるという。エリアスの睨んだ通り直系の血族だったが、あまり期待しない方がいいわと彼女は言った。


「ご先祖様があなたたちと相互協力の契約を結んだとか何とか、そういう言い伝えは聞いたことがあるけど、未だに有効だなんて誰も信じてないと思う。ええと、八百年くらい前に惣川の人間が吸血鬼を助けたんだっけ? で、あなたたちはその恩を返すって……」

「違う、俺たちの方が殺さずに見逃してやったんだ。その礼として、惣川は子々孫々まで俺たちの求めに応じると……おまえらの方が言い出したんだぞ」


 環希とエリアスの言い分は食い違っていた。どうやら人間側と吸血鬼側の認識に齟齬があるらしい。何か約束を交わしたのは事実だろうが、両者とも自分たちに都合よく解釈してしまっている。


「どっちにしても、今の惣川家はむしろあなたを利用し尽くすわよ。特効薬の素材として」


 環希は古めかしい革張りの椅子に腰掛け、エリアスを失望させる内容を告げた。

 白いロングスカートの膝に乗せた箱から何か小さなもの摘み上げ、口に放り込む。ひとつひとつ黒い宝石のように成形された、それはチョコレートだった。彼女は続けてもうひとつ摘んで、今度はエリアスの口元に近づけた。

 赤いマニュキュアの指先から、エリアスは逡巡なしにそれを食べた。甘みと苦みと、中に入った木苺の酸味は悪くなかった。

 にっこり笑う環希へ、


「今日は九十九里はいないのか?」


 と尋ねる。

 数多い惣川家お抱えの特種害獣捕獲員の中でも、九十九里は特に本家への出入りが多い。数年前に些細なミスを犯したものの、それを埋め合わせて釣りが出る捕獲実績を誇り、惣川製薬社長――環希の父親からの覚えがめでたい。エリアスが捕えられた夜も、新型UVIのデモンストレーションを乞われて、勤務時間外にも拘わらず技術者とともに社長宅を訪れていたのだった。

 その彼の気配が、今はない。


「ええ、実はあなたのお仲間が現れてね……」

「ああ、掟破りの越境者だな。数時間前に穴が開いたはずだ」


 環希は大きな目をさらに大きくした。


「あなた、吸血鬼が『こちら側』に渡ってくるタイミングが読める?」

「イレギュラーなものであれば」


 何やら考え込む彼女の前で、エリアスもまた考えを巡らせた。だいぶ頭が動き始めて、自分の置かれた状況が分かってきた。

 環希の口ぶりから察するに、吸血鬼を捕まえたことを他の人間は知らないのではあるまいか。この部屋に環希と九十九里以外の者がやって来たためしはない。

 事実を伏せる意図は不明だが、つまり、この二人さえどうにかしてしまえば脱出できるのでは――緑色の瞳が爛々と輝き始めた。物騒な企みに勘づくふうもなく、環希は無防備に構えている。


「もうひとつ、どう?」


 違う形のチョコレートを摘んで差し出した。エリアスはその手首を掴む。ほとんど力を籠めなかったからか、環希は抗わなかった。艶やかな粒を口に入れた時指先に唇が触れても、動揺の気配はない。


「……こんなもので体力は戻らない」

「じゃあ何が欲しいの?」

「俺を何だと思ってる」


 エリアスは握ったままの手首を引き寄せた。環希の体は風に煽られた羽のように椅子から離れる。数粒残ったチョコレートが床に散らばった。

 呆気なく組み伏せられた時、彼女は初めて瞬きをした。


「人間の血は、それはもうよく効くんだそうだ」


 至近距離でエリアスの牙を見上げる目は、怯えているというよりも不思議そうだった。


「堕ちてもいいの? クラウストルムのあなたが」

「一度くらいどうということはない。それに、俺は追放された身だ」

「へえ……意外と根性がないのね。買い被りすぎたかしら」


 人形めいた美貌が、可憐な唇に嘲笑を浮かべた。広めに開いたニットの襟ぐりから香気が立ち昇る。エリアスにとっては頭の芯が痺れるような、人間の体の臭いだった。

 吸い殺すつもりはなかった。一口飲んで意識を乗っ取り、やがてやって来るであろう九十九里との取引材料に使おうと考えていた。

 しかし――猛烈な飢餓感がエリアスの意志を揺さぶる。薄い皮膚に浮いた静脈を見ていると、思い切り咬み破ってその中身を溢れさせ、一滴残らず吸い尽くしたくなる。

 込み上げてくる衝動に、彼は低い唸り声を漏らした。


 環希が、あ、と声を上げた。彼女の視線を追うより先に、エリアスの右肩に灼熱の痛みが走った。

 勢いよく噴き出す炎が骨と肉を焼く。勢いで跳ね上がった半身は、そのまま背後の壁にぶつかった。


 目の前にあの男――九十九里(さかえ)が立っていた。部屋に入ってきた彼がUVIの引き金を引くまで気づかないとは、エリアスは我ながら呆れた。感覚が鈍るほど人間の血に惑わされていた証拠だ。


「せっかく治った関節がまた潰れたじゃないか」

「次は心臓だ」


 九十九里はエリアスの傷んだ足首を踏みつけて動きを封じ、環希を助け起こした。


「一人でこれに近づくなと五回は言いましたよね。迂闊にも程がある」


 叱りつけられて、環希は大袈裟に肩を竦めた。


「ごめんなさい。うっかりしてた」

「安全のために犬歯を抜きましょう。歯茎ごと削り取って、銀を詰めてしまえば再生しない。それとも両手両足を切り落としますか?」

「九十九里くん、怖いってば……彼の活かし方、ちょっと思いついたことがあるの。とりあえず、食事をさせてあげて」


 彼女は九十九里をなだめてから、乱れた長い髪を耳の後ろに流す。

 九十九里は不愉快そうに顔を歪めたが、足元に落ちたずた袋のようなものに手を掛けた。緊急事態に気づいてUVIを抜くまで、肩に担いでいた荷物だ。縦についたファスナーを開くと、中身がごろりと転がり出た。

 それは吸血鬼だった。

 雄の個体で、両腿が焼け焦げ、腹の中心に銀色の杭が突き立てられている。しかしまだ胸は上下していて、血泡に汚れた口からは浅い呼吸が漏れていた。


「何の真似だ?」


 そうは尋ねたものの、エリアスはすでに彼らの意図を察していた。濃厚な臭いにゴクリと喉が鳴る。杭が刺さった腹から流れる、血の臭いに。


「好きにしていいよ。ただし、殺すな」


 九十九里は瀕死とも言えるそれをエリアスの方へ押しやった。


「体組織の採集がまだだからね。もし殺したら、君に償わせる」

「横流しか」

「お裾分けだよ」


 今夜捕獲した加害個体を、施設に搬送する前に連れて来たのだ。とんでもない背任行為であり、雇用主に知られたら懲戒は免れないだろう。

 そもそも、数人のチームで捕獲したはずの個体を秘密裏に運び出し、再び元のルートへ戻すなどという芸当、いくら惣川家令嬢の指示とはいえ一介の捕獲員に可能なわけがない。他にも協力者がいるのか――そんな冷静な推理ができたのは後になってからだった。


 その時のエリアスは血の臭いに魅了されていた。

 体力の落ちたところに更なる傷を負い、弱った肉体が回復を求めている。目の前に横たわるのが唾棄すべき咎人であることも、人間から投げ与えられた餌だということも気にならなかった。


「飲んだら、聞いて。あなたに助けてほしい子がいるのよ」


 いつになく真摯な環希の声を、彼は遠くに聞いた。

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